第五話 月の川
月の川
「それ、なんの曲だっけ」
自転車を押す彼女に尋ねた。
彼女は答えなかった。ゆったりとした鼻歌と、車輪の音。それらが重なり黄昏に染み込んでいく。快い音色だった。取るに足らない田園の風景が色付いていくように感じた。
答えないのは当てて欲しいからだろうか?
すっと伸びた鼻先を眺め、違うなと思った。
彼女はただ、歌いたいから歌うのだ。
だが疑問を口にした手前、俺も答えが知りたかった。頬の汗を肩で拭った。
「ピノッキオ?」
「……いや、ティファニーで朝食を」
ああ、ヘプバーンが弾き語りをしていたやつだ。
不鮮明な記憶が蘇る。
中一のときに観たからもう四年も前だ。確か両親と一緒に観たのだった。父と母はしきりに懐かしいとはしゃいでいた。あの頃とはもう何もかも変わってしまった。
そして、その変わったもののひとつに視線を戻したとき、惜しいことをしたなと後悔を覚えた。彼女は歌うのをやめていた。そういう気分になったのだろう。
もう少し歌声に耳を傾けていたかった。
ぼんやりと想い、夏虫の音色に耳を傾けた。沈黙は気まずくない。喋るときは何時間でも喋ることができるし喋らないときは何時間も喋らないでいることができる。少し先の別れ道さえなければ延々と無言で歩き続けることも苦にはならない。しかし喋らない理由もない。
俺は、紺色の空を見上げた。
「結果、どうだったんだ?」
ちりちりと車輪の音が響く。
風が耳元を撫でた。
「三次落ちだ。最終選考には残れなかった」
「お前ぐらい書けるやつでもそうなるんだな」
「逆だ。私程度に書ける人間なんていくらでもいる。三次まで残っただけでも上出来だ。満足はしていないがね」
「腐ってもいない」
「その通り」
彼女は、笑みを浮かべた。そこに失意や落胆は見えない。強がりと指摘したいところだがそうでもない。彼女にとってはもう終わったことなのだ。多少の気落ちはあったかも知れないが瞳はもう前を見据えている。水無瀬砂子は、そんな女だった。
その瞳が、訊き返してきた。
「草一郎、君はどうなんだ? もう次の話を書いてるんだろう?」
「俺か。俺は……」
一本道の先を眺めた。景色が徐々に闇に呑まれようとしていた。せっかちに灯っていた外灯がそろそろ役に立ち始める時間だ。この光が在る限り道を踏み外すことはない。それでも俺は時々怖くなる。足元を照らす光。それを失ったとき、俺たちは望んだ場所に辿り着けるのだろうか。
「……なあ、水無瀬。お前はこれからどうするんだ」
「漠然とした質問だな。もう少し絞って貰えないか」
山際の線路を特急列車が駆け抜けた。歩く俺たちには目もくれず、只々先を急ぐように。
胸のざわめきを抑え、続けた。
「俺たちもあと一年で卒業だ。そろそろ将来を決めなきゃいけない」
生温かな空気を吸った。
「お前は、小説を書いて食べていくつもりか。それができると本気で思っているのか」
車輪が小石を跳ねた。どこかへ転がり、それっ切り見えなくなる。
「お前は、何のために物語を綴るんだ」
街灯に照らされた水無瀬の姿は、まるでスポットライトを浴びているようだった。
水無瀬は美しい。
誰もが、水無瀬のことを美しいと表現する。
俺もそう思う。水無瀬砂子は美しい。そしてこうも考える。その美しさの源泉は一体どこに在るのか? 学校のくだらない連中は整った顔立ちが好みだと答える。女子たちは艶やかな髪が妬むだろうか。教師は凛とした振る舞いを褒めるかも知れない。どれも異論はない。けれど何かが足りない。水無瀬砂子の美しさを形容するには何かが不足している。
水無瀬は、彼女特有の、皮肉めいた笑みを作った。
「なあ、草一郎。君は、君が住むこの町をどう思っている?」
「どうって……」
水無瀬は立ち止まり軽く手を掲げた。示した先には田園があった。すっかり伸び切った稲穂は収穫の時期を迎えようとしている。遠くには国道があり、赤いランプが渋滞を作り始めていた。
どこにでもある田舎町だ。栄えてはいないが不便もない。住むだけなら好ましい環境だと言える。けれど、
「私には砂漠に見える」
彼女は、寂しげに呟いた。
砂漠と評した景色を見つめた。
「何もない……枯れ果てた土地だ。草木は痩せ、黄塵が吹き荒れている。これは娯楽がないという比喩表現ではない。町は着実に老い衰えているが仮にどこか都会の街に移り住んだとしても、私は同じふうに考えるだろう」
世界が、砂漠に見える。
彼女の言葉を聞いて、俺はどんな貌をしていたのだろう。しばらくの間、水無瀬の見る世界を想見していた。我に返ると彼女は申し訳なさそうに苦笑していた。
瞳を閉ざし、表情を切り替えた。
「一方でこう考えるときもある。たとえば路傍に花を見つけたときだ」
水無瀬の視線が足元へ向いた。意識が自然にそれを追った。
「私は、歩みを止め、その鮮やかさに見惚れてしまう」
花らしきものは見当たらなかった。それでも水無瀬の目は、確かに何かを慈しんでいた。
その眼差しが前方へ向けられる。
「傍らには見知らぬ路地が開いている。こんな道が在っただろうか? 好奇心に駆られ奥へ入ってみる。路地裏には冷ややかな空気が立ち込め、僅かな陽だまりで猫が微睡んでいる。頬を緩め、先へ進む。やがて視界が拓ける。そこには忘れられた廃工場が、朽ちた壁面に蔦を絡ませている」
静かな情景が目に浮かんだ。時が止まったような空間だ。一方で歴史と終焉も感じさせる。
彼女は、続けた。
「廃工場の脇には水路が流れている。水のせせらぎに耳を傾け、その水源がどこに在るのだろうと胸を膨らませる。煌めくそれをいつまでも遡ると今度は古ぼけた鳥居が佇んでいる。下をくぐる。苔むした石段はどこまで続いているのか分からない。道の端の青葉を楽しみながら段を昇り、ようやく辿り着いた境内で振り返ったとき、私は、山の端に沈んでいく光を見る」
遠くにある山の影を見つめた。
そこにあるはずのない光に、俺は、心を奪われていた。
「私は、私の眺めるそれが、どこか世界の果てに繋がっているように感じる」
彼女は、指を伸ばした。
「あの山の向こうには何があるのだろう? いつか月の川を渡るように、私はその境界を越えてみたい。私は、世界の果てを見てみたいのだ」
「世界の、果て」
大袈裟な言い方だった。大袈裟で、馬鹿々々しくて、どこまで魅力的な……俺を煩わせる何もかもがちっぽけに感じられてしまうような、そんな魔力があった。そして、その大いなるものを見据える彼女の横顔。
つくづく見惚れてしまう。その瞳に映し出された、純粋で、真っ直ぐで、汚すことのできない黄金の輝きに。水面に映える月を眺めるように、見惚れてしまうのだ。
彼女が、ゆっくりこちらを向いた。
「草一郎」
輝きが、俺を照らした。
「君は何を望む? 何が欲しい? 齢を重ね、老い衰えて死ぬまでのひとときで、真実から手に入れたいものは一体何だ?」
目を伏せた。即答ができなかった。
望むもの。欲しいもの。手に入れたいもの。
いつだってそこに在るもの。いつだってそこにないもの。
水無瀬は、その答えを知っているようだった。俺がそれを掴むのをじっと待っていた。砂漠と吐き捨てた世界の中で、待ち続けているようだった。
「俺は」
水無瀬の影と、俺の影。淡いふたつの色が、ひとつの方角へ延びていた。
東の空には月が浮かんでいた。紺色の空の片隅で、俺たちを静かに見下ろしていた。
「水無瀬、俺は……」
俺は。
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