わるいこと、ぜんぶ。

榊あおい/角川ビーンズ文庫

プロローグ & 第一章 「悪い子ですね」

 打ち明けるつもりなんて、なかった。ただ、早くこの気持ちが消えますようにって、静かにその時を待っていただけ。

 私は〝いい子〟だから、先生にこいしたりしないの。結ばれたいなんて、思ったりしない。

 見ているだけで……。


「会長、悪い子ですね」

 だから、お願い。だれも、気づかないで。

「……秘密にして」

「いいですよ。その代わり……」


 毎週水曜日、放課後。君が私にれる。

 その先に、何かが始まったりなんて……。

 そんなの、ありえない。




第一章 「悪い子ですね」



「おはようございます、会長」

「おはようございます」

 多くの生徒が行きう、高校の正門前。私、ぶきひなは、周りからかけられる朝のあいさつの声に、がおを返した。

 全校生徒のほとんどが私の存在を知っているけど、それに反して私の名前を呼ぶ人はほとんどいない。

 昨年、二年生の時に生徒会長になった私は、校内では「会長」と呼ばれていた。

 校則通り、ひざより少し短いだけのスカート。少しもくずすことなくぴっしりと整った制服。真っ黒な長いかみの毛は、耳の下でふたつに結んでいる。

 品行方正。悪く言えば、くそ。そんな私のゆいいつの秘密、それは……。


「おはよう、伊吹。今日もがんろうな」


 後ろからかけられた、男性の声にドキッとして、自然と背筋がシャキッとびた。

 り向く前にササッと前髪を手で整える。

「お、おはようございます。……先生」

 振り向いた先にいたのは、生徒会もんの矢野先生。ぎんぶち眼鏡の奥では、細めた目が笑っている。としは二十五。イケメンで、ものごしもやわらかくて、誰にでもやさしくて、担当している数学の授業は楽しいし分かりやすい。男女問わず生徒には大人気。

 そんな先生が、モテないなんてことはもちろんないわけで。私も、例外じゃない。

 私の秘密。それは、先生に恋をしていること。

「今日は何を話し合うんだっけ?」

「今日はですね、そろそろ学園祭の話し合いを始めようと思ってます」

「そっか、もう学園祭なのか。早いな。うちの学校、春にやるもんな」

「はい。会長になってからは初めてなので、きんちようしちゃいますね……」

「伊吹ならだいじようだよ」

 私だけに向けられた言葉と笑顔に、胸がぎゅっと苦しくなる。だけど、気づかれてはいけない。誰にも。……本人にすら。

 私は、熱くなる自分のほおに気づいて、目をそらす。だって、先生には……。

「おはようございます、会長、先生」

 タタッとけてくるくつおとと同時に、私たちに向けられたあいさつに、私はとなりを見た。

 ひろゆき。ひとつ下の二年生。彼は、生徒会の書記をしている。

「おはよう、知花くん」

「もー、会長、何回も言ってるじゃないですか。名字呼びやめてくださいって」

 やわらかそうな茶色い髪をらして、知花くんは苦笑いをする。

 制服のブレザーはボタンをとめずに全開だし、指定のネクタイもしていない。そのちやぱつはどう見ても天然のそれではないし、見た目の時点で校則はんだらけの彼が生徒会のメンバーに選ばれた時には、とてもおどろいた。なんというか、ひと言で表すならば、「チャラい」。

 だけど、ことづかいはいつもとてもていねいで、常に敬語。そして、ひとなつこい笑顔。彼が生徒会にいるのは、彼自身の持つひとがらのためなのだろう。

「名字だと女みたいだからいやなんですよ。すぐ『知花ちゃん』って鹿にされて呼ばれるし」

みんな、知花くんのこと大好きなのね」

「あ、また名字呼びですか。会長ひどい」

「ごめんね。私、男子のこと下の名前で呼んだことないから、ちょっとていこうあって」

「マジですか、可愛かわいいですね」

「年上をからかうのはやめること」

「ははっ」

 そんな私たちのやり取りを見て、矢野先生は隣でくすくすと笑う。

「俺から見たら、ふたりとも可愛いけどな。いいな、若くて」

「せ、先生だって、私たちとそんなに変わらないじゃないですか……」

「ないない。俺なんかもう二十五だよ。おじさんだって」

 そうやって、〝先生〟だからと、すぐに線引きをされる。分かっている。この恋には、望みなんかない。

 笑いながら眼鏡をクイッと上げる先生の左手の薬指には、シルバーの指輪が太陽の光でキラッとかがやいている。その意味は、ちゃんと知っている。

 にゆうせきこそまだしていないものの、こんやく中からすでに結婚指輪を身につけているのだと聞いたことがある。だから、消さなきゃいけない。こんな気持ちは。

 私は、どんな顔をしていたんだろう。知花くんが、じーっと私を見ていた。

「な、なに? 知花くん」

 ハッとして、表情を取りつくろう。

「いえ。俺、今日日直だから、生徒会室に行くの、少しおくれちゃうかもしれないです」

「そう、分かった。いない時間に話し合ったことは、後でちゃんと教えるから大丈夫だよ」

「ありがとうございます。じゃあ、先に行きますね」

 知花くんはにっこりと笑い、軽く手を上げて、走りながら校舎へ向かう。

「あっ、知花くん! 今度服装検査だからね! それ、何とかしてこなきゃだめだよ!」

「会長ー、名字で呼ばないでくださいってばー!」

「こら、ごまかさないの!」

 背中に呼びかけても、すぐに姿は小さくなって、校舎の中へ消えた。

「もう……」

 と、あきれながら私がため息をつくと、矢野先生はまた笑った。

「生徒会は、皆仲いいよな。会長がしっかりしてるから、顧問としてもやりやすいよ」

「結構大変なんですよ。私、本当は、人に指示したりとか、まとめたりするのとか苦手なので……。周りが助けてくれるから、何とかやれてるだけなんです」

「伊吹の人望のおかげじゃないか? いい子だからな」

 その言葉に、私は先生を見上げて微笑ほほえんだ。

 〝いい子〟……か。分かってはいるけど、子供あつかい。

 真面目でゆうずうかない私は、〝いい子〟なんて、昔から言われ続けていた。そこには、もちろんいい意味ばかりがふくまれていたわけではなくて、たくさん皮肉のようにも言われてきた。でも、矢野先生に言われるのは、きらいじゃない。

「じゃあ、俺も先に行くな」

「あ、はい……」

 先生は時計を見て、私に別れを告げる。背中を名残なごりしく見つめ、私も校舎へ向かった。


 放課後になり、荷物をまとめて生徒会室へ。中に入ると、副会長のかわきたくんがすでにいた。

「河北くん、おはよう。早いね」

「おはよ。俺のクラス、今日ホームルームなかったからさ」

 河北くんは、さすが生徒会の一員といった感じで、黒い髪の毛は全くいじっていないようだし、制服も着崩すことなくれい。だからといってったいわけでもなく、清潔感のあるさわやかな印象の男子。

 知花くんとはちがったタイプではあるけれど、彼もとても人当たりが良くて優しい。慣れない会長職を務める私を、何度助けてもらったか分からない。

「おはようございます」

「おはようございまーす」

 会計や、しよの生徒もほぼ同時に生徒会室に集合して、最後に矢野先生が「遅れてごめん」と、やってきた。

そろいましたので、始めたいと思います」

 席についた皆をわたして立つと、河北くんが手を挙げた。

「待って会長、まだ宏之来てないけど」

「あ、知花くんは日直だそうなので、先に始めてますって言ってあります」

 そう言って話を進めていると、しばらくってから知花くんが中に入ってきた。

 話し合いをしながら、私は何度も時計を気にした。今日は、水曜日。


 話し合いが終わり、皆が退室しても、知花くんはまだ席について記帳を続けていた。私は、そんな彼のそばで、議会の最初に話し合っていたことを口頭で教える。

「すいません、会長。皆帰ったし、会長も帰ってもらって大丈夫ですよ。あとは、書記長が残していってくれたのを写すだけなんで」

「気にしないで。朝に約束したでしょ。いなかった時間分のことは、教えるからって」

「ありがとうございます」

 ニコッと人懐こくて可愛いがおを向けられて、少しの罪悪感が芽生えた。知花くんが居ようと居まいと、私は生徒会室に残るつもりだったから。


 ふたりで後片付けも終え、私は生徒会室のかぎを手にした。

 席を立ちはしたものの、いつまで経っても出ていこうとしない私を、知花くんはドアの近くで不思議そうに振り返る。

「帰らないんですか、会長」

「えっと……、うん。ちょっとまだやらなきゃいけないことがあって……」

「えっ!? そうだったんですか!? それなら、俺のことほっといてよかったのに。今度は俺が手伝いますよ」

「ううん、平気。ひとりでじゆうぶんだから……」

 顔の前で手をる私を、知花くんは申し訳なさそうに見て、ドアを開けた。

「……そうですか。じゃあ……おつかれ様でした」

「うん、お疲れ様でした」

 知花くんの姿を見送り、大きく息をいた。本当は仕事なんかないから胸が痛む。

 だれもいなくなった生徒会室で、私は窓ぎわのカーテンのすきから外を見た。

 向かい側の校舎。少し視線を落とせば、二階の教室が見える。この生徒会室と同じように、カーテンが閉まっている。図書準備室。

 この時間になるといつも閉まっているそのカーテンは、少し隙間が開いていて、窓ぎわにいる人の姿が見えてしまう。

 ひとりの女子生徒がカーテンに背を向けていて、その目の前には男性きよう。矢野先生。

 学校の外に婚約者のいる矢野先生は、毎週水曜日、生徒会が終わってから、悪いことをするのが好きみたい。

 生徒に大人気なあの人は、大人気だからこそ、その相手には困ることがない。

 それを、私は毎週見ている。……見ている、だけ。

 その現場を見つけたからと言って、先生も相手の生徒のことも、どうするつもりもない。

 先生に告白をすれば、あそこにいるのは私なのかもしれない。でも……。


『伊吹はいい子だからな』


 私、いい子なんかじゃない。先生にこいをして、そんな先生は悪い人で。風紀の乱れを正すはずである生徒会長の私は、それを……。

「会長、まだいるんですか?」

「っ!!」

 とびらがコンコンと二回ノックされ、かんはつれずに開いた扉から顔を出したのは、知花くんだった。

「ど、どうしたの? 知花くん、忘れ物?」

 どうようさとられないようにと、後ろ手でカーテンをぎゅっとにぎる。

 とっさに作った笑顔は、上手うまく出来ているか分からない。

「んー、忘れ物っていうか……」

 知花くんは歯切れ悪く答えながら、こちらに近づいてきた。迷うことなく、真っぐに私のもとへ。

「会長」

「な、なに……?」

 ついに知花くんは私のすぐ目の前に。

 胸の音が、ドキドキとうるさい。知花くんが手をばし、私の後ろのカーテンに手をかける。

 だめ……! カーテンの向こう側を見られたら……!

「ま、待って、知花くん! ここは……!」

 カーテンの境目をかばうように、ギュッと押さえる。

 自分の行動があやしいことは、分かっていた。でも、だめ。ここだけは。

「ふーん……。やっぱり、会長も知ってたんだ」

 ……やっぱり? おそる恐る視線を重ねると、そこには笑った顔……。

「知ってますよ。向こう側で、矢野先生が生徒としてること」

「ち、知花くん……?」

 たんたんと話すその姿に、変なあせが止まらなくなる。

 知花くん、どうして……。

「会長って、矢野先生のことが好きなんじゃなかったんですか?」

 かしたようなまなしに、ぎゅっと身が縮まる。

「ど、どうして、それ……」

「見てれば分かりますよ、つう。会長、分かりやすすぎ」

 私が分かりやすいと言うのなら、もしかして矢野先生自身にも、この気持ちが……?

 どうしよう。ずっと秘密にしてきたのに。これからも、秘密にしていくはずだったのに。

 知花くんの目を見れない。心臓の音がうるさすぎて、すべての音がかき消される。

「好きな人があんなことやってんの見て楽しいですか? しかもこんやく者までいる人ですよ。結構クズなん──」

「秘密にして……!」

 知花くんの言葉をさえぎり、私はさけぶ。

「お願い……。誰にも言わないで」

 私は、どんな表情をしていたんだろう。きっと、絶望感にあふれた表情に違いない。

 そんな私を見て、知花くんはまゆを寄せた。

「庇うんですね。そんなに好きなんだ」

 好き。あんな人だと知っていても。好きだから、あきらめたい。

 早く、早く、早く。

「好き……だけど。こんな気持ち、いらないの」

 私は〝いい子〟だから、先生に恋したりしない。だから。

「忘れられるなら、忘れたい。好きなんて……やめたい」

 自分でコントロール出来るのなら、今すぐにでも。

「教師が学校で生徒とヤッてんのを見て、さらに秘密にしてほしいとか、やばすぎ」

「そ、そんなものすごい言い方しないで……。お願い……。何でもするから」

 私は〝いい子〟だから、先生のしようなんて知らないし、だまって見続けたりしない。だから、かくし通さなくちゃいけない。どんなことをしてでも。

「会長、悪い子ですね」

 手にれられて、ドキッと大きく心臓がねた。

 悪い子? 私が?

「忘れたいって言いましたよね」

「言ったよ……」

「本当に?」

「……本当」

「じゃあ……、俺が忘れさせてあげましょうか?」

 先生の笑顔がかぶ。

 忘れさせる? 無理だよ、そんなの。

「なんで知花くんが……」

「俺、会長に興味があるんです」

 にっこりと人当たりの良さそうながおで、そんな言葉……。

 いやな感情が、胸に広がる。

「なに……、興味って……」

「俺、会長のことはないい子ちゃんだと思ってたんです。矢野先生のアレも、言えなくて、本当は自分だけでかかえてるのがつらいんじゃないか、とか」

 知花くんは、私が困っているのだと思って、あえていつしよにあの光景を見たのだろうか。私は、そんなにれいな人間じゃない。

「真面目な生徒会長のふりして、本当はどんな顔をすんのかなって。すごく興味があります」

「バカにしてるの? それなら、私」

「何でもするんじゃなかったんですか?」

「っ!」

「言っちゃおっかな。矢野先生は、毎週生徒と──」

「分かった! ……分かった……から」

 わざとらしく、扉の向こう側へと大きな声を出す知花くんを、私はあわてて口をふさいで止めた。

 「はい」と、やっぱり彼は悪びれもせず可愛かわいく笑い、私の手をぎゅっと握った。

「秘密にしますよ。約束。その代わり、毎週水曜日、生徒会が終わったあと、俺とここで会ってください」

「……それだけでいいの?」

 もっと、何かすごいことを要求されると思っていたから、ひようけする。

 知花くんは目をパチパチとまたたいて、フッと笑った。

「あんなもん隠れて見てたくせに、ずいぶんピュアなんですね」

「え……」

 知花くんに握られた手は彼のもとへと引き寄せられ、ほおに触れる。

「もちろん、会うだけで済ますつもりないけど」

「……っ!」

 想像するのは、どうしたってあのカーテンの向こう側のこう

「どうします? やめる?」

 からかうような表情を向けられて、私は知花くんをにらんだ。

「やめない……」

 ぐっとなみだをこらえて、言葉をしぼり出す私に、知花くんはにっこりと笑った。


「やっぱり会長は、悪い子です」


 君の前では、悪い子で構わない。

 このこいを守れるなら、なんだって。

 ふるえる指先に気づかれないように、力を込めた。


 水曜日、放課後の生徒会室。秘密がはじまる。

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