第二章 「なに、想像してたんですか?」

 少しもねむれず、翌日。私はフラフラとおぼつかない足元で、どうにか学校まで歩いてきた。

 すいみん不足で、気持ち悪い……。昨日の知花くんが、頭からはなれない。見た目に反してれい正しいこうはい……だと思っていたのに。あんな返事をして、私……。

 風がけて、ぶるっと身を震わせる。私は、さつそくこうかいしていた。

 はぁ……と、うつむいてため息をつくと、

「おはよう、伊吹」

「っ!」

 背後から声をかけられ、ビクッと一気に背筋がびた。おそる恐るり向くと、そこには矢野先生。

「あ、おはようございます……」

 がんってあい笑いを返すけど、私の気持ちなんて知るわけもない先生は、いつも通りさわやかに白い歯を見せて笑う。

「どうした? なんか元気ないんじゃないか?」

「えっ? いえ、全然です……! 学園祭のことで、やることが増えてきたから、つかれてるのかも」

 元気ないなんて、そんなのはあなたのせいです。そんなふうに思うことも、うそではないけど……。様子が変だって気づいてくれたとうれしくなる私は、どうしようもない。

 本当にバカなんじゃないの。毎週……見てるくせに。それでも、まだ好きなんて。

 先生も、こんなにつうに出来るなんて、信じられない。

 少し視線を落とせば、先生の左手には、シンプルなシルバーの指輪が光っている。

「おはようございまーす、会長! 矢野先生!」

「おう、おはよう、元気だな」

 タタッと走ってくるくつおとと共に発せられた元気なあいさつに、矢野先生はすぐに振り返ってこたえるのに、私はその場で固まってしまった。

 振り向かなくても、声で分かる。知花くん……。

 知花くんは矢野先生と楽しそうに雑談を始めたけど、私はこわくて少しも動けない。このツーショットは、私から見ればごくでしかない。

 知花くん、黙っていてくれるって言ったけど、本当なのかな。

 どうだにしない私を、知花くんは下からのぞき込む。

「会長?」

「えっ、な、なに……」

「おはようございます」

「おはよう……」

 何も知らなければ、ひとなつっこい笑顔に見える。……何も、知らなければ。

「伊吹な、ちょっと疲れてるんだってさ」

「そうなんですか」

 矢野先生に私の様子を説明され、知花くんはいつしゆん笑顔を消した。そして、ぐいっと私のうでを強く引き、耳にくちびるを寄せる。

「っわ……!?」

だいじようですよ、今日はまだ木曜なんで」

「っ!」

 私は反射的に彼から離れ、耳を手で押さえる。

 いきが、めちゃくちゃ近かった……!

「会長、真っ赤ですよ。具合悪かったら保健室行ったらどうですか?」

「……平気」

 だれのせいなの。そんな気持ちを込めてまなしを向けても、知花くんはただあしらうように軽く笑うばかり。

「あっ、宏之! ねー、ちゃんと持ってきた? 昨日話した本」

「おはよ、だか。もちろん持ってきてるって」

「本当!? ありがとう~っ。早く行こ!」

 そこで、知花くんの女友達がやってきて、サッと手をうばっていった。

「あいつの周り、いつもにぎやかだよな」

 矢野先生は、小さくなっていく知花くんたちの背中を見ながら、苦笑いをする。

「そうですね……」

 私は返事をしながら、ずっと気持ちを重たくさせていた。




 それから週が変わって、また水曜日がやってきた。一週間なんて、早すぎる。

「おはようございます、会長」

 知花くんは毎朝会うと、必ず自らあいさつをしてくれる。校門をくぐってすぐの所でがおを見せられ、思わずため息。

 知花くんは、いつも通りに振るえるんだ……。

「あいさつ返さないでため息つくとか、傷つくなー」

 わざとらしくこうをされ、私は言葉にまる。そんなこと、じんも思っていないくせに。

いとしの矢野先生じゃなくて、がっかりしたとか?」

「! ちょ、声が大きい……!」

 あわてて周りをわたすと、登校してくるたくさんの生徒の中に、彼を見つけた。制服の中で、ひとりだけ服装がちがうからだとか、すぐに目に入った理由はそういうんじゃない。

「おはよう。今日も仲いいな、ふたりとも」

「おはようございます、矢野先生……」

 近付いてきた矢野先生にあいさつをして、私は少しうつむいた。顔が赤くなっているのを、矢野先生よりももっと、知花くんに見られたくない。

 先生は今日もいつも通り。そんないい顔を私たちに見せて、きっとまた放課後には……。

「おはよう、先生ー! あのね、昨日先生に教えてもらった問題、ちゃんとやってきたんだよ! えらくない? 今すぐ見てめて!」

「はいはい。じゃあ、伊吹たち、また後でな」

 女子生徒がひとりけ寄ってきて、先生は軽く手を上げてひと足先に校舎へ向かう。

 先生は人気があって、それは昨日も今日も変わらない。先生自身も周りのみんなも、何事も無かったみたいに。それはつまり、まだ誰も先生のしていることに気づいていないというわけで。

 知花くん、本当に秘密にしてくれてるんだ……。


「あれっ、ヒナ、何やってんの?」

 放課後、次々と帰りたくをするクラスメイトを見ながら、私は自分の席でじっとしていた。不思議そうに顔を覗くのは、友達のえんどうさゆ。

「今日生徒会じゃなかったっけ。いっつもさぁ、めっちゃ早く行くじゃん」

「うん……、そうなんだけど」

「サボり? いいなぁ。うちもサボりたい」

「サボらないけど……。あと、さゆもサボっちゃだめだよ。野球部のマネージャー、ひとりしかいないんだから」

あせくさいんだもん」

 じようだんっぽく笑うさゆを見て、愛想笑いを返す。

 行かない。そんなせんたくは、私にはない。だって、会長なんだから。誰よりも頑張らなきゃいけないんだから。でも……。

「遠藤~、今日の部活、ミーティングのみだってよ」

「えー! やったー! 今日は汗くさくないっ!」

 ひとりの野球部員に呼ばれ、さゆはぴょんっと飛び上がって喜び、私に手を振った。

 賑やかな様子にクスッと笑ってしまうけど、その姿を見送り、すぐにため息をひとつ。

 私も行かないと。生徒会長なんだから。


『会長、悪い子ですね』

 頭の中で聞こえた知花くんの声に、ぶんっと首をる。

 違う。私は、〝いい子〟なんだから。

 通学用のかばんに物を詰めて、立ち上がった。


 生徒会室に入ると、すでに知花くんと副会長の河北くんがいて、ふたりで雑談をしている最中だった。

「おはよう……ございます」

 朝でもないのにわすこの不思議なあいさつも、すでに言い慣れた。力なく声をかけると、ふたりはすぐにこちらを向く。

「おはよう、会長。めずらしいな、一番乗りじゃないなんて」

「うん、ちょっと友達と話してて。今日も河北くんに負けちゃったね」

「これ、勝負だったんだ?」

 ははっとさわやかに笑う河北くんにしようを向けて、知花くんを見る。

「おはようございます、会長」

「……おはよう」

 その笑顔の裏で、何を考えているんだろう。

 私はゴクッと息を飲み込んで、知花くんひとりだけに聞こえるように、ささやく。

「知花くん、生徒会が終わったら、話があるんだけど、……いいかな?」

 私から切り出されたことにおどろいたのだろうか。知花くんは一瞬だけ目を見開いたけど、すぐにまた人懐っこい表情を作り直した。

「はい」


「それでは、今回はこれでしゆうりようです。おつかれさまでした」

 私からのそんな言葉を皮切りに、生徒会の皆はいつせいに席を立つけど、私は座ったまま動かない。資料を机に広げ、ながめる……ふり。

「会長大丈夫? いつもひとりだけ残ってるじゃん。やれることあるなら俺も手伝うよ」

「う、ううん、わざわざありがとう、河北くん。でも平気。えーと、……あ、そうそう、資料を見返したら、かぎしめて帰るから……」

 心配してくれた河北くんについた急ごしらえのうそは、バレていないだろうか。真っすぐに見ることが出来ずに、つい目が泳いでしまう。

 そんな私の様子に、知花くんが口にこぶしを当てて笑いをこらえていた。

 かくすなら、もっとちゃんと隠しなさい。わざとでしょ。


 皆が生徒会室を出ていっても、私と知花くんはそこに残っていた。

 先ほどからずっと、クスクスと笑い声がする。

「……いつまで笑ってるの?」

「失礼しました、会長」

 感情を込める気がないなら、言わなくていい。

 ため息をついて、自分の手を自分でにぎる。情けない、ふるえてる……。

 書記の席に座っていた知花くんは、ガタンと音を立ててから立ち上がる。

 ビクッと自分のかたおびえたのを感じ取ったと思ったら、彼はすでにすぐそばにいた。

「会長」

「っ……」

 肩に手をえられ、声が出ない。

「会長、見て。後ろ」

「え……」

 会長の席は、一番窓に近い場所にある。振り返ると、向かいの校舎に、ひとつ明かりがともっていた。カーテンが閉まった、図書準備室。そこには矢野先生と……。

「あれ? あの子、朝に先生に寄ってきた子じゃないですか?」

 今日もカーテンの閉め方が甘い。すきと言うにはそこそこ大きく開いているそこからは、矢野先生にぴったりと寄り添う女子生徒。朝、先生に勉強を見てほしいと言っていた、あの子。

 先生を見たしゆんかんに、震えていたはずの手からは力がけて、それを知花くんはのがさなかった。ぎゅっと強くうでをつかまれ、驚くひまもなく、机の上に体をたおされる。

 私の両手をつかみながら、組みくように目の前にあるのは知花くんの顔。

「ち、知花くん……」

 逆光で暗く見える顔は、うすみをかべている。

 力が強い。大きな手が、私の小さな手なんてすっぽり包んでしまう。

 私……、私たちは、これから……──

 知花くんの手が、私の制服のえりれて、ブレザーをがす。

「っ……!」

 乱暴に胸を開かれ、プチッとブラウスのボタンがはじけ飛ぶ音がする。

「知花くん、待っ……、待って!」

 ていこうしようと、力いっぱいに振りほどこうとするけど、びくともしない。

「っ、知花くん……!」

「何ですか? 俺に話があるって言って、自分から待ってたのは会長でしょ。今さらやめてとか言っても

「だ、だから、あの……っ」

 顔が胸に近づいてきて、サラサラのちやぱつはだをくすぐる。

「あ、ありがとう……っ!」

 しぼり出すようにさけんだ私に、知花くんの動きがすべてピタッと止まった。そして、

「は?」

 と、まゆを寄せた顔で、ひと言。

「何言ってんですか、セリフちがってますよ」

「ま、間違ってない……。知花くん本当にだまっててくれたでしょ、先生のこと。だから……」

「はい? まさか、俺に話があるって、それのこと?」

「そうだよ……。約束守ってくれて、ありがとう……」

 ひと言を口から出すだけでも、声までも震えてしまう。じように振るいたいけれど、こんなじようきようを経験すらしたことがないから、私にそれは難しい。

 だいじよう。あとは、まん……すればいいだけ。

 そんなことを考えてじわっとなみだがにじみそうになるけど、自分の手は自由がかないから、何とかえるしかない。

「……」

 知花くんは少しの間黙っていたけど、また私の体に顔を近づけた。

 強く目を閉じると、首筋にやわらかいものが当たって、チクッとした痛みが走った。

「っ……いた……」

 今されたのは、なんだろう。分からない。次に何が起こるのか、目を閉じたままの私には、予想もつかない。

 ずっと体をかたくして、うるさすぎる自分の心臓の音にだけ集中するように試みる。

「……?」

 いくら待ってもその先は続かなくて、こうそくする力強さが消え、私はそっとまぶたを開いた。

 その時、知花くんはもう私からはなれていて、机の上に座り、複雑そうな表情をしていた。

 私も体を起こして、同じように机の上に座る形になる。

「え? 知花くん……」

「なんですか」

「何もしないの……?」

「なに、想像してたんですか? やらしい」

「なっ、だって……!」

 変な顔してたくせに、今ではすっかりいつも通り笑っている。まぼろしでも見たのだろうか。

 知花くんはため息をつき、私のかみの毛をひとふさツンッと引いた。

「俺、会長が」

「え?」

「バカすぎてびっくりしました」

「バ、バカ!?」

 そんなことを言われたことがないから、ついじよう反応してしまい、声を上げる。しかも、年下から言われるなんて。

「本当にバカですよ、会長。人のせいでこんな目にってんのに、お礼言ったりとか」

 そんな目に遭わせているのは、正にあなたのはずですが。

「めちゃくちゃ震えてたくせに、なに我慢してんだよ」

 気づかれてた……。

「会長は、なんで毎週あんなの見てるんですか」

 知花くんが指をさす場所には、明かりが灯った図書準備室。

 見たくない。でも、カーテンの隙間から、先生の姿が……。

 私は、窓から思いっきり目をそらした。

「好きな人がヤッてんの見て、自分もひとりでしてるとか?」

「するわけないでしょ」

「え。意味分かったんだ? 何? 何をひとりでしてるんですか?」

 ニヤニヤと笑いながらめ寄られ、私は真っ赤に染まった顔で、はらいのけた。

「ちょっ……、だから、何もしてないってば! 知花くん、いつもそんなことばっかり考えてるの!?」

「男の子なんで」

 いらちがおそうけど、ぐっと我慢。こんなことに一々反応するなんて、私らしくない。

 矢野先生が、週に一度、悪さをする。それを、見る理由。そんなの……。

「期待……してるの」


 好きだから。


「今日こそは、何もしないのかもって……。もう、今度こそ誠実になってくれるんじゃないかって……期待してるの」

 先生のことが、好きだから。今日こそは、カーテンが閉まりませんように、って。今日こそは、だれおとずれないまま、暗い部屋が何時間も続きますように、って。毎週、毎週、願いをこめて。……だけど。

「今日も、だめだったみたいだけど……」

 私は、どんな表情をしているんだろう。知花くんは、あい笑いすら向けてくれない。

 大きな手がびてきて、ついに何かをされると思い、ぎゅっと身を縮める。

 次の瞬間、ふわっとやさしく手のひらが落ちてきたのは頭上で、思わず知花くんの顔を見た。

 な、でられてる……?

「マジでバカすぎて、びっくりします」

 それ、さっきも聞いたんですけど。改めて復唱されると、ただただイラッとする。

 でも、その顔はバカにするような表情ではなくて、かすかに口角を上げて、微笑ほほえんでいた。

 こんな表情も、出来たんだ……。

「あーあ、やる気なくした。……でも、やっぱり会長には興味があります」

 知花くんは机からおりて、制服のブレザーをぎ、私の頭からかぶせた。

「っ!? な、なに……」

「さっきからずっと、見えてますよ」

「?」

 トントンと自分の胸を指でたたく姿を見て、私は自分のむなもとに視線を落とした。

「!!」

 ボタン!

 頭からかけられたブレザーにそでを通すよりも先に、私は自分の手でブラウスの前をかくす。

「会長って、ピンク好きなんですか?」

「なっ、何の話してるの!」

 確かに今日はピンクだけども!

「俺は、白のレースとかの方がいいなー」

「だから、何の話を」

「リクエスト」

「うるさい! 聞かない!」

 声を張り上げる私なんて軽くあしらうみたいに、知花くんは笑いながらとびらの方へ歩いていく。

「じゃあ、また来週。げちゃダメですよ」

 そう言い残し、ろうへ出ていった。ひとり残された私はだつりよくしてしまい、机の上でへたり込む。気を張っていたから、しばらく動けそうにない。

 カーテンの向こう側は、まだ明かりがついている。目をそらして、ぶかぶかのブレザーの袖をにぎりしめた。




 帰宅して、おの鏡の前で、自分の体の異変に気づいた。

 首筋に……虫さされ? でも、別にかゆいわけじゃないし、痛いとかでも……。

 指でさわり、そのあとに首をかしげてから、やっと思い当たる。

 ……虫だ。でっかい虫に、み付かれたからだ。

 あの時は頭がパニックになっていたから、堪えるだけでせいいつぱいだったけど……!

 この、首筋の痕の正体は、ぞくにいうキスマーク。

 鏡の前で、見えないように手のひらで隠しても、その下の事実は変わらない。自分の真っ赤な顔が見える。

『また来週』

 また来週……。今日がキスマークなら……じゃあ、来週は?

「…………」

 私は首をり、考えることを無理やりほうした。

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