感想戦①
窓の外から生徒たちがはしゃぎ合う笑い声がした。対局中にも、恐らくは他の音があったのだろう。今まで盤上に集中していた意識が現実に戻って、ようやく届くようになったのだ。張り詰めるような緊張は霧散し、身体が呼吸の仕方を思い出していた。
「なんだお前ら、勝ったんだから喜んでみせろよ。辛気臭いぞ」
高槻さんは茶化すように僕たちを見回した。それから対面に座るハンナさんに向き直り、口元を緩める。
「ようこそ将棋部へ。いきなりの大金星だな」
「私は、教えてもらった通り指しただけですから」
ハンナさんが困ったように俯いた。照れ隠しなのか手をもじもじさせている。
「棋譜並べは上達への近道だ。間違ったことはしていない」
バルトシュさんがハンナさんの傍に寄り、肩に手を置く。
「これで約束通り、我々が喧嘩した理由を明らかにせざるをえないわけだ。ただ、申し訳ないのだが、そんな大した話じゃないんだよ。こんな仰々しく、あらたまって聞かせる内容じゃない」
「でも、気になりますよ。バルさんは急に来なくなるし」
恐山さんが言った。なぁ、と同意を促すように熊田さんと宝さんを見る。
「口も利かなくなって険悪な雰囲気だって、剣道部の先輩も言ってました」
「色々聞き込みしたけど、誰も理由を知らないから」
心配しました。そう告げた宝さんの瞳は潤んでいた。流石に思うところがあったのか高槻さんは腕を組み、天井を見上げた。
「この対局を仕組んだのはお前だろ矢吹。よく気付いたな、9四角」
こちらを見ないまま高槻さんが呟く。バルトシュさんが椅子を取り出して、高槻さんの斜め後ろに座り僕の方を見た。暗に、空手形だった推理の中身を示せと言われている気がして、僕は小さく咳払いをした。
「手始めは、ハンナさんから聞いた話です。日本に来て間もないのにいきなり友達を家に連れてきたので驚いたと言っていた」
「ええ、言ったかも。公園で喋った時ですね」
「日本語をまだ話せなかった同級生に、小学生の高槻さんは将棋を教えようとしていた。紙と段ボールを使って遊んでいた様子を陰で眺めていたハンナさんは『ずっとチェスだと思っていて、後で教えられてそれが将棋という日本固有のゲームだと分かった』と言ったんだ。覚えてる?」
「そう、兄にルールを聞いて、それで将棋というものを知ったの」
将棋は海外でジャパニーズ・チェスと表記される場合がある。形が似ているからだろうが、僕はこの呼び名に賛同していない。チェスの方が圧倒的に競技人口が多いのは認めるとしても、なぜスタンダードをそちらに譲らなければならないのか。いつかチェスのことをヨーロピアン・ショウギと呼んでやるぞと心の内に誓っている。
「将棋を『チェスのような』ゲームだと思ったなら分かります。でも『チェスだ』と勘違いするのはおかしい。持ち駒ルールも、使用している駒の見た目も、種類も、盤の大きさも違う。両者を混同した理由があったはずです」
バルトシュさんは懐かしそうに目を細めた。遠い日の記憶。高槻少年はどうやって日本語の通じない相手に将棋を教えたのか。
「紙と段ボールで、盤の方には工夫のしようがない。あるとしたら駒です。段ボールで作った駒は、チェスの駒表記にしたんじゃないですか」
「チェスの駒表記って、アプリの設定から変えられるやつか?」
熊田さんがスマホを取り出して確認を始めた。アプリだけではなく、実際の駒でも海外向けに表記を英字にしているものは存在する。歩兵はポーンのP、香車はランスのLといった具合に変換される。
「アルファベットの大文字が行き交っていたなら、チェスだと思っても不自然じゃない。将棋を知らなかったなら余計にそう考えるだろう」
「その通り」パチパチとバルトシュさんが小さな拍手をした。「懐かしいな、動かし方の絵が描かれたルールブックを渡されてね。無理やりやらされたんだ。何が何だか分からないうちにゲームが始まって、何が何だか分からないうちに負けた」
「高槻さん、昔からそんなだったんすね」
熊田さんが呟いた。僕と同じ感想だ。
「でもそれがどうして、棋譜の続きの解明に繋がるの?」
「ハンナさんがバルトシュさんの部屋で棋譜を撮影したのが5月7日の土曜日、バルトシュさんが午前中に出掛けたんだったね。お兄さんが深刻な顔で棋譜を取り出して眺めていたのを心配しての行動だった」
「ええ、そう。部屋に忍び込んで撮ったの」
「それを聞いて近いうちに鍵を設置すると決めたよ、私は」
バルトシュさんが呆れ顔で妹を見る。心配させる方が悪いんじゃない、とハンナさんは突っぱねるような態度だった。兄に対しては強気のようだ。
「午前中に撮影したなら、バルトシュさんが棋譜を眺めて深刻そうな顔をしていたのは前日の5月6日か5日あたりでしょう。どちらにせよ棋譜の日付は3月20日ですから、一カ月以上も空いている。当日の出来事以外で何かあったと考えられます。そして、その棋譜を見直すような何かが発生したのは、6日か5日よりも前に起きたことになる」
「そのあたりで起きたことっていったら、やっぱり『Z』事件?」
宝さんが声をあげた。
「そうです。野球部のグラウンドに石灰で大きく『Z』と描いて受験祈願だと高槻さんが言い張った傍迷惑な事件が、そこで起きています。二人とも共通の友人から野球部の練習試合に誘われていたそうですね。あれは、高槻さんがバルトシュさんに当てたメッセージみたいなものだったんじゃないですか?」
喧嘩中の相手に向けたメッセージ。仲直りの申し出にしては拙く、歩み寄りにしたって不器用で、あまりにも言葉が足りない。けれど二人の間でしか伝わらないものだ。
「あれは『Z』じゃなくて『N』でしょう。高槻さん自身が後になって『Z』だと言ったから皆そう呼んでいるだけで、発見された時はどの角度から読むか、アルファベットか否かさえ曖昧だったはずです。意図された文字が『N』なら、チェス駒表記ではナイトがそれに当たる。対応している駒は桂馬です」
ナイトは八方桂の動きなので厳密には異なるが、桂馬のチェス駒表記はナイトが当てられている。
「5月4日に見つかった『N』、5四桂だ。あの棋譜の続きに当たる『5四桂』を、高槻さんは残したんですね」
「まさかバル以外で読み解ける奴が出るとはな」
高槻さんは声を出さずに笑った。
「本来、その手は先手のバルトシュさんが指すべき手でした。でもあの将棋はすでに終わっている。だから、先後を入れ替えた2局目は高槻さんが指した。ハンナさんとの対局でも出たように、次の手は7二玉」
「てことは、7月2日の『K』? あ、あれって」
宝さんが立ち上がってカレンダーを捲り始める。僕たちが部室で相談していた時に偶然にも発見できていたのだ。7月2日の傍らに小さく書かれた『K』の存在を。
「これを書きに部室へ寄ったんだ。気付かなかった」
「まさか宝に見つかるとは思ってなかったから焦ったよ。突然、扉がバンと開いたから心底驚いた」
「その次の手は、カレンダーに書かれていたんですか?」
僕が尋ねるとバルトシュさんは無言で頷いた。二枚、月を進める。9月4日に重なるように赤いマジックペンで大きくBと書かれている。角行はビショップ。9四角。
「なんだ、確認してなかったのかよ」
「高槻さんには僕が勝つつもりだったので必要ないかと」
「生意気なやつめ」
負けたけどね、と黒木さんが小さく呟いたのを僕は聞き逃さない。睨んでやると顔を逸らされた。
「そんな回りくどい事するぐらいなら、さっさと謝って仲直りすればいいのに」
「でも、高槻さんが素直に頭下げるわけないだろ」「それもそうか」「何でもかんでも将棋で解決しようとしすぎなんだよ」「でも高槻さんだし」「それもそうだな」
二年の先輩たちが好き勝手な事を話しているが当の本人はどこ吹く風といった様子で堂々としたものだった。一勝一敗。バルトシュさんが言っていた歩み寄りというのは、この事だったのだろう。
「続きはなかったんですか」
「いや、ない。9四角を指せるなら、詰みが見えているということだ。ここで投了が美しい。私はそう思ったし、タカも続きは残していなかった」
「カレンダーを謎のアルファベットで埋めたら目立つだろ」
そのわりにBは赤のマジックで派手だが、本人は慎ましく書いたつもりらしい。
「あの棋譜が詰んでいたのはそれで分かったけど」黒木さんが小さく手を挙げた。「それが喧嘩になった理由とどう繋がるわけ?」
「あの棋譜を読み解くうえで必要なんだよ。高槻さんが三十八手目の7九龍を指した後、バルトシュさんが三十九手目に着手する前に高槻さんが投了した。この時に、局面が詰んでいたかどうかが大事なんだ。二人の認識に関わってくる」
「詰んでいたから、高槻さんは兄が指す前に諦めて投了したのでは」
ハンナさんが首を傾げた。
「前にも言ったけど、それはないよ。高槻さんは将棋に関して妥協しない。喧嘩の仲裁を申し出た後輩全員をボコボコにしてしまうぐらいなんだから」
適当に負けておけば僕たちが介入できたのに、それを選ばなかった。
「慣習的にも、ここでの投了はありえないんですよね」
「そう。勝負を投げる投げない以前に、相手の手番だからね。ここでの投了に意味があるとすれば、それは投了が最善手だと判断した場合だ」
「投了が最善手?」
高槻さんとバルトシュさんを顔を交互に見る。二人ともどこか遠くを見ているようだった。
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