▲6三 駒音
六時限目にぽつぽつと窓を叩きだした水滴は、徐々に本降りへと変化した。雷雨のような勢いはなく、だらだらと明日明後日まで続きそうな陰鬱さがある。校舎が薄暗いので余計にそう感じたのかもしれない。鈍重な雲が空を覆い、呼吸する空気さえ湿り気を帯びている。
図書館はいつもより盛況だった。これは年々悪化の一途を辿る若者の活字離れへの明るいニュースではなく、傘を忘れた生徒が僅かな可能性を信じて籠城戦を決め込んだ結果である。今月の新刊コーナーから映像化されたらしいハードカバーの小説を手に取ってパラパラと捲ってみたが、内容は頭に入ってこなかった。
もう高槻さんと黒木さんの真剣勝負は始まっている頃だ。入室禁止は授業後から1時間きっかり。両者が部室に到着して対局が始まるまでで十分として、対局は公式戦ルールと同じ20切れなのでフルに使っても四十分。感想戦は今回に限ってはないだろう。
「お、私もそれ読んだよ」
後ろから背中をポンと叩かれて振り返ると宝さんだった。赤縁眼鏡の蔓を持ち上げて「やぁやぁ」と笑みを見せる。図書館なので小声だった。僕も同じようにボリュームを下げて応じた。
「先に映画を観たんだけどね、結末が違って面白かった」
「ネタバレは禁止ですよ」
「分かってる分かってる。ラストで実は主人公が死んでたりしないから安心して」
言ったそばから何か重大な情報を聞かされた気がしたが、それがネタバレなのか無関係な他作品なのか判断できない。宝さんのことだから、恐らく後者だとは思うけど。
新刊コーナーから離れて、僕たちは詩句・地理の本棚の前に移動した。対面はSFと海外小説だ。五言絶句や郷土史に興味があるわけではなく、その周辺に人がいなかったためである。図書委員の冷たい視線を浴びることなく、多少は気軽に会話が出来る。
「お昼に、バルトシュさんに会いました。恐山さんが案内役で」
「高槻さんに比べたらだいぶまともだったでしょ」
「ほとんどの人はそうでしょう。でもそうですね。優しそうな人でした」
「何の話をしたの?」
僕は昼休み中の出来事を宝さんに伝えた。恐山さんの案内で会ったこと。ポーランド語で揶揄われたこと。飲み物を奢ってもらい、そして中庭で話したこと。僕が話し終わると、心配するなったって気になるよねぇ、と宝さんは唇をすぼめた。
「お互いに歩み寄っている、ね。そんな感じはしないけど」
「一勝一敗、というのが気になるんです」
「どこかで対局したのかなぁ。でも変だね、あの棋譜の日の翌日は卒業式だし、そこから春休みに入るでしょ。新学期からも、あの二人が将棋を指してたなんて話、聞いたことないよ」
「三年生の教室じゃないですか?」
「ないない。あの二人の喧嘩って、三年の将棋部以外の共通の友達だって知ってるんだよ。三年生にだって聞き込みはしたし、何かあったら教えてくださいってお願いしてるけど情報なしだもの。口もきいてないって」
ありえない、と宝さんは断言した。三年生は受験が本格的に始まるため、程度の差はあれ教室に残って勉強している人も多い。確かに、喧嘩中の二人が将棋をじっくり指していたら流石に誰かに見つかるだろう。
「前に、バルトシュさんが将棋部に出入りしていたおっしゃってましたけど、それはいつでしたっけ」
「先週の月曜だよ。ゴールデンウィーク明けだから、5月の9日。荷物を取りに来たって言ってた。たまたま廊下でバルさんが部室に入るのを見かけたから、すぐに追いかけたの」
「そこで対局した形跡はありませんか」
「無理無理、5分もいなかったし。第一高槻さんはあの日来てなかった」
「そうですか」
「でもねぇ。うん、矢吹君が怪しむのも分かるよ。なんか、荷物を取りに来たのって不自然だよね。別に4月中に取りに来れば良いわけだし、言い訳くさいかも」
「何かなかったんですか、不審な動きは」
「全然。部室でバルさんが一人だった時間だって30秒もないよ」
宝さんは首を振った。
ハンナさんが兄の深刻な顔を憂いて、兄の部屋に侵入し、棋譜の写真を撮ったのは土曜日。5月7日だ。つまりその前日、バルトシュさんは自室で1カ月も前に指された棋譜を取り出して、眺めていたということになる。そして週明けに新学期から一度も訪れていなかった部室に現れた。
「高槻さんがグラウンドでZ事件起こしたのも近いね。あれも確か先々週の水曜だよ。みどりの日」
「本人は受験祈願だと言い張ったんでしたっけ」
「そうそう、絶対に詰まないから縁起が良い、って。受験生ってガラじゃないでしょうに。あの日はバルさんが野球部の練習試合に誘われてたらしくてさ、嫌がらせじゃないかって言われてる」
「え、その場にバルトシュさんがいたんですか?」
「うん、本当は高槻さんも誘われてたらしいけどね。共通の友達が、二人を野球に誘って間を取り持つつもりだったみたい」
「もしかしたら、何かのメッセージだったとか」
口を突いて出た発想はおよそ推理と呼ぶには飛躍しすぎている。その自覚はある。しかし、まるきり的外れでもないと思えた。少なくとも、高槻さんは白線で引かれたZを、バルトシュさんが目撃するのを知っていたことになる。本当に嫌がらせだったら、もっと無作為な線の方が効果的だ。どうしてZを選んだのか。
高槻さんの奇行は昨日今日に始まったことではない。去年も一昨年も、何かしら傍迷惑な伝説を残しているのを聞かされている。
しかし、Z事件に限っては飛びぬけて不可解に思えた。将棋の成分が薄すぎる。Zは将棋用語ではあるが、どちらかと言えばマイナーだ。普通の人はアルファベット一文字で将棋を連想しないだろう。グラウンドに描いても将棋のアピールにならない。
「メッセージか。考えられなくはないけど、でも、どういう意味なの?」
「それはまだ分かりません。でも、バルトシュさんは一勝一敗だと言っていました。最初の棋譜ではバルトシュさんが先手だったから、二局目は高槻さんが先手になるはずです。だから、先にアクションを起こしたのは高槻さんで、それがZ事件だった可能性はあります」
春以降、二人が校内で将棋を指していた目撃情報は一件もない。Z事件が何かしらの勝負なら、それに高槻さんが勝ったのだ。勝負の内容は将棋以外にはありえないだろう。しかし、Zは状態を表す用語であって、指し手ではない。
「そうだとしたら、随分と迂遠なアプローチだけど、まぁ一応あの二人も何とかしようとは思ってるだけ前進かな。このまま自力で仲直りしてくれれば、私らも苦労しないんだけどねぇ」
世話の焼ける先輩だよ、と宝さんが大袈裟に溜め息をついてみせる。
そこで会話が途切れ、僕はスマホを取り出して時刻を見た。まだ三十分。決着はまだだろう。少なくとも黒木さんはフルで時間を使うはずだ。格上の相手に一発入れるには、用意の作戦以上に現場の閃きが求められる。
「もう少し待たないとね」
僕の動作から考えを察してか、宝さんはそれだけ言うと僕を置いて新刊コーナーへ戻っていった。
まだ雨は止まない。図書室内の生徒の数はまばらになっていた。諦めて走ったか、別のところで時間を潰しているのだろう。手持ち無沙汰になった僕は近くにあった海外小説の棚から一冊抜き出し、椅子に座った。
その本が読みたかったわけではない。有名なタイトルだったから目についただけだ。モノリスが出てきて、木星に調査に行く話だという大まかな粗筋だけ知っている。モノリスなんて兄がやっていたゲームを借りて育成した思い出しかないけれど、この小説のモノリスは随分と特別な存在らしい。
僕が悪いのか小説が悪いのか判断しかねるが、冒頭を読んでも僕にはいまいち理解が及ばなかった。しかし、有名作と呼ばれている以上何かしらあるはずだ。数多の読書人が先達となり、時の洗礼を受け生き残った作品なのである。数ページ読んで、かばかりと心得て帰りにけりと棚に戻すのは癪だった。この後で凄い展開があるに違いない。そう自分を納得させて、さっき手に取った新刊のハードカバーと一緒に貸出手続を行った。
いかにもな丸眼鏡をかけた図書委員から本を受け取り、雨で濡れないように鞄の奥に詰める。宝さんを奥の読書机で見かけたが、僕は図書館を出た。出入口を曲がって少し進んだところに、部室の扉がある。扉を見つめて何かが変わるわけではない。けれど、待たずにはいられなかった。そんな人間は僕だけかもしれない、と思っていたが、将棋部の前には熊田さんがいた。壁にもたれて、スマホをいじっている。
近付くと視線が一瞬こちらに向き、すぐさま画面に戻った。
「剣道部はいいんですか」
「いいよ、道場でもやってるしな」
熊田さんはあっさり答える。そういう問題なのだろうか。
「そろそろ終わるぞ」
「どうして分かるんです」
「駒音で察せる。真っ直ぐ伸びた指と、震える指の差だ」
外はまだ雨が降っていた。風が強くなってきたようで水滴が斜めに流れている。雨音は絶え間なく続き、時折それを割るような駒音が部屋の中から響く。僕は熊田さんと共に壁に持たれて、それを聴いていた。
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