Merry Christmas

「ここまで来れば安全なはずだ。……ひとまずは」

 窓を開いて息を吐いた。広い駐車場の向こうには吐く息と同じ色の建物がそびえている。雪のように白い、と感傷に浸りたいところだが只々潔癖な印象だった。もっとも病院なのだから清潔なのは悪いことではない。近寄りがたさは増すにしても。

 慎重に、周囲を見渡す。

 町外れに建っているため心寂しい雰囲気は否めない。だがここで追撃を仕掛けてくるほど愚かな連中ではない。社会の裏側に潜む彼らにとって表で目立つことは破滅を意味する。反撃と逃走が見込まれる状況で派手な行動は起こさないはずだ。何より、それが可能だとも思えなかった。最後に見た小倉と阿南は山道の路肩でエアバッグに頭を突っ込んでいた。私は、助手席に向き直った。

 気が抜けたのだろう。少女は腕を垂らし、肩で息をしていた。手には赤星が握られたままになっている。状態はホールドオープン。弾は全て撃ち尽くしたらしい。私は、強張った彼女の指をグリップから一本一本剥がしてやった。

「すまないが私はここまでだ。この病院に冬川という内科医がいる。彼を頼りなさい。安藤の名前を出せば悪いようにはしないはずだ」

 少女は、乱れた息を整えながら、私と病院を見比べた。

 ことりと首を傾ける。

「お友達、なんですか……?」

 その問いかけには少し面食らってしまった。

 私と冬川は友人なのか?

 思案し、つい噴き出してしまった。声を上げて笑う私を、少女は不思議そうに見上げた。私は目元を拭い、答えを口にした。

「ああ、友達だ。良い男だよ。きっと君の力になってくれる」

 その言葉に安心したのだろう。少女もまた少しだけ顔を綻ばせた。それは小さくて控えめな笑みではあったが、私を安堵させるには充分だった。

 私は、他にも何人か頼るべき相手を紹介した。少女がどんな道を選ぶにしても力になってくれそうな連中だ。彼らの名前と連絡先を綴りながら、自分でも不思議な気分に囚われていた。

 私には、こんなにも頼れる相手がいるのだ。

 最後に私は三枚の紙幣を渡した。小遣い程度の額だったが持ち合わせがそれしかなかった。車から降りた少女は、私が手渡したものを大事そうに手で包み、ドア越しに深々と頭を下げた。

「何から何まで、本当にありがとうございました」

 凛とした振る舞いだった。

 彼女の恰好は屋敷を抜け出したときから変わっていない。私のコートを羽織らせているが、深夜の寒さが堪えないわけでもないだろう。しかし、彼女の立ち姿からは心許なさは感じられなかった。前を向き、しっかりと両脚で立っている。

 少女は、柔らかに尋ねた。

「良ければ、お名前を教えていただけませんか? 貴方のお名前を」

 目をそばだてた。面と向かって名前を尋ねられた経験は少なかった。それこそ病院やホテルの受付ぐらいだろうか。仕事柄詮索は好まない。たとえそれが名前程度のことであっても。だが、この少女の言葉はすんなりと胸に入ってきた。何の障りもなく、すんなりと。

 素朴に応じた。

「安藤勝民だ。勝利する民と書いて勝民。安藤勝民」

「安藤、勝民さん」

 彼女は、染み込ませるように私の名を繰り返した。

 そして、同じように告げた。

「真理です。黒巣真理。勝民さん、この御恩は一生忘れません。いつか必ずお礼に伺います。いつか、必ず」

 そして彼女は右手を差し出してくる。今度こそ私は当惑した。仕草の意味が分からなかったわけではない。分かるからこそ戸惑った。彼女の白く小さな手と、黒く歪な私の手。それを見比べ躊躇した。だが彼女は構わないようだった。見上げる私に、にこりと微笑んだ。私は誘われるまま彼女の手を握り返した。

 温かく、包み込まれるようだった。

 瞬間、私の中で何かが洗い流されていくように感じた。僅かながらも、何かが。

 交わされた手は、長くもなく、短くもなく、適切な時間で離れた。真理はもう一度大きく頭を下げたあと踵を返して駆け出した。私は、手の内の余韻が失われていくのを感じながら小さくなる背を見送った。そしてふと気が付いた。彼女が向かう先、病院の玄関のすぐ脇にクリスマスツリーが飾られていることに。小振りで、つづまやかな代物ではあったが、彼女の行く先を煌びやかに照らし出していた。少女はコートを羽ばたかせ光へ向かって走っていく。

 聖なる夜、楽園の門は再び開かれる。

 尊きひとの降臨によって人の罪は全て購われるという。

「さあ、どうだかな」

 ひとり笑った。

 果たしてそんな上手い話があるものか。

 窓を閉め、シフトレバーに手を伸ばした。

「さて、阿南と小倉にもプレゼントを渡しに行かなければ」

 今頃、寒空の下で途方に暮れているはずだ。ハンドルを切り、元来た道に進路を取った。

 あの二人が雇い主の赦しを得られるかどうかは私の首を持ち帰ったとしても五部以下と言ったところだろう。彼らの上役は無暗に部下を切り捨てる男ではない。だが必要とあらばそれをすることに躊躇はない。彼らは彼らでまた自ら道を切り開いていかなければならない。

 なに、あの少女にもできたことだ。若者二人にも頑張って貰わねば。

「これを機に真っ当な道に戻ってくれると良いんだがなあ」

 空を見上げた。車内から見る夜空。それは相応に狭かった。だがどうしてだろう。私の目にはとても広いように感じられた。天蓋には無数の星粒が散りばめられている。私は、それらの数も、生まれた理由も、何も知らなかった。

 何だかとても愉快だった。私はいつまでも星の輝きを眺め続けた。

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