廬山は煙雨 浙江は潮

@MasatoHiraguri

第1話 廬山は煙雨 浙江は潮

 廬山は煙雨 浙江は潮

 40年前の日大フェニックスとは、当時、私が専大のアメリカンフットボール部の友人から聞いた話からすると、(こちらの大学の日本拳法部と同様)非常に恐ろしいイメージを持つ集団でした。

 しかし、その恐ろしさとは、日本人の美徳が姿を変えたものなのかもしれません。


 昭和50年代、東京・杉並は下高井戸にある、日大フェニックス合宿所での夕食風景。

 ごつい身体をした選手数十名が、数列の細長いテーブルに向かい合い 、黙々と飯を食っています。上座で学生たちの方を向いて座る篠竹監督は、きょう関東の○○学院大学との試合に73対3で大勝したにもかかわらず、すこぶる機嫌が悪い。

 この監督は「学院」という名前が大嫌いなのです。早慶が互いにライバル意識を持つ、なんて生易しいものではありません。アメリカンフットボール関西の雄、○○学院大学とは、当時の日大が常に日本一を争う宿敵であり、監督にとっては親の仇にも匹敵するほど憎らしい存在でした。ですから、「学院」という名がつく学校に、たとえフィールドゴール1回とはいえ、3点も取られたことに我慢できないのです。

 二杯目を食うころになっても、大勢の男たちがひしめき合うこの食堂では、箸の音ひとつ聞こえません。それはまるで、汁碗の縁(ふち)を歩く「ハエの足音を聞き」ながら食事をする、禅寺の雲水たちのような静けさです。


 食卓についた時から怒りで顔を真っ赤にし、独りでぶつぶつ呟いていた監督は、突然、「お前だ ! 」と大声で怒鳴るや、目の前にある(南部鉄製のずっしり重い)灰皿を、数人先の学生に向かって投げつけました。

 ショットガン生みの親が投げたボールならぬ鉄の塊は、灰をまき散らしながら、 「ゴツッ」という鈍い音と共に、ヘルメットをかぶっていないDF(ディフェンス)の額を直撃したあと、数メートル先の飯櫃(めしびつ)に当たって畳の上へ転がりました。額からは、日大フェニックスのユニフォームと同じ真紅の血が勢いよく「ピューッ」と吹き出し、対面に座る選手の顔を濡らし、丼の白米をみるみる鮮やかな赤飯に変えていきます。

 しかし、監督と血まみれの二人、そして灰を被った学生たちを含む全員が、従前と全く同じ姿で、黙々と飯をかき込んでいます。


 食堂の壁には、

 廬山は煙雨浙江は潮(ろざんはえんう、せっこうはうしお)

 未だ到らざれば千般恨み消せず

 到り得て帰り来れば別事無し

 廬山は煙雨浙江は潮

 という、もっぱら禅における悟りの境地について引用される、蘇東坡の詩が掛かっています。

 数分後、食事を終えた監督が独り出て行くと、噴水が止まり、今度は顔面を伝わり顎(あご)から血が垂れ流し状態になっていた学生は、箸と丼を持ったまま、白菜の漬け物が盛られた大皿にパタリと顔を埋めました。

 阪神淡路大地震のときでさえ坐禅を続けたという修行僧以上に、恐怖や怒りや悲しみを超越した、まさに死を覚悟したサムライたちの、凄まじいまでもの集中力といえるでしょう。


 翌朝、グラウンドでは、いつものように、篠竹監督の怒号と学生たちの元気のいい声が聞こえてきます。隣接する建設現場では、紫髪や金髪にニッカボッカ(職人さんの穿くだぼだぼの作業ズボン)姿で筋肉モリモリの男たちが、これまたいつものように「まるでケンカだよ」とか「よく死なねえな」などと、足場の上でタバコをふかしながら小声で呟き、「静かに」学生たちを眺めています。(工事が始まった頃、あまりのハードな練習に驚き「おいおい、可哀相じゃねえかよ」と、ひと声叫んだところ、「大きなお世話だ」と学生たちにボコボコにされたからです。)

 もちろん件(くだん)の学生も、日本拳法と同じく重いプロテクターをつけて別事無し。いつもと変わらず、いや、いつも以上に激しいぶつかり合いをしています。野球ボールのように膨らんだ紫色の額に、小さなバンドエイドを貼って。

 禅の高僧臨済は、警策(木の棒)で師にしたたか打たれてのち、悟りを開いたといいますが、彼もまた、何か吹っ切れるものがあったのでしょうか。

(この話は、40年前に友人から聞いた話を思い出して書いた、創作・フィクションです。登場人物や学校についての事実を、必ずしも正確に伝えるものではありません。)


 これは確かに恐ろしい話です。しかし、見た目は恐ろしくて残酷ですが、「イジメ」や「虐待」では 、決してない。私たちが称賛する「愛」と「闘争心」、「信頼」と「協調」の精神が、極めて日本的なスタイルによって表現されているに

 すぎないのです。

 篠竹監督も学生たちも、全員が「甲子園ボウルで勝つ」という目標に向けて心をひとつにし、必死になって自分や敵と戦っていた。みな自分で自分の心にドライブをかけ、死と隣り合わせの真剣勝負をしていたのです。「イジメ」などやってる暇はない。そんなものに心を押しつぶされていては、(命をかけた)試合に勝てないのですから。

 荒くれ者が多い(昔の)飯場の職人さえ地獄と見た、日大フェニックスの過酷な練習に明け暮れる毎日とはしかし、モーゼに率いられた人々が苦しい砂漠の旅をしていた時と同じく、仲間との強烈な目的意識と、指導者に対する絶対の信頼感による心の一致がもたらす「天国」だったのかもしれません。


 人の幸せをその精神性に求めた偉大な作家、ドストエフスキーはいいました。「コロンブスが(真に)幸福であったのは、彼がアメリカ大陸を発見した時ではなく、それを発見しつつあった(苦しい航海の)時だ」と。

 彼らの集団行動とは、もちろん宗教ではなかったし、強制収容所とも違っていた。精神的に自立した大学生が、自由ではつらつとした健康な明るさの中で、戦いと協調という矛盾した精神をいかに合理的に発揮するかという学びを、教室で教えてもらうのではなくグラウンドや合宿所で、お仕着せの教育ではなく自分たち自身のスタイルで行っていたのです。

 形而上的な意味での「(1970〜8 0年代の)日大フェニックス」とは、類まれなる闘争心と徹底した犠牲と協調の精神、そして、いかに敵に勝つかという目的意識における驚異的な集中力がもたらした真のブランドであり、美しい雪の結晶のように、純粋な努力の精華でした。


 戦いにおける勝利と敗北とは、紙の裏表。究極の一点では、コンマ一秒、1ミリという紙一重の差で天国と地獄に別れる。そしてこの分水嶺を超えるのは、知性や技術・体力以上に、それらを活かす精神力(気合い)にかかっているということを、私たち日本拳法人は身をもって学んできました。

 試合前の強烈な緊張感を自由闊達な攻撃ができる柔軟な心に開放し、敗北への恐怖を勇気と自信に変える。その精神的な鍛練を、フェニックスの面々は、まるで僧堂における禅坊主のように、常住坐臥、毎日の生活のなかで行っていたのです。


 アメリカン・フットボールというのは、決まった方程式をその通りに実行すれば、誰でもある程度の成果が出せる。野球では絶対と言っていいくらい勝てない東大が、アメリカン・フットボールではそこそこ勝てる、というのはそういうことです。

 優れた知性と体力を持つ「ロボット」一人一人が機械の部品のように、決められた役割分担のなかでプログラム通りどこまで機能できるか。パスプレーにしても、走る距離とパスするタイミング、受け取る位置はきっちり決められている。

 だから、完璧な部品として機能しない者は、即、別の部品と交換される。約1.5時間の試合における攻撃のパターンはあらかじめプログラム化され、それをコーチの指示によって忠実に実行する。


 このあまりにもアメリカ的な「戦争ゲーム」に対し、独立した感性を持つ「人間」全員が以心伝心という強力な絆で連携し、精神力で敵を乗り越えようというのが日大スタイルでした。

 何人かのレシーバーが散弾銃(ショットガン)の弾丸のように一斉に飛び出し、その誰にどのタイミングでボールを投げるかは、一瞬のスキを衝いたアドリブで決める。「アドリブ」といい、気まぐれではない。コンピューターのプログラムによる機械的な必然性ではなく、人間が持つ「自然の摂理ともいうべき必然」の通りに生きた組織が機能する。西洋的な技術ではなく日本的職人芸によって、柔軟で個性的な動きで敵を翻弄する。これはチーム全員の心がつながっていないとできない芸当であった。


 日大フェニックスの行っていた、一日に10数時間の練習とは、型(フォーメーション)を覚えるだけでなく、技術を使いこなす為に必要な個人の精神力と、連係プレーで勝つことを目指した全員の心の一致を目的としていた。数十人の学生の心を類まれなる指導力でまとめ上げ、強力な精神力によって、いかにも日本的なスタイルを完成させたのが篠竹監督でした。

 ボールを持つ人間を生かすために、全員が死ぬ覚悟で突進する。数式通りに動きながらも、積極果敢に機を見て、自分で死にに行く。

「何が飛び出すかわからない」。

 日大(のショットガン)が他と違うのはそこにあった。だから、当時の日大の試合は面白かった。日本でいま一つ人気の出なかったこのスポーツを面白くしたのは、日大フェニックス最大の功績でしょう。


「心で勝つ」とか「精神力」というのは、日本では会社でも学校教育でも廃れてしまっていますが、アメリカでは今も健在です。

 たとえば、ハーバードやMIT出身の一流企業の経営者でさえ、否、そういう知性の塊のような人間であるからこそ、数人のチームで一週間かけてゴムボートで急流を下るというような、単純且つ泥臭いトレーニングをして精神を鍛えている

 。目的地に着くまで藪の中で野糞をし、急流の中で必死に櫂をあやつり、助け合ったりケンカをしながら、ケガや命の危険を直(じか)に感じ、知識や情報ではなく、人間として根源的に備わっているはずの、野生の本能を呼び起こそうとするのです。

(その意味で、痛くて苦しい日本拳法とは、知識でおでこが膨らんだエリートたちが、少し血を抜くために(その知識の量に見合う精神性をつけるために)行うべき、日本的な「急流下り」となりうるのかもしれません。知識や学歴から開放され、3分間、思いっきりケモノとなりクレージーになって殴りあうことで、社会的な人間ではなく、本来の人間としての野生の本性を甦らせることができるでしょう。)


 今の日本には、「のび太」のような気迫のない人間が、公務員でも民間企業でも「エリート」として権限を持つ地位に就いている。気弱だが権力だけは持っている。そんな日本人が「ジャイアン」というあだ名のアメリカにいじめられ、「スネオ」という(虎の威を借る)韓国人にたかられ、優しくしてくれるのは「しずかちゃん」という台灣人だけ。「ドラえもん」という技術力だけが頼みの綱。

 もっとも、「のび太」に「日大フェニックスの精神」が宿れば、もともと技術力は世界一なのですから、日本は「スーパーマン」になってしまうでしょうが。


(40年前の)「日大フェニックス」とは、アメリカン・フットボールという、技術や体力を計量化し人間を数値化して管理する、いかにもアメリカ的なスポーツに打ち込まれた「日本的精神」という楔(くさび)であり、日本がアメリカ化していくことに対する日本人最後の抵抗と復活への信念であったのかもしれません。

 私たち日本拳法人は、武道という世界、日本拳法というアプリケーションを通じ、「死ぬ覚悟で戦い、且つ生き残る」という真のサムライのもつ精神力と、日本人らしい柔軟で豊かな発想(文学力)による、個性的でクリエイティブな戦いを見せてくれた「日大フェニックスの精神」を、私たちなりのスタイルで追求していきたいものです。


2015年8月15日 V1.1リリース

2016年12月1日 V3.1リリース


平栗雅人

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