2話


「ここの数字を、ここに代入して……。そう、それで良いよ。どう、美緒さん、分かる?」


「うん。大丈夫、分かると、思う……」


 慧が身を乗り出し、美緒のノートに走り書きをする。小さく几帳面な、まるで女子のような文字だ。慧は計算のポイント、注意点を書き記していく。


 授業の時はちんぷんかんでも、こうしてゆっくりと一問ずつ教えてもらえると、理解が深まる。


 元々、地頭は良い方の美緒は、飲み込みも早かった。進学校に入れるだけのポテンシャルはあるのだ。途中で落伍したといっても、少し努力すれば、人と同じラインに立つことくらいは出来た。


「慧君、ここは?」


「ん?」


 慧の反対側に置いてあるテキストを見ようと、上半身を乗り出してくる。


 慧の横顔が、目の前に迫る。少し幼さの残る表情。白い肌、透き通り汚れの知らない宝石のような眼差し。色素の薄い唇は綺麗で、わずかに湿っている。見つめていると、思わず手を伸ばして触れたくなってしまう。


 美緒は息を止め、慧の横顔を見つめていたが、すぐに我に返ると、テキストに視線を落とした。


「ここはさ……」


 慧は美緒の事を気にせず、ノートにポイントを記していく。


「美緒さん、これを見て分かる?」


「うん……」


 美緒は照れを隠すように顔を伏せ、ノートにペンを走らせる。


 慧の肘が美緒の肘に当たる。暖かい。ほんの少し触れあうだけで、慧の温もりが伝わってくる。心が落ち着くのが分かる。まるで、暖かい布団に包まれて眠る時のように、美緒の心は凪の海のように落ち着いていた。


「やっぱり、美緒さんは筋が良いね。僕なんかよりもずっと」


「え? そんな事ないよ。私なんて、全然勉強についていけないし」


「僕もだよ。ついて行くのがやっとなんだ。だから、塾に行ってるし、勉強だってしている。それで、これだからね」


「違うよ。慧君は、そうやって、努力が出来る人だから。だから、凄いんだよ」


「そうかな?」


「私は、そう思うよ」


 慧が照れくさそうに笑うと、心の奥がむず痒くなる。


「じゃあ、次はこれを教えて」


 もっと慧を感じていたい。


 美緒はぐっと体を慧へ寄せると、慧は少し顔を赤らめながらも、丁寧に美緒の質問に答えてくれた。




『ええ!? 美緒、勉強してるの?』


「うん。テスト前だから。それに、この間みたいにみんなに負けるのは、ゴメンだから」


『真面目! どうしちゃったの? あの、偽物カレシの影響?』


 偽物カレシ。美緒は両手でスマホを包み込むようにして、詩織の声が漏れないようにする。


「違うって、そんなことじゃないって」


 同じ『しおり』でも、図書委員の上倉栞と、友人である山崎詩織ではここまで性格に差があるのか。美緒は辟(へき)易(えき)しながら、「テスト前に勉強するのがそんなにおかしいこと?」と、不機嫌に吐き捨てる。


『そうじゃないけどさ。今日は克己や昌利とカラオケ行こうと思っていたのに』


「いけば良いじゃない」


『私一人で、二人の相手するの? 体が持たないよ……』


「体が持たないって、詩織、何をするの?」


『それは、ナニをするのよ』


「え?」


 一瞬、体の芯が冷えた。「ナニ」と言うのは、セックスの事だろうか。


『克己、美緒の事を気に入ってるから、来てくれると喜ぶんだと思うけど』


「ちゅっと詩織、あなた何を言ってるの? 本当にする気?」


『最近、なんとなくそういう雰囲気になってね』


「そんな気楽に……」


 ほぼ毎日、美緒達は一緒にいる。放課後は慧と過ごしている為、三人が何をしているか知らなかった。


『別に良いでしょう? 私たち、高校生なんだし。ちゃんと避妊もしてるし。それに、美緒だってパパさんと良いことしてるじゃない』


「それは……」


 心臓を握りしめられたかのように、呼吸が出来ない。確かに、詩織には圓治の事を告げていたが、改めて言われると、凄まじい罪悪感が襲ってくる。


『まあ、私の場合はお金もらえないけどね』


 ケラケラと、詩織の笑い声が聞こえてくる。


 良くないこと。だけど、否定する言葉を美緒は持ち合わせていない。


「詩織、よく考えた方が……」


『大丈夫大丈夫。私も結構楽しんでるし。カラオケでやると、誰かに見られるかも知れないから、凄く燃えるのよ』


「…………詩織!」


 怒りが込み上げてくる。一度墜ちてしまえば、そこから這い上がるのは難しい。それは、美緒がよく知っている。救いようのない闇の中、そこで藻掻くのは自分一人で十分だった。


『なによ美緒、私に説教? そんな立派な人間じゃないでしょう? 私も、美緒も。じゃ、私は楽しんでくるから、後で合流する気になったら、連絡ちょうだい』


「ちょっと! 詩織……!」


 通話は切れてしまった。美緒はため息をついて、額を抑える。


 何かが違ってきている。今までしっかりと噛み合ってきた歯車が、噛み合わせが悪くなり、異音を上げてなんとか回っている感覚。


「お待たせしました」


 目の前に、アイスティーが置かれる。大きなガラスポットの中には、色取り取りのカットフルーツが浮かんでいた。


「慧君……」


 美緒は、バイト姿の慧を見上げた。白いシャツに黒いエプロンを身につけた彼は、黒い帽子をかぶり、少し大人びて見えた。


「どうかした?」


 慧に問われても、答えられる内容ではない。


「ううん。ちょっと、詩織から電話で、何でもないの。ただの雑談だから」


 美緒は礼を言うと、ペンを持ってテキストに向き直った。


 テスト前、最後の休日。美緒は勉強道具を持って、『Rayons de soleil(レヨン ド ソレイル)』を訪れていた。


 自宅での勉強も考えたが、あのヒステリックな母親がいる自宅で勉強する気にはなれなかった。本当は、図書館でも行こうと思ったが、慧はバイトをしていると言うので、電車に乗ってバイト先まで来たのだ。


「慧君は、勉強しなくても平気なの?」


「うん。僕は、夜やるから」


「そう、テスト前なのに、大変ね……」


「どうしても、欲しいものがあるから、少し働かないと」


 慧は笑うと、トレーを抱えてカウンターへ戻っていった。


 慧の言う欲しいもの。何度聞いてみても、慧は笑ってはぐらすだけで、教えてくれない。


 人は大なり小なり、秘密を抱えて生きているのかも知れない。


(だけど、詩織……。超えてはいけない一線というのが、私たちの中にはあるの……)


 本当に、詩織は克巳や昌利とセックスするのだろうか。彼女なりのキツいジョークだと思いたいが、心の中で、それが本当のことだと言っている。


 美緒に詩織を止める事は出来ない。詩織を止める事が出来るのなら、自分自身を制止できたはずだからだ。



『狂ってきたわね』



 声が聞こえた。驚いて振り返ると、あの『少女』が後ろの席に座り、頬杖を突いて窓の外を見つめていた。


 

『狂ってきた、というよりも、正常に戻りつつある、というのかしらね』



 『少女』は独り言のように呟く。


 カランッ……


 入り口に設けられているベルが鳴った。一瞬、美緒の注意がそちらに逸れた。再び振り返ると、『少女』の姿は消えていた。

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