第61話 幻影(9)

「……猫に引っ掻かれたんだよね?」


 その露出した手首には、確かに傷が一本水平に走っていた。


「彼と喧嘩したときは、猫に付けられた傷が……。確かにあったんです……」


「……どういうこと?」


「だって、こんなところに傷があったら、お客様の髪なんて洗えないじゃないですか」


「……何を言っているの?」


 後輩の言葉から感情が消えてしまった気さえした。淡々と冷たく他人事のように話しながら、虚に泳ぐ瞳は大きく開かれて、見てはいけないような危うさに不安が押し寄せた。


「……手、離してもらって良いですか?」


 何も言えずに彼女の腕を離した。


「彼も手首の傷を見て、リストカットを疑ったんですよ。それで、余りにしつこく心配してくるから。何があっても君が好きだからって言うから……。彼も嘘ばっかり……。でも、思い出の中の彼は優しく笑っているんです、会いたいよ……」


「私は!もう疑ってないよ!何があっても私は!あなたの味方だよ!」


「ううん、もう良いんです。金魚掬いの彼と……。幸せになって下さいね」


 そう寂しそうに言いながら、灰色のカーディガンを脱ぎ捨てた。可愛らしいピンク色した半袖のインナーシャツ、肩が出るようにゆっくりとまくられた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る