Act1. 夢見草

1-1

 ──降り続く雨が赤い液体と共に道路に流れていく。赤い傘を差す少女は棒立ちになってその光景を見下ろしていた。


 ドミノ倒しになった自転車の群れに紛れて友人が倒れている。友人が履いているヒョウ柄のミニスカートはめくれあがり、日に焼けた太ももに雨粒が当たる。

ピンク色のトレーナーを着ている彼女の腹部には赤い血が滲んでいた。


ガタンガタン……列車が線路を通過する。もう友人の唇も指も動くことはない。恐る恐る名前を呼び掛けても反応はなかった。


 携帯電話のボタンを押す手の震えが止まらない。

1……1……0、押した直後に繋がった相手に向けて少女はか細い声で伝えた。


「友達が……死んでいます」


それだけを言うのが精一杯だった。場所は川口かわぐち蕨陸橋わらびりっきょうの自転車置き場と伝えて電話を終えた少女の頬には涙が流れている。


 流れた涙を袖で拭い、少女はふと陸橋の上を見た。どうして陸橋を気にしたのかはわからない。でも誰かに見られている気配を感じた。


陸橋の階段のちょうど真ん中辺りに黒い傘を差した黒いスーツの男が見える。少女の位置からはその人の顔はよく見えない。

若いのか中年なのかもわからない。彼がそこで立ち止まっている理由もわからない。


 ほんの一瞬、少女はその男と目が合った気がした。


 遠くでパトカーのサイレンの音がする。警察が到着する前に男は階段を上がり、陸橋の上に消えた。


        *


2018年4月12日(Thu)


 閉めきったカーテンの向こうから雨の音がした。春の雨はそれだけで彼女を憂鬱に引き込み、封印した記憶の扉を無理やりこじ開けようとする。


雨の音に紛れて聞こえたスマートフォンのバイブレーション。布団を被ったままベッドサイドのスマホを掴んで着信応答のボタンをタップした。


「……はい」

{俺。寝てた?}


 同僚の九条大河の声が目覚まし代わりというのも寝覚めが悪い。ベッドサイドの置き時計の針は7時を示している。

不機嫌極まりない顔で身体を起こした神田美夜は、寝起きのかすれた声で九条に答えた。


「今起きた」

{なら早く顔洗って支度しろ。あと10分ちょいで神田の家に着く。そのまま現場向かえって主任の指示だ}

「わかった」


 先月末に引っ越してきたばかりの八畳のワンルームには荷ほどきされていないダンボールが数箱積まれている。元より荷物の量は少ないが、彼女はダンボールの隙間を器用にすり抜けて洗面所に向かった。


 支度は10分もあれば事足りる。薄く塗ったファンデーションとアイブロウを描いて美夜のメイクは完成だ。社会人らしい清潔感があればそれで良い。

むしろアイシャドウやマスカラで作り込んだ華やかなメイクをしていれば上司や同僚の反感を買うだろう。


警察学校時代はボブだった髪もセミロングまで伸びた。もう少し伸びたら切らなければならないストレートの黒髪は後ろでひとつに束ねるだけ。


マスカラやまつ毛エクステ、二重を作るアイプチ、鼻筋を作るハイライト、上気した頬を演出するチークやシャープな輪郭が手に入るシェーディング、そんなものが不要な美夜の整った顔はしばしば同性の妬みの対象にされる。


 生まれ持った末広の二重瞼とアンニュイな魅力を醸し出す三白眼、キメ細かな白い肌と小さな顔、スラリとした細い体躯。

美に執着する同性達にしてみれば美夜の持つ美貌は憧れと嫉妬の産物でしかない。


だけど美夜は自分の顔が嫌いだった。

望んでこの顔に生まれてきたわけじゃない。そもそも、生まれたくて生まれてきたんじゃない。


 ──神様って不公平よねー。あたしもあんたみたいな顔に産まれたかった──


嫌いな女が欲しがったこの顔が、大嫌いだった。


        *


 美夜の自宅は赤坂駅まで徒歩5分圏内の港区赤坂二丁目。周囲には赤坂溜池タワーや衆議院赤坂議員宿舎、有名企業の本社ビルが立ち並ぶビジネス街だ。

住居とするマンションは裏道に面した静かな場所にひっそりと佇んでいる。


エントランスを出た瞬間に感じた雨の匂いにまた憂鬱になった。

昨日まで青く晴れていた空はどんよりとした灰色に覆われていて、雨空の下に黒いセダンが停まっていた。運転席には先ほどモーニングコールをしてきた九条がいる。


「おはよう」

『おう。初めて来たけど家の場所分かりにくいな。一回入る道間違えた』

「港区にしては静かでいい所でしょ。この路地裏感が気に入ってるの」

『しかもオートロック? 俺より良いところ住んでやがる……』


 美夜と九条はこの春から警視庁捜査一課に配属になった。

警視庁配属前の所轄時代から合同捜査本部で二人は何度か顔を合わせている。彼が捜査一課での美夜の相棒バディだ。


「現場は?」

『豊島区の公園。今朝6時頃に通報があった。ここに今わかってるだけの情報が入ってる』


 九条に渡されたタブレット端末に羅列する文字の塊にざっと目を通す。

午前6時過ぎ、豊島区の染井よしの桜の里公園のトイレ内で女性が倒れていると110番通報があった。通報したのは犬の散歩をしていた近所の主婦だ。


豊島区では未明から弱い雨が降っていた。

公園の前を通りかかった時に犬が公園の公衆トイレに向かって吠えた。吠え方が尋常ではなく、不審に思った飼い主がトイレの扉を開けると血まみれの女の死体が横たわっていたと言う。


染井よしの桜の里公園は豊島区駒込にある。管轄は巣鴨警察署だ。


「一課の私達が呼ばれたのはどうして?」

『断言はできないが、主任が言うには先月の台東区のデリヘル殺人と同一犯の可能性もあるらしい。一応、俺達で現場見ておけって』

「同一犯だとしたらマスコミがまた騒ぎ出すね。ツイッターであの名前を使った成り済ましが絶えないでしょ?」

『“21世紀の切り裂きジャック”か。そんな名前つけて犯罪者煽って何が楽しいんだろうな』


 東京に桜の開花宣言が出された3月29日、台東区のラブホテル街で女性の遺体が発見された。

被害者は初瀬明日美、二十四歳。彼女はデリバリーヘルスの仕事をしており、殺害現場近くのホテルで仕事をした帰りに何者かに殺害されたと見られている。

事件から2週間が経過する今も犯人は捕まっていない。

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