第109話 ありがたみ(萌花)

 朝、萌花が珍しく遅刻しそうになって、神の坂を必死になって駆け上がる。

 ただでさえきついのに、小柄な萌花は一段ときついだろう。

 息切れしながらもなんとか学校に着いた萌花が目にしたのは、聖母マリア像に手を合わせているシスターの姿。


「……何してるんですか?」


 萌花が訝しみながら声をかけると、シスターは手を合わせるのをやめて振り向く。


「あら、萌花さん。おはようございます」

「お、おはようございます……」


 質問を無視されて、笑顔で挨拶された。

 面食らいつつも、条件反射的に挨拶を返す。


「実は日々生きていることを噛み締めていたんですよ」


 一瞬シスターが何の話をしているのかわからなかったが、どうやら萌花の質問に答えているらしい。

 萌花は黙って続きを聞く。


「色々なことやものに感謝する心というのはすごく大事なんですよ。自分があるのはそれらのおかげですから」

「な、なるほど……」


 萌花はシスターのいうことに一理あると思った。

 簡単そうなことを言っているように見えて、シスターの一言は深みがある。


 萌花はシスターの言葉を口の中で反芻し、忘れないようにメモした。

 物や人や出来事へのありがたみを忘れたくないと思った。

 気分が高揚して顔がゆるんでいる萌花を見て、シスターは不思議そうに首を傾げる。


「ところで萌花さん、そろそろ時間なんじゃないですか?」

「え? ……あっ! やばい!」


 もう朝のHRがはじまる直前だった。

 萌花はあせって足がもつれ、何もないところで転んでしまった。


「うぶえっ!」

「……あ、あの……大丈夫ですか?」


 盛大に転んで変な声をあげた萌花を、シスターは少し引き気味に心配する。

 しかし、萌花はすぐに立ち上がり、シスターに笑顔を向ける。


「大丈夫です。これも大切な出来事なので」


 明るく言い放った萌花に、シスターは何かを見出した気がした。


「そうですか」


 シスターは朗らかに笑うと、職員室へ戻ろうとする。

 萌花は少しだけ見送ると、急いで教室へ駆け込んだ。

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