第43話 東神春明の回想
幼い頃、僕には二歳年上の優しい兄がいた。
何処に行くにも、よく兄が手を引いてくれていたのを思い出す。
「春くん今日はなにしてあそぶ?おりがみしようか?それともお庭で砂遊びする?」
いつもそんなふうに優しく語りかけてくれた。
僕は兄が大好きだった。
兄は身体が弱く、いつも母が気遣ってあまり外に出さないようにしていた様に思う。
小学校に行く様になっても、登下校は家の車で送り迎えで、何をするにも母が兄の体調を気にしていた。
「翔ちゃん、気を付けないと怪我をするから、走ってはいけません。春くん、お兄ちゃんの手をあまり引っ張ったらダメよ」
正直、僕たちにくっついて歩く母は煩わしかった。
そして、子供心にも、母の僕に対する態度と兄に対する態度がなんとなく違うという事を嗅ぎ分けていた。
兄に冷たい態度をとるというのではない、逆だ。
今思えば、母は兄に母親としてというよりは、乳母のように献身的に接していたのだと思う。
母は兄の母ではないという事を僕はそのころ知らなかった。
そのあまりに、僕はどちらかというと母に放置されてぎみだったのだろう。けれど、家で働く人や父が兄と同じように僕を可愛がってくれたし、何より兄が僕を可愛がってくれたので、全く気にしていなかった。
僕は兄が亡くなってから、実は異母兄弟だったという事を知ったのだ。
母は兄にとっては義母だったのだ。兄がそれを知っていたのかどうかは知らない。だけど兄は母が大好きだったと思う。
「お母さん、いつもありがとう」
何かを母にしてもらうと、嬉しそうに兄は母にそう声をかけていたのが不思議だった。
僕からしてみれば、お母さんだからふつうだと思うような事でもそうだった。
やはり、兄は知っていたのかも知れない。
兄は母の亡くなった姉の子供だった。いつだったか小さい頃に、仏間の長押の上に並んだ先祖の額縁の遺影の中にある兄とよく似た面差しの女の人が気になって家政婦の昌さんに誰なのか聞いた事があった。
「・・・御親戚の方ですよ」
困った様な顔をしてそう言った。
今ではその横に兄の遺影が並べられている。兄妹か親子だと分かるほどにそっくりだ。
兄が亡くなった八月十四日から僕は熱を出し寝込んだ。お葬式は翌日の仏滅をに行われた。友引は避けるけど仏滅でも葬式はするらしい。
僕は錯乱していた。母が近づくと癇癪を起し暴れるので、傍には来なかったようだ。
周りの人達は、悲しい事が起きたのだから、僕が母にそんな態度を何故とるのかなど聞いて来る者などいなかった。幼いから当たり前だと思われたのだ。けど、もし、どうしてそんなに暴れるのかと聞かれたとしても答えることなど出来なかっただろう。
悲しくて恐ろしい・・・
あの情景がぐるぐると繰り返されて、まともではいられなかったのだ。
翌日、まだ熱が高かったけど、父に、「もう最後だから、お兄ちゃんに会って来ようか?」と言われた
父に抱きあげられて、花の中に埋もれて眠る兄に会いに行った。
『最後だから』という言葉がやはり頭の中でぐるぐると回っていた。
今でもはっきり思い出すことが出来る。白い小さい顔に死に化粧を施され、少女の様な綺麗な兄の顔。
僕は父の腕の中から暴れて下に降りて、棺桶に縋った。
「おにいちゃん、おきて!、おきてよ、おにいちゃん!おきて!おきて!おきて!」
周りの人が僕につられて泣き始め、父は僕を掬い上げて子供部屋に連れて行った。
あの日から僕は誰も信じられなくなりました。
誰の言葉も聞こえるだけで心に入って来ないのです。
何もしたくありません。
何も見たくありません。
息をするのも嫌です。
もしかすると、兄が僕を呼ぶ声がするのではないかと耳をすませますが、聞こえません。
僕は兄の声が聞きたくてたまりませんでした。
それでも死ぬことも出来ず、ただ生きているしか出来ないのです。
生きていることがもうしわけないと思う反面、死ぬことも恐ろしいのです。
何とか興味を惹こうと父が僕に与えてくれたパソコンやゲーム。引きこもってそんなのばかり触っていた。
母は徹底的に無視した。あの時の事は何度も夢に見た。頭がおかしくなりそうだった。
いやもうおかしいのかもしれない。
もしかすると幼い自分の間違った記憶なのかもしれない、そんな風に思おうとしたけど無理だった。
時折母にまとわりつく黒いモノが視えるのだ。あれは何だろう。やはり自分の頭がおかしいのだろう。
そんな頃、学校にも行かず家にいる僕に、父が言った。
「春明、外に出て仕事をしてみないか?アルバイトだとか、一人暮らしをして見るのもいいかもしれないぞ。人生は長いんだ。好きな事をしてみたらいいと思う。若いうちに何でも経験してみるといい」
父は引きこもっている僕にいつも話しかけて来てくれた。いつもは返事も出来ないけど、その時は何故か外に出てみようと思えたのだ。何も出来ない何もした事がない自分が、何かを初めてやってみたいと思った。
地元の
もし住むのならワンルームマンションがいいと頼んだのだ。
生活の事は、パソコンや携帯があればなんでも調べられるから、何とかなると押し切った。
コンビニもあるし、どうにでもなると思った。
とにかく家から出たいと思う一心で、外に飛び出たのだ。
父からは何かあれば必ず直ぐに連絡するように言われた。
自分では何も出来ず、全部父が用意してくれた物を享受して生きて行くだけの僕なのは分かっている。
道の駅のアルバイトも父が知り合いに頼んでくれたようで、皆親切に仕事を教えてくれた。
物を運んだり、お金の計算するのは気が紛れる。掃除をするのも嫌いじゃない。
でも、初めて息が出来るような気がした。
ふつうに息ができた。ただ、生きてくだけがこんなに苦しいなんて、自分は知らなかった。
そうして、新しい生活に慣れてきたころ、道の駅のアルバイト先で、興味を惹かれる女の子に出会ったのだ。
なんだろう、暗闇の中に灯るようなうすぼんやりとした小さな明かりの様だった。
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