善きひとの花
契約を結ぼうとする前に深井の病室を覗いてみた。
深井の婆さんは個室でひとり寝息を立てていた。猿のように喚き散らし、誰彼構わず噛みついていた姿からは程遠い、静かな寝姿だった。
良い気なものだ。他人に散々迷惑をかけておいて自分はぐっすり眠りこけている。こんな醜い老人がいなくなったところで誰も哀しみはすまい。むしろ消えかけの命ひとつで人ひとりが助かるのなら、それが経済的というものではないか?
……そう冷徹に断じられたらどれ程楽だったろう。いざ老人を前にすると、そんな威勢はみるみるうちに萎んでいった。枯れて荒れ放題の頭髪。骨に皮が張り付いているだけの造作。朽ちて千切れそうな喉元からはひゅうひゅうと息が漏れている。いずれも老人の命が失われつつあることを証明していた。哀れだった。これが人間の末路かと思うとやるせなかった。
害虫のような存在だと思っていた。死んだところで喜ばれるだけの人間だと。その考えが拭え切れたわけではない。けれど同情と羞恥心を抑えることは難しかった。
俺は、途轍もなく身勝手なことをしようとしている。
それでも覚悟を決めるしかなかった。悪魔と契約を交わすというのは、そういうことだ。
母の病室へ向かった。扉を開けると片隅で悪魔が腕を抱えていた。俺を見るなり蛭のような唇に喜色を浮かべた。
「心が決まったのね」
黒い装丁の本を差し出してくる。聞けば表紙に血を染み込ませれば契約が交わされるのだという。
「婆さんのほうはどうするんだ。俺は何をすればいい」
「御心配なく。こちらで勝手にやらせて貰うわ」
「そうか。助かる」
心臓をえぐり出して持って来いと言われたら、流石に時間がかかっていたかも知れない。
本を受け取り母の前に立った。母の意識はもう二日も戻っていない。先生の診断ではあと一週間と保たないらしい。深井の婆さんと同じだ。婆さんと同じ、間もなく死んでいく人間の様相だ。だからこそ俺は、母を同じようにしたくない。
たとえこれが間違っていたとしても。
カッターの刃を伸ばし、本を掴む親指の背に当てた。あとは皮膚を裂くだけだ。
それだけで母は助かる。
それだけで、人の命が奪われる。
「どうしたの?」
刃先を当てたまま固まっていると背後で悪魔がくすりと嗤った。訳もなく焦りを覚えた。悪魔は、それを赦すとばかりに鷹揚に続けた。
「ええ、貴方は正しいわ。一方を救うために一方を犠牲にする。迷いなく他人を線路へ突き落とせるのは少数のイレギュラーだけ……。現実に他者と向き合い、他者の呼吸に触れた者で、それができる人間はそうはいない。けれど、そうした犠牲で紡がれてきたものが人類の歴史であることもまた事実。今現在も当たり前に繰り返されていることよ」
浮かんだのは父のことだ。まさしく父がそうだった。父は、会社とかいうあやふやな群れを生かすために死んだ。新聞記事にすらならなかった。社会のどこでも当たり前に見られる、有り触れた犠牲のひとつだった。
母だって、そんな最期は望んでないはずだ。
「そうよ。貴方は間違っていない。咎める人間は誰もいないわ」
そうだ。俺は間違っていない。皆当たり前にやっていることだ。誰もが清廉潔白に振る舞いながら知らない誰かを踏み躙っている。俺は、自覚的にそうするだけだ。大切なひとを守るために。
俺は、間違っていない。
心中で繰り返した。そのときだった。
「……え?」
何かが聞こえた。どこからともなく。
周囲を見回し、背後を振り返った。悪魔が小首を傾げていた。入口の扉は固く閉ざされている。他に誰もいるはずがない。ならば微かに聞こえた、あの声は?
恐る恐る視線を戻した。
母は、瞼を閉ざしたままだった。
けれど、なぜだろう。
その口許から目を離せなかった。
じっと動けないでいると、またひとつ声が響いた。
今度は、はっきりこう聞こえた。
『私たちは、間違っていないをなくさなきゃいけない』
鈴の音のように鳴り響いていた。
『本当に善いものを選ばなくてはいけない』
母の枕元に目をやった。キャビネットの上に、白く光るものが飾られていた。
白い、百合の花だった。
それは、いつか、母と一緒に眺めた――
「うぅ……」
指先から力が抜けた。薄っぺらな刃が指の隙間からするりと逃げた。足元のどこかでカタリと音が鳴り、次いで本が床で跳ねた。俺は、垂れ下がった腕を伸ばした。
「かあ、さん……」
膝を折り、痩せた母の手を握った。
「おかあさん……おかあさん、おかあさん、おかあさん!」
すがりついて泣いた。何度も呼びかけ、何度も叫んだ。母さんは応えてくれなかった。頭を撫でてはくれなかった。「なあに」と微笑んではくれなかった。目を覚ましてはくれなかった。静かに……花のように静かに、呼吸だけを繰り返していた。
母は、そのまま息を引き取った。
翌朝のことだった。
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