花を殺す

 大切なひとを助ける。代わりに誰かを犠牲にする。

 果たしてそれは正しいことだろうか?

 自問し、力なく首を振った。

(そんなはずはない)

 正義漢を気取るつもりはない。気取っていたつもりもない。だが俺のなかで正しいかそうでないかということが、ひとつの価値基準になっていたことは確かだ。弱者を蔑ろにする者。人の迷惑を省みない者。そんな身勝手な奴らをずっと毛嫌いしてきた。父と母を死ぬまで追い込まれ、想いは一層強固になった。そんな人間になりはすいまい。そう憤ってきたはずなのに、いざ目の前に褒美をぶら下げられると、あっさり態度を翻そうとしている。

 筋が通らない。

 けれど悩んでいる時間もない。

 必要なのは覚悟だった。母のために、他人を踏み躙る覚悟。

 幸か不幸か、当てはあった。そいつしかいないと確信したほどだ。そもそも院内と条件を出されたら知っている人間は限られている。主治医の冬川先生。看護師の秋田さん。大槻さん。ソーシャルワーカーの結城さん。理学療法士や作業療法士など母を助けてくれた人たち。待合室でよく話しかけてくる片山の爺さんに、隣部屋に入院している桑原のお姉さん。そして有木野穂乃花。大なり小なり世話になっている人たちばかりで、その中から一人を選ぶというのは流石にあり得ない。勿論、入院患者は他にも何百人といるが、俺はその何百人の顔を知らない。知らないということは選べないということだ。

「適当にくじで選んでくれても構わないのよ?」

 あの女は、端から順番に花を毟り取りながらそんなことを言っていた。しかしそれは、できないと見越したうえで莫迦にしているのだと思った。母親のために死んで貰う人間を、そんな方法で選ぶことはできない。

 だが先に述べた通り、既に俺は一つの答えを持っていた。

「七尾さん」

 廊下で立ち止まっていると不意に声をかけられた。穂乃花だ。俺と同じく学校帰りなのだろう。紺のブレザー姿でバッグを提げていた。穂乃花は市内の女子高に通っている。俺とは無縁の高校だから制服姿で話しかけられると少しばかり落ち着かなかった。気恥ずかしいような感じだ。

「どうかしたんです? こんなところで」

 瞳が俺の視線を追う。病室の扉はしっかりと閉ざされていた。

「このお部屋、お婆さまが入院されているんですよね。お名前は、確か……」

「深井」

 手書きのネームプレートを指し示した。穂乃花は「そうそう」と表情を明るくした。

「深井さん。深井さんが、どうかなさったんですか」

 部屋の中からは物音ひとつ聞こえてこない。いつもの耳障りな罵声も今は鳴りを潜めている。誰もいないのではないかと疑いたくなるが、そうでないことは人伝いに聞いていた。

「昨日から容態が悪いみたいなんだ。片山の爺さんの話だと、そろそろ危ないんじゃないかって」

「そう、ですか」

 声が萎む。どう反応すれば良いのか分からないようだった。それはそうだろう。見知らぬ老婆が死にそうだと教えられて喜怒哀楽を表せるわけがない。加えてお互い身内のことがある。あまり愉快な話題ではなかった。

 持て余すような空気が流れたので多少強引に話題を変えようと思った。が、

「お母さんの具合、どう?」

 そんな間の悪いことしか訊けなかった。

 穂乃花は、苦笑を浮かべた。

「いえ、特に変わったことは。相変わらずです」

 間が悪いうえに、残酷な質問だった。

 母親の容態に変わりがないことは……そして今後も変わる見込みがないことは既に聞かされて知っていたからだ。泣きじゃくる穂乃花から聞かされて知っていたからだ。彼女の母親はもう目覚めない。死んではいないが、生きているとも言い難い。そんな状態がずっと続くのだそうだ。

 何も答えられないでいると、今度は彼女がおずおずと尋ねてきた。

「七尾さんはどうですか。その、お母さまの具合は」

「……うちも同じだよ。良いとは言えない。紐が切れる寸前みたいな状態が続いてる」

「そう……ですか」

 穂乃花は気まずげに肩を窄めた。会話が良い方向に進まない。現状が良くないのだから当然だが。しかし萎れた花のような穂乃花を前にすると、どこか気持ちが奮い立つような部分もあった。しっかりしなければ、という気持ちだ。

 彼女を、正面から見つめた。

「穂乃花。俺はまだ諦めてない」

「七尾さん……」

「諦めてない。だから君も諦めないでくれ」

 そうだ。諦めてはいけない。強く在らねばならない。

 願いを叶えるために、俺は、強く在らねばならない。

 拳を握り、老婆の眠る病室を睨んだ。

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