彼は何を求めて旅をするのか

「安倉さんっ」

 はっとして瞬いた。

 対面で頼りなさそうな男が眉を潜めていた。この男は誰だろう? 訝しみ、田口という名前を思い出した。編集者の田口だ。俺は、ゆっくりと周囲を眺めた。まず見えたのはウェイトレスの姿だ。通路を挟んだ向かいの席で慌ただしく食器を片していた。愛想を振り撒く余裕すらないのかテーブルを拭く手が乱暴だった。入店を知らせるベルが鳴っても顔の険しさは変わらない。それでも、いらっしゃいませの声は鶯のようだった。

 入ってきたのはスーツ姿の若い二人組だった。一方は猫背の茶髪、もうひとりは目元に傷がある。二人とも何の表情も浮かべないまま、決まり切った手順を守るみたいに店の片隅で小さくなった。変わり映えのない、いつもの昼飯といった風情だ。

 昼飯。そうだ。打ち合わせがてら昼飯を食べていたのだった。腹が膨れて眠くなっていたのかも知れない。台の上で珈琲が揺らいでいた。

 取り繕うように口に含んだ。

「すみません。何の話でしたか」

「……安倉さん、ちゃんと食べて寝ていますか」

「ええ、まあ」

 生返事をしたものの、の基準が分かっていなかった。食事に関して言えば、今、田口氏の奢りで食べたこれが、ここ最近では一番まともな食事だった。睡眠に関してはどうだろう。昨日は気付いたら朝になっていたが。

 田口は、嘆息した。

「安倉さん。焦る気持ちも分かりますが、ちゃんと休養は取ってください。充分に休んだ頭でなければ浮かぶものも浮かんではきません。先に身体を壊します」

「……それで、何の話でしたか」

「目的です。主人公の少年は何を求めて旅をするのか。今の案では今ひとつしっくりこない」

 田口は、手渡した企画書を前に、目を細めた。

「奴隷に身を落とした主人公は、屋敷の娘の手引きで脱走を試みる。そこまでは良い。娘の献身が、奴隷仲間の嫉妬と裏切りを哀しく際立たせているのも印象的だ。しかし問題はそのあとです」

 数枚の紙切れをテーブルに置いた。

「彼は、自分から全てを奪った異民族の男を殺すために旅立ち、その果てに復讐を成就させる」

「何か問題でも」

「どうも話が安倉さんらしくない。何と言うか……投げやりなのです。もっとこう、読み終わったあと心が晴れやかになるような、前向きな何かが欲しい」

「前向きな何か、ですか」

「ええ、前向きな何かです」

 俺は、田口が手放した企画書を見やった。数枚の紙切れは、そこが正しい身の置き場だと言わんばかりに席の隅に追いやられている。その扱いに他意はあるまい。彼の手元にもカップがあるのだから隅以外に置き場はない。だが、その位置が、そのアイディアの価値だと言われたとしても異論はなかった。

 顎に手を添え、しばし黙考する。

「約束」

「は?」

「……いえ」

 斜め前の席を見た。

 食事を終えた女性が荷物をまとめていた。試験でも受けるのだろうか。地方公務員問題集と書かれた表紙が目に留まった。彼女はそれをバッグに仕舞うと、軽い足取りでレジへ向かった。

 彼は、何を求めて旅をするのか。

「……もう少し考えてみます。スムーズに話を進められなくて申し訳ありません」

「それを助けるのが我々の仕事です。安倉さんは良いものを書く。根強いファンもいる。根気良く続けていけば、いつかきっと認められる日はきます」

 だから、睡眠だけがしっかり取ってください。

 彼は、懇願するように眉を下げた。

 何故だろう。田口の顔を眺めていると無性にラーメンが食べたくなってくる。しかし、いつも打ち合わせに使われるこの喫茶では美味いラーメンが食べられない。何かが噛み合っていないようで、もどかしい。当の本人はそのことに気付いていない。

 彼は、何を求めて旅をするのか。

 その後も打ち合わせは続いたが、答えを用意することはできなかった。

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