6話

「ゴメンね、慧君。嫌な思いさせて……」


 ファミレスの席に着いた途端、美緒は慧に頭を下げた。


「ううん。僕の事は構わないよ。それよりも、美緒さんの方も平気?」


 結局、ショッピングには行かなかった。


 詩織の出現が、想像以上に美緒を動揺させていた。慧との関係をバラされなかった事に内心ほっとしながらも、美緒は激しい罪悪感に苛(さいな)まされていた。こんな状況では、とてもショッピングは楽しめない。


「山崎さん、強烈な人だったね」


 メニューを見ながら、慧は口元に笑みを浮かべる。


 強烈。確かに、詩織には強烈な所がある。享楽的というか、頽廃的というか、何事も後先考えずにやってしまう傾向が強い。美緒達も、詩織に振り回されることがままある。


「彼女、たまに突拍子もないこというの。でも、悪い子じゃないの」


 『悪い子』。それは詩織ではなく、自分だ。


 美緒は小さな溜息を漏らした。


 本当に、このまま慧を騙していて良いのだろうか。


 美緒は慧を見る。


 女性のように、可愛らしい顔だ。だけど、今日は慧の違う一面を見た。


 慧は、完全に美緒を信じていた。信じようとしていた。自分の悪い噂が立っていることは、自覚している。そして、その話の大半は本当のことだ。それでもなお、慧は自分を信じてくれた。それが、何よりも嬉しかった。


「美緒さんは決まった?」


 一点の曇りもない、慧の瞳。


 その瞳に見られ、美緒は視線を逸らしてしまった。


「私は、スイーツセットにする。ケーキとドリンクバーのついてるやつ」


「あっ、僕と同じだね」


 美緒はよく冷えたジュースを飲みながら、慧を見つめる。慧は温かい紅茶を、チビチビと飲んでいた。


「慧君」


 美緒は僅かに身を乗り出す。


「ねえ、慧君の事、もっと教えてくれる? 私、慧君の事がもっと知りたいの」


「僕の事?」


 紅茶を飲みながら、慧は笑う。


「うん。私、慧君の事、全然分かっていなかったみたい。だから、一度仕切り直し。私の事も、慧君に知って欲しいの」


「良いよ。僕も、もっともっと美緒さんの事を知りたい。じゃあ、最初に美緒さんからどうぞ。交互に質問をしようよ」


 美緒の前にイチゴタルトが運ばれてきた。慧の前には、チョコバナナクレープだ。


「慧君は、兄弟がいるの?」


「一人っ子だよ。妹か弟が欲しかったな。美緒さんは?」


「私? 私も一人っ子。じゃあ、次ね。慧君の趣味は、……聞いたから、好きな食べ物ってなに?」


「お肉かな。野菜も好きだけど、やっぱりお肉が好きかな。ガツンと来る奴は特に。美緒さんの好きなものと嫌いなものは?」


「あっ、それ、質問二つだよ」


 酸味の強いイチゴを口に運びながら、美緒は笑う。


「まあ、良いけどね。私もお肉は大好き。嫌いなものは、青魚かな。あの色と光具合があまり好きじゃないの。慧君、嫌いなものは?」


「僕は、特にないけど。強いて言うなら、塩辛かも。あの生臭さは、少し苦手かな」


「塩辛?」


 美緒は吹き出した。噛み潰したイチゴが出そうになるのを、手で押さえる。


「なに? 僕、そんなに可笑しな事をいった?」


 コクコクと、美緒は頷く。


「慧君、ピンポイントすぎない? 塩辛って、普段そんなに口にするものじゃないでしょう」


「美緒さんは好きなの?」


「う~ん、どうだろう。私、塩辛って食べたことないから……。うちの食卓には並んだことがない」


「そうかな? うちは、父さんが晩酌のアテに塩辛をつまむから、食卓には並ぶんだ」


「お父さんか……」


 嫌な記憶が甦る。自然と、美緒は眉を顰めてテーブルを見つめた。



 全員、私以外の家族、全員死んでしまえばいいのよ!



 死んでしまえば良い。感情的になっていたとはいえ、母親に言われたあの言葉は、思い出すだけで胸が痛くなる。


「美緒さん? 美緒さん、ご両親は……?」


 言いにくそうに、慧が聞いてくる。


 慧はこちらの事情は知らないのだろう。美緒も、この事は話したことがない。詩織達には、それとなく家族構成を話したが、詳しい話は避けてきた。


「うちはシングルなんだ」


「そうなんだ」


 慧は話の続きを促すこともなく、そこで言葉を止め、美緒の次の言葉を待っている。話を続けるのも、止めるのも、美緒の自由。話の舵取りを美緒に任せている。


 ジュースのグラスを両手で持ち、美緒は訥々と話を続けた。


「私が小さい頃、小学校に上がる前かな。お父さんが浮気をしたみたい。それで、お母さんと凄い喧嘩をしていた」


「それで、離婚を?」


「多分、それからすぐに離婚したんだと思う。次の日から、お父さんはいなくなった。私達は、アパートへ引っ越して、母子家庭になったんだ」


「大変だった?」


「ん~、どうだろう。小さいときはよく分からなかったけど、今なら、大変だったんだなって分かるよ。お母さん、頑張ってた。母子家庭って、それなりに手当は厚いんだけど、やっぱり、生活は大変だったんだって分かる。完全なワンオペ。私はお母さんに甘えた記憶ってあまりない」


「美緒さんもお母さんも、大変だったんだね。でも、お母さんも安心なんじゃない? 美緒さんは良い子だし」


「慧君……」


 美緒は唇を噛む。


「私は、慧君が思ってるような子じゃないかも。慧君は、どうして私の事をそんなに信じられるの? 詩織も言っていたけど」


「どうして? それは、僕は美緒さんのカレシだから」


 恥ずかしそうに、慧は顔を赤くして美緒から少し視線を外す。


「無条件に私を信じるの?」


「うん。それがどうかした? そんなに、不思議な事かな?」


「いや、ううん、不思議じゃないと思うけど、なかなかできないと思う」


「そうかな? 多分、それは僕が美緒さんの事を、本当に好きだからだと思うよ」


「慧君……」


 素直で真っ直ぐな、言葉と眼差し。彼の言葉には、いっぺんの嘘も偽りもない。嘘と偽りで塗り固められた美緒とは、正反対だ。


「ありがとう……」


 慧と一緒にいるだけで、美緒は自分もまっとうな人間になれるような気がした。


 胸の奥が温かい。詩織達と一緒の時には感じることのない、温もり。心の中が、慧の優しさで満たされる。


 胸の奥から込み上げてくる感情をかみ殺していると、目頭が熱くなってきた。


(なに……?)


 熱い滴が、頬に滑り落ちた。美緒は頬に手を当てる。


「ごめん、少しトイレ……」


 慧に顔を見られないように俯きながら、美緒は席を立った。足早にトイレへ向かうと、洗面所の鏡の前に立った。


「……何で泣いてるのよ」


 悲しくない。悲しくないのに、涙が溢れてきた。不思議だった。こんなにも幸せな気持ちなのに、涙が止めどなく溢れてくる。


「私、どうしちゃったんだろう……」


 美緒は自分の心に芽生えた感情に蓋をしながら、すでに解答の出ている問いを自問していた。

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