希望の担い手

りゅうあ

小話まとめ

戦いは明けた


『私、ここを出る』


 そう言われて、手を離したのは自分なのに。

 どうしてか、今になってとても後悔している。


『幸せにおなり』


 それは本心だった。もう、人の子である彼女フェリシアを捕らえていてはいけないと、そう思ったから。触れた頬は、暖かくて、冷たかった。

 涙が流れてくる感覚が忘れられない。泣かせてしまった……。


『幸せ、だった』


 その言葉は本当だったのか。彼女は本心を隠しがちだ。何を考えているのかわからない。…それを読み取る楽しさも、今や無い。



 夜ノ森澄羅よのもり きよらは1人、リビングに座して考えていた。

 この先どうしたらよいのか。教員を続けていくのは、食べていくために当然として。この家。2人で過ごしたこの一軒家を、どうしたものか。

「あの子はまた、ここに戻ってくるだろうか」

 赤いアネモネを指した花瓶の淵を指で撫でる。水面が振動で揺れると共に、アネモネも少し揺れて、機嫌が良さそうだ。一方の澄羅は上の空で、暮れゆく空を眺めていた。

「帰ってこないとしても……ここは、あの子の家だからね。住める環境は、整えておいてあげようか」

 独りごちて、澄羅は立ち上がる。

 フェリが出て行ってからもうすぐ5日が経つ。学校でもフェリの姿はなく、帰ってもない。ご飯を作っても、『先生の味噌汁好き』という声もない。


 ……いけないな。人間は短命なんだ、仮に共にいる選択をとっていたとして、いずれは訪れる未来が、これだ。


 澄羅は箸を置いた。今日の味付けは塩味が濃かったかもしれない。は、澄羅の袖を濡らした。

 フェリがいないことは、澄羅にとって慣れないものだった。この世界に来てから、ずっと共にいたから。外に出ても、ふと気づくとフェリを探しているし。反物を見てても、女性ものが不意に目に入って、『フェリに似合うだろうな』と手に取りかけるし。

 澄羅は参っていた。自分の生活にはここまでフェリがいたのだということを、失って始めて感じたから。


 もう、会えないのだろうか。

 私はまた……また、愛し子を失くしたのか

 ……いや、これでよかったんだ。あの子はきっと、どこかでと幸せになっているだろう。そうであってほしい。


 * * *


 アーセルトレイは層で成っている。

 その端…そこは、崖のようになっていて、落ちれば……どうなるか、わからない。

 その際に立ち、澄羅は世界を見た。


 フェリが去ってから、もう数年がたつ。

 あの家はあのままだけれど、澄羅はもう別の家に住んでいた。

 あの家は1人では、広すぎて……思い出も、多すぎて。

 ざわざわと吹く風に、澄羅の少し伸びた髪と数年前から変わらない大きな羽根が揺れる。


 ここから、落ちたら。

 戻れるだろうか。私の世界へ。


 1歩、その層の外へ、踏み出した。

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