第8話 暗闇

 かすかに聞こえてきた笑い声に、トゥバンはびくりと肩を震わせた。空の月は細く、ほとんど闇を照らす役に立っていない。文字通り一寸先は闇だ。草原育ちの夜目も、前を走っているはずのワンロンを捉えられない。ただ、重い馬蹄ばていの音だけがワンロンの居場所を教えている。


トゥバンは右手にある二本の手綱をしっかりと握りなおした。二本の手綱の内一本はガンザンの馬に繋がっている。こんな暗闇の中でもしはぐれてしまったら、二度と再会することは出来ないだろう。


ふ……と重い馬蹄の音が小さくなったような気がした。トゥバンはワンロンの位置を掴もうと、目を閉じて神経を集中させた。その時


 ン”ン”ン”ン”ン”ン”ン”ン”ン”……


 トゥバンはパッと目を開け、きょろきょろと左右を見た。当然見えるものは闇しかない。闇の奥にいる不気味な唸り声の主が見えるはずもなかった。トゥバンはふと、ワンロンの言葉を思い出した。


『この辺りは農業に向きませんし、猛獣や盗賊も多いので人が住みたがらないんですよ。』


 トゥバンは嫌な予感を感じた。大声でワンロンを呼ぶ。


「――――!」


痺れた口では、ふにゃふにゃした良く分からない叫び声しか出なかった。とにかくワンロンに付いていかなければとトゥバンは再び目を閉じ、耳を澄ます。




 何も聞こえない。トゥバンは目を瞬いて、そんなはずは無いともう一度耳を澄ました。


 ン”ン”ン”ン”ン”ン”ン”ン”ン”ン”ン”ン”ン”ン”


 トゥバンは目を見開いた。唸り声が近付いてきている。どろりとした汗がトゥバンの背中を伝った。二頭の馬が不安そうにいなないた。トゥバンは呼吸が早くなるのを感じながら手綱から手を離し、右手で背中の弓を取り、左手で腰の矢筒から矢を数本引き抜いた。ゆっくりと矢をつがえ、目を閉じ、耳に神経を集中させる。しばらく、自分の呼吸と二頭分の馬蹄の音しか聞こえなかった。唸り声は気のせいだったのでは?と思い始めた頃


 ン”ン”ン”ン”ン”ン”ン”ン……



 トゥバンはッと目を見開き、勢いよく体を捻ると、自分の右斜め後ろに目にも止まらぬ速さで矢を連射した。


「ン”ム”オ”オ”オ”オ”オ”オ”オ”ン”!」


 巨大なうめき声が地を揺らした。空気がビリビリと震える。トゥバンは慌てて手綱を左手で掴んだ。トゥバンが首を捻ると、巨大な影が月のほのかな光に照らされて闇の中に浮かび上がっていた。トゥバンの頭の高さほどもある半球形の影は、その鼻先に数本の矢を生やしてプルプル震えている。トゥバンが馬を走らせながら呆気あっけにとられて見ていると、半球の両脇がピカリと光った。


「モオオーーーーン」


 さっきまでの唸り声とはまるで違う、綺麗に透き通った鳴き声が響いた。トゥバンは思わず手綱を引いて馬を停めた。


「モオーーーーン」


 鳴き声に答えるように新たな鳴き声が響く。また一つ、また一つと鳴き声は増えていき、最後にはまるでガラスのドームの中で合唱しているかのように、美しい鳴き声が四方八方からトゥバンを包み込んだ。やがて鳴き声の残響は虚空に消え去っていく。代わりに四方八方から、ズズ……ズズ……と何かが這いずるような音が近づいてくる。トゥバンは我に返って辺りを見回した。心なしか闇が深くなっているように感じた。嫌な予感がして馬を返し、半球形の影に背を向けたその時、ピカリ、と二つの光が正面の闇から現れた。トゥバンはパッと右を見た。またピカリと二つの光が現れる。トゥバンがキョロキョロするうちに二つの光はどんどん増えていき、最後には完全にトゥバンを囲い込んでしまった。トゥバンの額を冷たい汗が濡らす。二頭の馬が盛んに低くいななく。トゥバンはさっさと逃げなかったことを悔やんだ。


ズズ……ズズ……


数十個の光はじわじわとトゥバンに近づいてくる。トゥバンは深呼吸すると、矢筒から矢を引き抜いた。ゆっくりと矢をつがえ、正面に構える。


「身を捨ててこそ……浮かぶ瀬もあれっ!」


 ヒュンンと音が鳴った。


「ブオオオオオ!!」


 苦悶くもんの声が地を揺らす。常人にはトゥバンが矢を一本しか放っていないように見えただろう。だが、正面の震える光には、三本の矢がしっかりと突き刺さっていた。


「簡単に餌になってたまるかぁ!」


 光の主の苦悶の声にも負けぬ大音声だいおんじょうが夜に響いた。勇ましげないななきもそれに加わる。それを契機に、光が速度を上げてトゥバンに突っ込んできた。トゥバンが再び矢を引き抜き、弓を構えたその時、


「ギャワワン!ギャウッ!」


「ボオオオオオオオオ!!」


 トゥバンの正面の光が勢い良く右へ振られた。怒りの声と吠え声が激しい応酬おうしゅうを繰り広げる。他の光は予想外の襲撃者に戸惑ったように右往左往している。これは好機とトゥバンは四方八方に矢を射った。怒りと苦悶の凄まじい合唱に、トゥバンは目を閉じて耳を押さえた。アォオオオン……と遠吠えが響くと、合唱は薄れていった。目を開けると、正面の真っ黒い影の上に小さな影が乗り、真っ赤な二つの光でトゥバンを見つめている。


「お前……あの時の?」


 小さな影はトゥバンの問いには答えず、背を向けた。トゥバンの方に振り返って促すように一声鳴く。トゥバンは馬の腹を蹴った。真っ直ぐに光の輪の切れ目へ駆ける。そうはさせまいと周囲の影が動き出した。ボオボオ盛んに鳴きながら輪の切れ目へと押し寄せる。だが時すでに遅し。トゥバンは間一髪で動かない影を踏みつけ、輪を抜け出した。ぶよぶよと安定しない足場を飛び降り、吠え声を追って駆ける。


「ブモオオ!!」


 影達が怒りの声を発し、押し合い圧し合いしながらトゥバンを追いかける。トゥバンは追い付かれまいと必死に馬を駆り立てた。だが、一日中動き続けていた馬達はなかなか速く走れない。トゥバン達は怒りの声にじわりじわりと距離を詰められていく。トゥバンはふと、遠くから馬蹄の音が聞こえたような気がした。顔を上げる。と、遥か彼方に光が見えた。揺らめく、暖かい光だ。前を走る小さな影が一際大きく


ワン!


と吠えた。それに答えるように、おお――い、と人の声が夜を渡ってきた。今度はしっかりと馬蹄の音が聞こえる。トゥバンは安堵で涙が出そうになった。馬蹄の音と揺らめく光はどんどん大きくなり、闇の中から松明を掲げた騎馬武者が姿を現した。


ワンロンだ。


 焔で赤く染まったワンロンの顔は、まるで地獄の門を守る鬼神のように見えた。トゥバンは安堵で涙が出そうになりながら手綱を引いた。


「ワンロン――」


「トゥバン殿、これを持って頂いても?」


ワンロンは松明をトゥバンに渡すと、迫る影達の方へ風のように駆けていった。トゥバンは呆気にとられてワンロンを見送る。ワンロンの背中は静かな怒りの炎に包まれていた。影達が邪魔をするなとばかりに吼えたてる。ワンロンが馬を止めた。


「……黙れ。」


一瞬にして吼え声が止んだ。刃のように鋭く冷たい殺気に、トゥバンの息が止まった。ワンロンが馬からゆっくりと降りる。カチャリ、カチャリ、と小さな音を痛いほど響かせて、ワンロンは大刀を鞘ごと腰から外す。そして彼はゆっくり、ゆっくり、一つの影に歩み寄っていった。


「シッ」


轟音。巨大な影がくるくると数秒空を舞い、


ズゥウン……


と地に墜ちた。トゥバンは一拍遅れてワンロンが大刀で影をひっぱたいたのだと気付いた。


「……帰れ。」


そう言ってワンロンはくるりと影達に背を向けた。ゆっくりと馬に歩み寄り、跨がる。そしてトゥバンに近寄ってくると、


「行きましょう。」


にこりと笑ってそう言った。空気があっという間に溶けていく。トゥバンは大きく息を吐いた。


「俺は……死ぬ前に鬼を見たのかな。」


「いやあ、鬼はもっと恐ろしいですよ。」


ワンロンは笑顔のまま手綱をピシリと鳴らした。トゥバンは慌ててあとを追う。去り際にちらりと後ろを見ると、大きな影が一つ、また一つと闇の中に帰っていくのが見えた。



 二人が三里ほど行くと、大きな岩が現れた。岩の裏から、子狼が飛び出してきた。無事を喜ぶかのようにワンワン吠えてワンロンニ飛びかかった。


「うわっ!ちょっと待て!」


ワンロンは顔を盛んに舐められて困った顔をしている。トゥバンは顔をほころばせて岩の裏に馬を進めた。


 そこには岩の上から地上にかけてテントが張られていた。その中でガンザンが一人、蒼い顔をして火に照らされている。トゥバンは馬から降り、ガンザンのもとに座った。


「無事で、良かった。」


 ガンザンが引き吊った笑顔を向ける。


「ガンザンは大丈夫なのか?」


「……なんとか。……馬は?」


「両方無事だ。」


 ガンザンの目が大きく見開かれ、口がぽかんと空いた。


「両方?」


 ガンザンの顔がくしゃくしゃになった。力強くトゥバンの手を両手で握る。


「ありがとう……ありがとう……」


 驚いた顔のトゥバンの前で、ガンザンはありがとう、ありがとう、と、繰り返し繰り返し唱え続けた。

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