6話

 駅前は混雑していた。


 照りつける太陽の日差しは強く、小走りで駆けた美緒はうっすらと汗を掻いていた。立ち止まり呼吸を整えるが、少し立ちくらみがする。暑気にあたったのかも知れない。


 駅前広場に設けられたミストの下に行きながら、スマホを取り出し慧にメッセージを送る。


 噴霧されるミストは冷たく、少し香りがついていた。森林を思わせる香りだ。


 慧からの返事はすぐに来た。


 もう近くに居るらしく、こちらに向かっているとのことだ。


 美緒は頭を巡らせる。


 慧の姿は見当たらない。


 彼は、どんな服装で来るのだろうか。


 珍しく緊張している。


 これから、慧と長い時間を過ごす。一体、慧と何を話せば良いのだろうか。学校帰りなどは、記憶に残らない程の他愛のない話をしている。だけど、今日はそうも行かないだろう。何かしら話題を用意しないといけないかも知れない。


「ハァ……ハァ……」


 その時、隣で少し荒い息づかいが聞こえた。距離にして、一メートルと少し。


 黒いスキニーのパンツに、白いTシャツ、それにチェックのアウターを羽織っている。ハイカットの赤いスニーカーがワンポイントを添えていた。


 慧だ。彼はこちらに気づかず、周囲を見ている。こちらを一瞬見たが、すぐに視線を違うところに走らせている。彼はスマホを取り出すと、何かメッセージを打ち込んだ。


 ポンッ


 すぐに美緒のスマホが音を立てた。


 美緒は笑いを堪えながら、返信をする。


『到着しました。美緒さん、いまどこですか?』


『もう着いているよ?』


 美緒が送ると慧のスマホが音を立てる。そして、何やら慧が打ち込むと、また美緒のスマホが音を上げた。


 そこで、慧は恐る恐るこちらを見る。そして、「あっ」と目を見開いた。


「慧君、気づかなかった? 私、ずっと此処にいたのよ?」


「いや、美緒さんだとは思わなくて、凄く綺麗で、その、長い髪も一つに纏めていたから気づかなかった」


 綺麗。彼の口から漏れた言葉に、美緒は胸が締め付けられる。


 飛び上がる程の嬉しい言葉。だが、それと同じくらい残酷な言葉。


「慧君だって、似合ってる。格好良いよ」


 事実だった。シンプルで慧らしい。シックに決めていると、女性らしい面立ちが一転して、男性らしくなる。もしかすると、慧はスーツなどを着るとグッと大人っぽくなるタイプなのかも知れない。


「え? そうかな」


 慧は照れたように笑う。笑みを浮かべると、いつもの柔和な女性のような顔になる。美緒は、そんな慧の表情を見ているのが好きだった。圓治と会っている時とも違う、もちろん、克巳や詩織達と居るときとも違う。


 不思議な感覚。上手く言葉では言い表せないが、偽りのこの瞬間が、いつしか美緒に本当の時間だと錯覚させていた。


「美緒さん、行こうか」


 自然な仕草で、慧は手を差し伸べてくる。反射的に、美緒は慧の手を握っていた。自然と慧と手を繋ぐことが出来る。気が付くと、それが普通になっていた。


「映画だったよね?」


「うん」


 美緒は慧の横に並んで歩き始める。ミストの外に出ると、途端に強い日差しが降り注いでくる。


「夏はまだなのに、暑いね」


「うん。夏はまだ先なのにね」


 夏。タイムリミットを告げる言葉だ。


 こうして一緒に歩いていても、どうしても終わりが気に掛かる。忘れようとしても、今日だけは忘れようとしても、やはり罪悪感は何処までも追いついてくる。


「美緒さん、少し休憩する? 顔色が悪いけど?」


「え? でも、映画のチケットも取らないとだから、急がないと」


 気疲れだけではないだろう。季節外れの夏日に、体が付いていかないのも事実だった。昨夜は余り眠れなかった。睡眠不足も影響しているかも知れない。


「大丈夫。もう、チケットは取ったよ」


 微笑む慧。


「次の上映なんだけど、一時間以上時間が空くんだよ」


「ありがとう、慧君」


「席は僕が取っちゃったけど」


「いいよ。慧君の選んだ席なら、何処でも」


 最新の恋愛映画。あまり邦画は見ないのだが、どうしても慧と一緒に見てみたかった。


 病気の女子高生と、男子高校生のラブストーリー。何処にでもあるラブストーリーだが、そんなありふれた映画を、慧と見たかった。


「慧君、その辺りの喫茶店に入る?」


 歩きながら、美緒は慧に尋ねる。


「んー……」


 歩きながら、慧は珍しく思案顔を浮かべる。普段は、何事も即決する彼が、悩むなど珍しい。


「何処も込んでるね」


「そうだね。美緒さんを涼しいところで座らせてやりたいし……」


 外資チェーンの喫茶店は、どこも一杯だ。暑い日、誰もが考えることは同じと言うことだろう。店内の席はもちろん満席。レジに並ぶ長蛇の列は、店外にまで及んでいる。これでは、冷たい物を買う前に暑さでやられそうだ。


「知り合いのお店があるんだけど、行ってみる?」


 歯切れの悪い言葉だ。だが、美緒は「うん」と頷いた。


「知り合いって、誰か友達がバイトしてるの?」


「ううん。叔父さんがやっているんだ。個人経営の純喫茶」


「純喫茶?」


 喫茶店は聞くが、純喫茶とはどういうことだろう。


「えっと、お酒を提供しない喫茶店のことを言うんだ」


「そうなんだ。私、チェーン店しか入ったことないから、余り分からない。もしかすると、個人経営の喫茶店なんて始めてかも」


「それなら良いけど……」


 慧は美緒の手を引いて、大通りから一本脇道に入る。


 その喫茶店は、雑踏から離れた場所にあった。先ほどの通りは、若者向けのショップが並び、様々な音楽で溢れていたが、ここは静かな大人の雰囲気が漂う通りだ。


 アンティークを取り扱っている雑貨店や、料亭、フレンチやイタリアンなど、一見して高そうな趣の店が並ぶ。


「ここだよ」


 その中の一つに、慧が案内してくれた。


 『Rayons de soleil(レヨン ド ソレイル)』。フランス語で書かれた店名。美緒が看板を見ていると、「木漏れ日って意味だよ」と、慧が教えてくれた。


 レンガ造りの喫茶店。壁には、青々とした蔦が生い茂っている。整えられた蔦の壁は、背後にあるレンガの色と相まって、西洋の古城や館を連想させた。大きな窓が通りに面して並び、飴色の色がついた窓ガラスは、外からだと中の様子が窺えない。


「行こうか」


 高校生なら二の足を踏んでしまう喫茶店。明らかに場違いだと思ったが、慧は臆することなくドアを開ける。


 ベルが音を立て、冷たい風が店内から吹き出してくる。


「こんにちわ」


 挨拶をしながら、慧は店内へ入る。美緒は慧の後に続いて喫茶店に入った。


 よく冷えた店内には、飴色の電球が所々天井から吊り下げられている。コーヒーの良い香りが立ち籠め、数名の客が思い思いの場所に座り、午後の一時を楽しんでいるようだった。


 聞き慣れない曲。シャンソン、と言うのだろうか。その曲が店内に流れ、緩慢な空気をかき混ぜている。


「慧、今日はバイトじゃないだろう?」


 髪をオールバックにし、白いワイシャツに黒いベストを身につけた男性が、慧を見て白い歯を覗かせた。


「叔父さん、今日はお客としてきたんだ」


 言いながら、慧は窓際のボックス席に腰を下ろす。美緒は男性に頭を下げ、慧の前に座る。


「慧、彼女か?」


「うん、まあ、ね。叔父さん、こちらが鹿島美緒さん。美緒さん、彼が店長で叔父さんなんだ」


 照れたように慧が笑う。


「初めまして」


 美緒は頭を下げた。なるほど、慧がここに連れてきたくなかった理由が分かった。身内のお店に来ると、こういう気恥ずかしさがあるのだ。


 慧はメニューを開いて美緒に提示してくれた。


「バイトって、慧君アルバイトしているの?」


 初耳だった。


「始めたっていっても、昨日からね。少し、お小遣いが欲しくって」


 もしかすると、自分のせいだろうか。デートをするにはお金が掛かる。少しファミレスに入ったとしても、ドリンクバーとスイーツ一つを頼むだけで千円近く掛かってしまう。


 美緒は圓治から定期的に数万円貰っている。だが、慧はどうだろうか。普通の高校生のお小遣いがいくらなのか、美緒には分からない。だけど、それほど多くないだろう。


 慧は、貴重な勉強の時間を割いて、美緒の為にお金を稼いでいるのかも知れない。


「ゴメン、慧君。もしかして、無理させてた?」


 罪悪感に押し潰されそうだ。美緒は、彼の時間を無駄に浪費させている。


「気にしないで、美緒さん。母さんや父さんからも、バイトをしろって言われていたからさ。丁度良かったんだよ。勉強よりも大切な物があるって、言われていたから」


「大切な物?」


「人と人との繋がり、社会の厳しさ? みたいなことを父さんは言っていた。勉強が出来るだけじゃ、社会人としてやっていけないって」


「そうかもね。勉強一辺倒だけだと、やっぱり社会に出て苦労するかも。私の場合、勉強も出来ないけど」


「でも、美緒さんは僕なんかよりも、ずっと世渡り上手そうだけどね。僕は、口下手だから」


 美緒の前に水が置かれた。


「注文は決まったか?」


「僕はオレンジジュース。美緒さん、決まった?」


「あ、私は……」


 メニューを見てみるが、普段、美緒が飲んでいるような飲み物はなかった。


 コーヒーにしても、何種類も並んでいる。豆の挽き方から焙煎まで指定できるようだ。紅茶にしても、種類が有りすぎて目移りしてしまう。


 美緒が分かるものと言えば、フレッシュジュースの所ぐらいだろう。


「えっと……」


「さっぱりとした物が良いなら、フルーツティーがお薦めですよ」


 店長、慧の叔父さんは指でアイスティーを示してくれた。アイスティーと言っても、沢山種類があるが、その中でも、ピーチティーとオレンジティー、ジンジャーティーを指示してくれた。


「じゃあ、オレンジティーください」


「畏まりました」


 小さく会釈した店長は、カウンターに入るとすぐに作業に取りかかった。


「凄い、慧君、ここで働いているんだ」


「まだ、一日しか働いていないけどね。小さい頃から、よく母さんに連れられてきたよ」


「そうなんだ。今度、遊びに来ても良いかな? 慧君がバイトしてるとき」


「良いけど、見て楽しい物じゃないよ?」


「良いよ、慧君の働く姿を見てみたいの」


 落ち着く喫茶店だった。リラックスして冷たい飲み物を飲んだ美緒は、ホッと一息付いた。


「美緒さん、その髪なんだけど、面白いね。よく映画やドラマで見る髪型だよね」


「これね、夜会巻きって言って、結婚式とかちょっとしたパーティーで使うの。あと、着物に合わせると良いのかな」


「凄いね。いつも髪を下ろしている美緒さんしか見たことなかったから、凄く新鮮だよ。お休みの日は、髪を纏めているの?」


「うん。邪魔なときもあるからね。夜会巻きは殆どしないけど、カチューシャやシュシュで纏めることは多いわよ」


 オレンジティーを飲む。爽やかなオレンジの香りが、口いっぱいに広がる。オレンジの仄かな甘みが、紅茶に良くマッチしている。


「もしかして、慧君は、短い髪の方が好き?」


「僕は、どんな髪型でも好きだよ。短かろうが、長かろうが。美緒さんを見て居ると、本当にそう思うんだ」


「なにそれ、答えになってないよ?」


「そうかな? 美緒さんは、どんな男性の服が好き?」


「私? そうね、私は……」


 そう言って、美緒は吹き出す。


「私も慧君と同じ。慧君が着ている服なら、何でも好きかも」


 美緒と慧は他愛のない話をしながら、映画館が始まる少し前まで喫茶店で時間を潰した。


 最初は、時間を潰せるか心配したが、全くの杞憂だった。どちらともなく、何気ない会話を提供し、それで笑い合うことが出来た。瞬く間に時間は過ぎてしまった。

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