第58話 食の安全
ヴィスタとヴィル、そしてアレクが旅立ってから約二ヶ月。
国へと帰ったヴィスタからは定期的に手紙が送られてくるものの、アレクからの連絡は一切なし。
一体彼が何処で何をしているのかもわからず、また彼がいう国という地も知らないまま時が流れた。
「ちょっとノヴィア、リネア様は大丈夫なの? さっき食後のデザートにドレッシングを掛けていたけれど」
「それぐらいならまだいいよ、昨日なんて服を着たままバスタブに入ろうとしていたんだよ。私たち慌てて止めに入ったんだからね」
現在建築が進んでいるお屋敷の仮住まいとして、日々を暮らすこの小さなお屋敷。なんだか使用人たちがやたらと私の事を心配してくれているようだが、私自身に自覚はなく、今だって笑顔で出かける前の挨拶を交わしてきた。
そらぁ確かに疲れていないかと問われれば、間違いなく疲れていると告げるだろうが、それは主力の三人が抜けてしまった結果なので、ある意味仕方がないことだろう。
それでもこの2ヶ月でスタッフ達も成長しているし、中には頼りになる人材も出てきているので、もう暫くすれば私の仕事量は確実に減っていく筈。
とにかく今は目の前の仕事をこなし、スタッフ達の育成と成長を見守りながら耐え忍ぶしかない。
そのうちアレクがひょっこりと戻って来てくれるはずなので、もう暫くの辛抱だ。
ガタガタガタ
「リネア様、その……本当に大丈夫なんですか? なんでしたら今日一日ぐらいお休みになられた方が」
商会へと向かう馬車の中、向かいに座るノヴィアが心配そうに尋ねてくる。
「何度も言うけど大丈夫よ。体調の方はお世辞にもいいとは言い切れないけれど、倒れるような程ではないわ」
「ですが……」
ここで心配させまいと嘘をつく事もできるのだが、長年私に付き添ってくれているノヴィアを誤魔化せるわけもなく、素直に今感じている状態をそのまま告げる。
「昨夜もあまりお休みになられていないようですし、領主としてのお仕事と商会のお仕事、やはりリネア様お一人でお二つを同時にされているのは、負担が大きすぎます」
「心配しすぎよ。領主の方は以前から勤めてくれている人たちがいるし、商会の方の忙しさは一時の間だけ。それに領主と商会を同時に管理するなんて、別段珍しい事でもないでしょ?」
別に領主が商会を運営している事は別段珍しい事ではない。
例えばその地で採れた特産物を使い、商会の取引で資金を稼いでいる領主は意外と多い。現に私の実家でもあるアージェント家も、領地で採れた鉱物を元に商会を運営していた訳で、寧ろ商売に手を出していない領主の方が珍しいほどだ。
「……わかりました。ですが私がダメと判断した時は何をおっしゃっても休んでいただきます。お約束いただけますか?」
「ふぅ、わかった、わかりました。その時はノヴィアに従うわ」
ここで意地を張ったところでノヴィアは決して見逃してはくれないだろう。
私だって疲れた時は休みたいし、今ここで倒れたらしたら取り返しのつかないことになることぐらい、十分に理解している。
私は両手を挙げてノヴィアに従う意思を伝える。
私は倒れるわけにはいかない。
商会の方もまだ私抜きでは動かせないし、領主の方も村人に動揺させるキッカケを与えてしまう。
もしここで私が倒れでもしてみれば、やはり小娘に任せておくのは危険だと、よからぬ噂が広まることだろう。
せっかくここまで纏りをみせ、近隣の村や街との良好な関係を築き始めているのに、たった一つのミスで全てを失ってしまう可能性もゼロではないのだ。
私はあたらめて自分にそう言い聞かせるよう、胸元に仕舞い込んだアレクから預かっているペンダントにそっと触れる。
彼がなぜ帰ってこないのか、彼がなぜ今だにこのペンダントを私に預けてくれているのかはわからないが、それでも何時も勇気と元気をくれている事には違いない。
今一度元気をチャージするよう、私はペンダントの暖かさを肌に感じる。
その姿を痛々しく見つめるノヴィアの視線に気づきもせずに……。
「クランベット、例の
「間もなく原稿の方が上がってくるかと、届きましたら私の方で一度確認してからお持ちします」
商会本部内にある一室。
ここには今、私が選出したチーフ達が集まり定例の会議を行っている。
その選出した基準だが、仕事の覚えが早く臨機応変に対応できる能力。人の上に立つ事ができ、コミュニケーション能力が高い人物。そして今後その能力が成長していくだろうと感じた人たちを選ばせてもらった。
おかげで年齢層はバラバラ、出身もこのアクアで生まれ育った者もいれば、先の内乱でアージェント領から逃れて来た人もいる。
クランベットに至っては、元アージェント家の料理長なんだから、そのバラバラ具合は分かって貰えるだろう。
「そうして貰えると助かるわ。今回の
長年私のワガママに付き合わせたクランベットなら、ある程度任せておいても問題はないだろう。
「ココア、先日のアルマード商会の取引だけれど」
「問題ありません。先方がまた無茶な納期を言って来ましたが、私の方で処理しておきました。後で報告書をまとめてお持ちしますね」
「ありがとう、相変わらずあの商会は要注意ね。ブレンダ、例の新商品はどんな感じかしら?」
「発酵の方は順調に進んでいます。ただこれから気温が高い季節になるので、その辺り少し不安ですね」
「そうね、その辺りは風を通すかして調整するしかないわね」
順番に議題に上がっている内容を確認しながら話し合う。
ココアはヴィスタが居た時から働いてくれているスタッフで、今は受付チームのリーダーをやってもらっている。
ブレンダはアージェント領からの難民で、以前は多くの食材を扱っていたという経験を持つ年長のスタッフ。彼女には今私が望んでも再現できなかったある調味料の製造をお願いしている。
その調味料とはズバリ日本醤油。
海沿いの村という事で魚が凄く美味しいのだが、残念な事にこの世界には醤油という調味料が存在しない。ならばいつものように再現すればいいのだが、醤油に関してはそういうわけにはいかないのだ。
あの黒くて何とも言えない独特の味。
焼き魚にかけるもよし、卵かけご飯にかけるもよし、煮物の味付けに使うもよしで、その使用用途は多種様々に利用できる。
だけどこの醤油、果実や大豆をすり潰したところでできる物ではなく、1年もの期間を丁寧に発酵という手段を用いて初めて完成するのだ。
この商品に手を出したのは昨年の11月なのだが、完成にはまだ半年以上の歳月が必要になるだろう。
「……それじゃ取り敢えずはそんな感じでお願い。問題が出始めたら早めに報告するのを忘れないで」
「わかりました」
「これで今日の議題は終わりかしら?」
手元の資料を再度確認しながら議題の漏れがないかを確認していると、出席者の一人が手を挙げ発言の許可を求めてくる。
「リネア様、製造部から一点よろしいでしょうか?」
「何かしら? シトロン」
質問を投げかけてきたのは、ブレンダと同じくアージェント領から流れてきた年若い青髪の青年。
現在私が今もっとも注目し、ヴィルが抜けた穴を埋めてくれるだろうと期待しているスタッフの一人。性格よし、知識よし、おまけに顔もよしと、三拍子揃った好青年。コミュニケーション能力も高く、現場では若いスタッフ達を中心に評判も非常に高いと聞く。
「実は賞味期限の表示の件なのですが、現場ではやはり無くす方が売り上げにより一層貢献出来るのでは、という話が上がっておりまして」
またこの話か。
実は各種調味料の賞味期限表記を無くしては、という話は前々から上がっていた。
アクア商会の立ち上げ時のスタッフには、理由を懇切丁寧に説明していたのだが、急激な商会の成長とともに雇い入れた新しいスタッフには、どうも受け入れがたい内容らしく、若いスタッフを中心に賞味期限は無くした方がいいという話が上がっているのだ。
前世では食の安全を守るために当たり前に賞味期限が存在していたが、私が今いる世界では考えすらしていなかったもの。
更に賞味期限の内容が、その期間まで美味しくいただけるだけなので、決して表示期間を過ぎたとしてもすぐに使えなくなるというもので、その事が更に大きく反発をかう結果になってしまっている。
そのようなものを私の指示により入れさせているのだから、納得の出来ない者も出てきてしまうのだろう。
このアクア商会は言わば発展途上の真っ只中。
将来性もあり、順調に取引先を拡大し続けているのだから期待しているスタッフも多い。そのうえ商会の拡張でアージェント領からの難民を多く起用しているので、少しでも業績を伸ばして自分の居場所を確かにしたい気持ちもわからないでもない。
だけど……
「シトロン、貴方には前に説明したと思うのだけれど、賞味期限は必要なものよ。確かに賞味期限が過ぎたとしても安全性には問題ないけれど、表記する事によって食の重要性を理解してもらい、保存や使用方法を見直してもらうのに大切な項目なの。もしこの項目がなければ注意事項なんて誰にも見てももらえないわ」
如何に常温でも保存できるとはいえ、一度開封してしまえばどんな菌が入るかも分からない。
この世界じゃ冷蔵庫なんて便利なものは存在しないので、保管や使用方法にはより的確に行うとこが求められる。
それにマヨネーズにしろソースにしろ、前世のように容器から絞り出すという動作でなく、陶器の壺に入ったものをスプーンですくって使用するというものなので、もしそのスプーンでお肉や魚を触っていたとすれば。もし洗い物の際に雫が容器の中に入ってしまえば、常温で保存されている調味料はたちまち器の中でウィルスが繁殖してしまうことだろう。
だから賞味期限という表記を示し、安全に使用する方法を十二分に学んでもらうしかないのだ。
「ですが、賞味期限の表記があるがために買い渋るお客様もいると聞きますし、札の加工や印刷で経費も上がってしまいます。リネア様がおっしゃっている食の安全というのなら、通常の注意事項だけでもいいのではないでしょうか?」
「貴方の言い分もわかるわ。扱い方については注意事項だけでもいいのかもしれないけれど、それだけじゃ足りないのよ」
この場合、馴染みのない人たちにはどのように説明したらいいのだろうか。
もともとソースやドレッシング類がない世界。何かを作ろうとすれば粉状のスパイスから作り出し、保存や作り置きをしていなかったので、その辺りの感覚が分かりずらいのだろう。
「人はすぐに慣れてしまうわ。自分は大丈夫、私が間違える筈がないと、徐々に意識が薄れていってしまう。そんな時、製造日や賞味期限を確認する事によって、あたらめてこの食材は安全なのだと、こんな保存の仕方じゃ痛んでしまっているんじゃないかと、再度使用前に認識してもらうことが必要なの。わかって貰えるかしら?」
もしかしたら皆さんにも身に覚えがあるのではないだろうか?
賞味期限という限られた期間を設ける事によって、その商材は大丈夫なのかと使用前に確認する。
その際に『あっ、これ冷蔵保存だったの?』だとか、『これ色が変わっているけど大丈夫なのかしら?』と、使用前に再度商材を確認し、問題なく使用できるのか注意事項読み直したことはないだろうか?
何も賞味期限の表記が正しいとは言わないけれど、食の安全を守るために一人一人の意識を上げるきっかけになればと考えている。
「そう……ですね。申し訳ございません、私が間違っておりました」
「ありがとう、貴方なら分かって貰えると思っていたわ。他に不満を抱いている人もいるようだけれど、そちらの対応はお願いしてもいいかしら?」
「わかりました。そちらは私の方で対応しておきます」
「助かるわ」
シトロンの様子では、どうやら今の説明で理解してもらえたようだ。
後は不満に思っている人たちへの対応だが、現場チーフである彼に任せておけば問題ないだろう。
本当なら私が直接現場に行って説明をすればいいのだが、正直現場に出向いている余裕もないし、トップでもある私が出てしまえば現場チーフである彼の立場を潰してしまう。
それに彼の今後に期待している私としては、どの様に対応してくれるのか楽しみでもある。
それにしてもやはり、食品の取り扱いについて危機感が足りていない様だ。
これは私が考えているだけなのだが、この世界でもウィルス性の食中毒や感染症は存在してる。ただそれらの現象が騒ぎになっていないだけで、今も苦しんでいる人はいるのではないだろうか?
これが前世ならTVやネットですぐに情報が行き渡るが、情報伝達が発展していないこの世界では騒ぎになる前に沈静化してしまう。
知らないものは注意はしない、騒ぎを知らなければ危険性を感じない。だからこの世界の住人は食の危険性が希薄なのではと考えている。
「この際だから皆んなもよく聞いて、私たちが扱っているのは言わば加工品。もしここで食の危険を及ぼすようなものが混入してしまえば、その範囲は壮大なものに広がってしまうし、多くの死者を招く事に繋がりかけない。
もしそんな重要な事件を起こしてしまえばこの商会がどうなるか、説明しなくても貴方たちなら理解できるでしょう?
それだけ私たちが扱うのはそんな重要なものなの。その理由と気持ちをここにいる皆さんだけは理解してください」
正直いきなり全てを理解してほしいと言っても、すんなりとはわかって貰えないだろう。
私だって直接食中毒を起こすような事件は経験がないので、説得力には欠けると思うけれど、それでも人の生死が関わってくるとなればそうも言ってはいられない。
いまは徐々に理解して行ってもらうしかないだろう。
こうしてこの日の会議は問題なく終える事が出来た、かの様に見えるのだった。
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