勝利を信じなきゃいけないね
挑発に乗ったアーサーが樹根の上を駆ける――跳ぼうとする。
踏み切る直前、あたしたちの真下から強力なライトが照射された。
その光はヤクで過敏になってたアーサーの目を射抜いた。苦悶の叫びが太い喉から溢れる。
あたしは目をかきむしるアーサーに全体重をかけてぶつかっていった。
「落ちろ!」
アーサーはあたしを捕えようとしたが、樹根の上に降り積もる羽に足を滑らせる。
「お、おおあ!」
片脚が宙に浮いた。
でもまだ落ちない。
驚異的なバランス感覚が片足だけでもアーサーを支えてる。
あたしはすかさずアーサーの膝を蹴った。
巨体が崩れる。
「ぐうおおおおお!」
やった、と思った次の瞬間、目蔵滅法に振り回したアーサーの汚い爪が樹根から垂れ下がった別の細い根っこに引っかかった。
とっさに体を振り子にしてアーサーが跳び、太い樹根をもう片方の手が掴む。ゴリラの遺伝子がまたもやつを救ってしまう。
アーサーは見せつけるように上半身だけを樹根の上に引き上げた。まるでプールサイドにいるみたいな恰好で、にい、と笑う。
「惜しかったなアリス?」
あたしは悔しくて怖くて声が出ない。
何をやっても……。
「お前は、オレに、勝てない。一生な」
アーサーが人差し指をあたしに突き付ける。
今朝の悪夢が脳みその中を駆け巡った。
巨大なアーサーに首根っこ掴まれて振り回される夢。どうやらそれは正夢になろうとしているらしい。
あたしはアルマジロ監督がくれたチャンスを生かせなかった。
打つ手はもう無い。
「さてアリス。お前はまずオレのベットの中でフライになるべきだな」
ファック、と言ったアーサーの足元でライトが点滅し、霧の中から急発進したタクシーがアーサーに激突した。
突撃ラッパの代わりにクラクション。
垂直に上昇するタクシーに腹を押し付けられたアーサーは、恐ろしいことにそれでも拳を振り上げて車体を殴りつけてた。
べき、べき、という金属が凹む音と一緒にアーサーの絶叫と血反吐が落ちてくる。
ぱんぱんに膨らんだ筋肉が自分の血管を破裂させてるのかもしれない。
タクシーはスピンし、アーサーを空中でミンチにすべく、エンジンを全開にして曲芸飛行みたいに霧の中を飛びまわった。
「やれ!」
あたしは拳を振り上げて言う。
「やっちまいな!」
しかしアーサーはしぶとい。
タクシーに覆いかぶさるようにした巨体は、力任せにバンパーをかち割り、エンジンの息の根を止めようと拳を振り上げ続ける。
肉の焼ける匂いがした。
あたしは今朝食べたものを吐きそうだったけど何とか押し戻す。
アーサーの拳が焼けている。
それでもなお振るい続けるその姿は悪夢そのものだった。
「あ、あ、あ、ありすううう、そこにいろよよよ」
ごおんという軽い爆発音とともに、エンジンが止まる。
タクシーが樹根の橋の真上でもんどりうった。
目の前に焼けただれたアーサーの片腕がぼたっと落ちてくる。
あたしは腰を抜かした。
悲鳴を上げるアーサーは、それでもなおタクシーにしがみついてる。
ぞっとした。
血だらけの、もう人間とは絶対に相容れないものになっちゃったアーサーが、あたしを求めて吼え猛っているその姿に。
エンジンがいかれて暴走を始めたタクシーから運転手が飛び出した。
上手いこと樹根の真上だったんで、あたしは慌ててその人を捉まえる。冴えなくて埃っぽいハイエナ。
血がぼたっとあたしの頬に垂れた。
「怪我」
「大丈夫。あっちの血」
ハイエナは興奮に目をまん丸に見開いて言う。
「あのモンスターの血」
あたしは頷いた。
「あっ、あっ、あっ」
とアーサーは叫びながら八の字を描いて宙を回るタクシーに頭突きを食らわせている。
かん高い音を立ててフロントガラスが砕け、破片がダイヤモンドみたいに空中に散った。
長い手足を伸ばして運転席に潜り込もうとしてる。
「あいつ、さっさとくたばればいいのに!」
あたしが投げつけられそうな硬い物でもないかと探していると、ハイエナの運転手がよろっと立ち上がって言った。
「もうそろそろくたばるよ」
「え?」
「もうそろそろ」
タクシーはバランスを崩しつつあった。
よろめきながら、アーサーと死のダンスを踊りながら、徐々に円筒型になった壁の方へ向かっていく。
そのテールランプが縦にそそりたつ樹根の束にぶつかったとき、音も無く霧の中から現れた機械グモが八本脚を振りかざしてアーサーごとタクシーを串刺しにした。
長い悲鳴。あたしも悲鳴を上げてた。
昆虫標本みたいに腹をタクシーにピン留めされたアーサーが意味不明な言葉を喚きながら、手足を滅茶苦茶に振り回す。その度に霧がぽっ、ぽっ、と赤く染まった。
クモは暴れる獲物を無表情でじっと見つめてる。
金属の脚をアーサーが掴み、わめいて、小さな部品をぶちぶちとちぎっていった。
怖い。
どんなヤクを体に入れたらそうなるの。
あたしの二メートル五十センチの体が細胞全部までぶるぶる震えてる。
タクシーとアーサーを抱えたクモは不意にジャンプした。すうっと霧の中へ。
死にきれないアーサーの喚く声だけが何処かから聞こえていたけど、そのうちそれも無くなった。
あたしはようやく肩の力を抜き、樹根の上にへたりこむ。
「うちの息子を、どうもありがとうございました」
ハイエナの運転手が腰を抜かした(今日二回目よ。どうにかしてる!)あたしに向かって頭を下げた。
ライトスタンドを飴玉がわりに舐めていた兄弟の顔がちらつく。
「ふたりとも助けられなかったわ」
「いえ。兄の方は助かったんです。樹根の編み目に引っかかってね」
久しぶり聞くいいニュースだった。
「ありがとうございます」
ハイエナの父は照れ臭そうに笑う。
あたしは頭を掻き掻き言った。
「私もお礼を言わなきゃ。あなたがいなけりゃ、あのくそゴリラに殺されてた。……あとで、もうちょっとカッコのつくときに、お話してもいい?」
「サインくださいね」
「何枚でも書くわ」
ジャックとアルマジロ・シンディ監督が駆け寄ってきた。
あたしはふたりに飛びつかれるがまま、樹根の上で大の字に倒れた。
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