真実を暴くのは探偵ではなく科学
先日、買い物をしたときのこと。お会計の際に紙幣一枚と端数の硬貨数枚をレジの店員さんに渡したら、「これ、違いますよ」と言われて五円玉一枚だけを返された。
いったい何が違うというのだろうか。表示された金額通りにお金を払ったはずだ。まさかまた消費税が上がってその変化に私が乗り遅れているだけなのか。
こんな算数の計算もできないなんて、お前はいい歳した人間と呼ぶには違い過ぎる別の生き物だということなのか?
などとくだらないことを考えつつも手元に返ってきた五円玉をまじまじと見ているうちに、やっと意味がわかった。
私が差し出したこれは五円玉ではなく、昭和十三年に発行された十銭硬貨だった。
ぴんと来ない方もいるだろうが(私も実物をちゃんと見るのはこれが初めてだった)、アルミ青銅の十銭硬貨というのは色も金色に近く、真ん中に穴も開いており大きさもほぼ変わらないので、現在の五円玉硬貨と非常に酷似している。もはや双子の兄弟と言ってもいい。
もちろん表面に描かれている花や値打ちは十銭硬貨のもので、中央に開いている穴も五円玉と比べるとわずかに小さいので注意深く観察すれば判別はつく。
とはいえ、ほとんどの人はわざわざ自分の財布の中にある硬貨を一枚一枚確認などしないだろう。現に私もそうだ。
そもそも、縁もゆかりもない十銭硬貨が身に覚えもなく私の財布に入っていたことこそがその証拠なのではないか。
この十銭硬貨は今まで気が遠くなるほどの長い間、五円玉のふりをして数々の財布の中を渡り歩いてきたのだろう。
払う側も受け取る側もみなこれを五円玉だと思い込み、まさか十銭硬貨であると疑われることもなく経済の中の生きた化石として活動してきたのだ。
その間だけは、確かにこの硬貨の価値は十銭ではなく、実に五十倍もの五円として扱われてきたのだ。
しかし、その旅にも終わりが訪れた。
レジで手渡しの支払いならば客も店員も気づかずに問題なくこれまで通り五円玉として認識されたのだろうが、今や令和。そうは問屋が卸さない。レジでの支払いの計算も人間がレジスターからお釣りを掴み取って用意するのではなく、レジスターに直接お金を投入して自動的にお釣りが排出される時代だ。
正確無比な機械は当然十銭硬貨を五円玉としては認めることをよしとしなかった。
そこでようやく十銭硬貨のメッキが剥がれ、正体がばれたというわけだ。
かくして十銭硬貨は硬貨としての現役を退き、今は私の手の中にある。
思えばずいぶん長い残業をしてきたのだろう。
これからはもう、自分の値打ちを偽って人を欺かなくてもいいのだ。
十銭硬貨はやっと五円玉の呪縛から解放され、足を洗ったことになる。
ただ惜しむらくは、十銭硬貨が足を洗ったことで、私の財布から五円分のお足が去っていったことだろうか。
たかが五円、それも本来は十銭ごときをけちけちするなと言われるのは当然承知の上だ。私とてそこまでもったいないとは思っていない。
けれども一円を笑うものは一円に泣き、五円を笑うものはその五倍泣くことになる。ならば、もし十銭を笑った場合はいったいどう泣けばいいのか。
その悲しみが想像できないゆえに、私には十銭を笑うことはできない。
それに、私の元に十銭がやってきたのは、まぎれもなくご縁以外の何物でもない。
だから私はこのご縁を大事に手元に置いておこうと思う。
十銭硬貨は遥かなる自分探しの旅を経て今、ついに本来の自分の価値を取り戻したのだから。
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