第四話 花のように

あの日の花

「優くん。君は間違ってないよ。でも母さんはそれが善いことだとは思わないな」

 母は縁側に座ってそう言った。俺は隣で同じほうを見ていた。視線の先では一輪の白百合が微笑んでいた。母が育てた花のひとつ。「綺麗に咲きそう」と嬉しそうにしていたが、その言葉通り見事な花を咲かせていた。花に興味はなかったけれど、あのとき目にした花弁の鮮やかさは今でもよく覚えている。記憶の庭で咲く花は、時が経つに連れて一層美しさを極めていくようにすら感じる。

 俺は、母に何と言い返しただろう?

 それほど強い言葉を使った覚えはない。「どうして?」「悪いのはあいつだ」 きっと、そんな当たり前の言い分を口にした。母は、微笑ましそうに頷いた。

「うん、そうだね。先生や翼くんのお母さんにも話を聞いてみたけれど、君は、女の子をからかう翼くんを注意しただけで、先に殴りかかってきたのは彼のほう。それは間違いない。それに母さんは優くんのことを信じてる。だから君が悪いとは思わないし、間違っているとも思わない」

 折り紙を付けられ安心したが、それよりも困惑が勝った。母を見上げ、こう尋ねた。

 だったら、どうして、それが善くないことなの?

 母は、またひとつ、うんと頷く。

「間違っていなければ、それは正しいということだね。優くんは正しいことをした。女の子を助けてあげたのは勇敢なことだし、殴り返したことだって決して間違ってるわけじゃない。でもね、正しいということは、必ずしも善いということを意味するわけじゃないの。それどころか、とても危ないことでもあるんだよ」

 母の言っていることはちんぷんかんぷんだった。

 悪いのは相手だと言う。俺は間違っていないと言う。向こうが悪くてこちらが正しい。なのに、それは善いことではないと言うのだ。まるで謎々だ。悪いことをすれば懲らしめられる。叩かれたら叩き返す。それは当然のことではないのか? 大人の世界はそういう理屈で動いてないのだろうか。

 俺はしばらく頭を抱えた。そして母の顔色を窺った。

 翼に怪我をさせてしまったこと……やり過ぎてしまったことがいけないのだろうか、と。

 母は「そうだね」と笑った。やり過ぎは良くないねと。

 そして、俺の頭をそっと撫でた。

「私たちはね、もっとをなくしていかなきゃいけないの」

 間違っていないを、なくす?

「そう。間違っていないと信じることを少なくしていくの。そのためにも君にはたくさん考えて欲しい。もっともっとたくさんのことを考えて欲しい。翼くんのことも。翼くんのお母さんのことも。それ以外のみんなのことも。優くんが、いつか本当に善いものを選べるように。さあ、この話はこれでおしまい」

 母は、腰を叩いて立ち上がった。

「御夕飯の準備しなきゃ。あーあ、人間も光合成で生きていけたらなあ」

「今日のおかず、なに?」

「優くんの大好きなエビフライ。お父さんが会社のひとから貰ってきてくれたんだ」

 そうして二人でリビングに戻った。

 俺は、母が台所に立つ間録画していた特撮番組を楽しんだ。途中の物語はよく分からなかったが最後はヒーローが悪者を倒して終わったのでそれで良かった。そうこうしているうちに父が帰宅し、いつも通り三人で晩御飯を食べた。多分、そうだったと記憶している。

 ふと我に返った。

 いつの間にか景色が変わっていた。室内を見回し、自分の立っている場所を確認する。鼻を衝く薬品の匂い。無数の管と線を垂らした大袈裟な機材。いくつかの線は別の機材へ繋がり、いくつかの管は寝台の上に繋がれている。ベッドの上で眠る女に。

 家で昔のことを思い出していたのは覚えている。この病院に来たという記憶もある。だが意識は再び過去に戻っていたらしい。懐かしい、母との記憶だ。俺は自らの目的を思い出そうと手の内を握り締めた。刃を握るその力こそ、意志の強さだと再確認した。

 俺は、この想いを捨てられない。

 俺は、何ひとつ間違っていない。

 俺は、この女を殺さなければならない。

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