少女心中

水都クリス

第1話

一歩…また一歩と踏み締めながら重くなった足を運ぶ


右足が地面から離れ、左足が着地する前の、ほんの1秒にも満たない刹那、私はこの窮屈な地を離れ、空を飛んでいる

肺は今にも爆発しそうでその内に四肢さえもちぎれてバラバラになりそうな程なのに、走れば走る程私は高みに登っていくのだ






「本当にいいの?」

綾(りょう)が不安そうに聞いた。

「何度も言ってるでしょ?後悔なんてしないって。」

アヤは白い錠剤を小さな山が出来るくらい手に出すと、それを口に放り込んだ。

大丈夫。綾のいない世界を一人で生きてく方が嫌。そう口にしたかったが、もう言葉にならなかった。



これは、今より1ヶ月ほど前の出来事から始まった。





ピンポーン

インターフォンが鳴ったのを合図に時計を見ると、6時30分。今日も時間ぴったりだ。

玄関に向かい靴を履き、下駄箱の上に置かれた水槽で飼われている金魚に餌をあげた。

細かいフレーク状の餌は、水面を漂い、又金魚もそれに倣うようにゆっくりのったりと漂いながら水面に口を出して餌を食べた。鮮やかに赤い私の金魚。その尾びれは天女の衣の如く美しい。アヤと小学生の頃一緒に行ったお祭りで3匹釣って、うち2匹はあっという間に亡くなってしまったが、この金魚だけは生き残った。

ずっと見ていたいが、待たせているアヤの事を考えるとそうもいかない。鞄を持つと「行ってきます」と言って外へ出た。

門扉の外にはいつも通り、幼なじみのアヤが立っていた。

「お早う」

声をかけると、長いまつ毛に縁取られた大きな瞳が、半月状になって「お早う」と返ってきた。吐く息は白く、ほっぺは真っ赤に染まっていた。

「毎日私に付き合って早く登校しなくてもいいのに」

「いいの!私も学校でやりたい事あるし…むぎゃっ」

冷たいほっぺを両手で挟むと、むぎゃっという、聞いた事の無い声を出すので笑ってしまう。

「手、あったかいでしょ?」

「もー!綾!」

「むぎゃっだって」

綾はアヤの真似をして笑った。

「さ、行こ!寒いから早歩きでね」

「えー、もっとゆっくりがいいのに」

冬空の下、2人で学校までゆっくり歩くのが好きなのに…2人だけで。そうアヤは思ったが、決して声には出さない。


「あらー!柿崎さんとこの娘さんじゃない!聞いたわよー!陸上頑張ってるんですってね」

綾とアヤが話していると、急に二人組の婦人に声をかけられた。どこかで見た事あるような?無いような?

と、綾は一瞬考え込んだが、すぐにいつもの事だと切り替えて

「はい、ありがとうございます。」

と言って軽く会釈をしてそそくさとその場を去った。

後ろから「頑張ってね!」の声の後にコソコソと「愛想が無い」と聞こえてきたが、それを背中で受け止めて、聞こえなかったフリをして無視をする。


この山間の小さな街で、人の噂話を餌にして生きているような大人が多いこの町で、アヤにとって綾は信じられる唯一(と、言っていいほど)の人間だった。

それは、綾にとっても同じだった。


英語の宿題が難しかっただの、数学の先生の寝癖がひどかっただの、他愛のない話をしていると、あっという間に校門前に着いてしまった。


アヤを昇降口まで送ってから、綾は外にある部室へと急いだ。あっという間に行ってしまった。

アヤはちょっとガッカリした気持ちになって、綾の整えられた短い髪の後ろ姿を見送った。スッとした涼しい形の目に、今のショートはとても似合っている、と改めてアヤは思った。

さて、と。自分の靴を下駄箱にしまって上履きに履き替えた。下駄箱を見る限り、今日もクラスで私が一番乗りのようだ。

今日も昨日も一昨日もその前も、綾が陸上部に入部して朝練を始めてからずっとそうだった。


あれからもう二年になるのか、早いな。

寒い廊下に身を縮こませながら、アヤは職員室へと向かった。



「お早うございます!」

陸上部の部室のドアを開けながら、綾が大きく挨拶すると、すでに二人の部員が来ていた。

「部長!おはようございます」

これは一年生の礼子。

「おっはよーん。今日も激寒だったね。」

これは同じ二年生の美香

綾は、三年生の部活引退と同時に部長に選ばれた。反対者なんて誰一人いない、満場一致で選ばれた華々しい部長デビューだった。


「礼子はいつもだけど、美香も今日は早いね。」

「最近朝練サボってたらタイム落ちちゃってさ、トミーに喝入れられたところ。」

トミーとは、冨田先生の事だ。陸上部の顧問で、体格の良い、顔のちょっと怖い男の先生。厳しくも暖かい人柄から皆に慕われ、親愛を込めて皆からトミーと呼ばれていた。


「あぁ、なる程ね。でも美香は頑張れば頑張っただけ伸びるタイプなんだから、私も勿体ないなって思ってたよ。」

「褒め上手ー!さすが部長!」

美香は茶化したが、その表情は明らかに嬉しそうだった。


体操着にジャージを羽織って登校して来たので、着替えは必要ない。

各自に与えられたロッカーに鞄を詰め込んで、再び寒空の下に舞い戻った。


一年生の頃はこの寒さが辛くて辛くて仕方なかったが、今は心地よささえある。人間は慣れると強い、と綾は思う。


「じゃあとりあえずストレッチしてからトラック5周しよっか」

「はい、部長」

礼子は名前の通り礼儀正しくて良い子だ。

「私、タイム測る係やるよ」

「だーめ!美香も走るの!タイムは皆が来てからでいいよ」

「ちぇーっ」

わざと口を尖らせる美香。

「せっかく朝早く来たんだから頑張ろ!」

はぁい、とやる気なさそうな返事をしたが、美香はスタートを切ると一瞬で表情が変わる事を綾は知っている。


ストレッチをして、トラック5周して、少し休みながら、お互いにお互いの走り方のアドバイスをし合い、体が冷えてきたのでまた軽くストレッチ。もう一度トラック走ろうか…というところでパラパラと部員が集まり、トミーも校庭に出てきた。


「よーし、タイム測るか。2人1組になってお互い測りあえ。と、1人余るから…柿崎綾!お前のタイムは俺が測ろう。」

先生に良い所を見せたい、という訳ではないが、遅かったら何やかんや言われるな、こりゃ。だから全力で走らなきゃ。


「よーい!スタート」

トミーの声と同時に、地面を蹴り上げる。

腕を大きく振って、姿勢を正し、フォームを崩さないように。

走って走って走って走り抜く。

入部したての頃は、この5周が辛くて辛くて最後の方は気力だけで走っていたものだが、今は5周くらいなら容易く走る事ができる。


「柿崎ゴール!」

トミーの声がしても、少しの間ゆっくりと走る。これだけ全力疾走した後で急に止まるのはしんどいので、ゴールしても息を整えつつ、ゆっくり走るのだ。


「先生、どうでした?」

半周程した所でトミーの元に歩み寄る。

「うん、タイムは上々だな。この調子で行けば次の大会も良い成績が残せるだろう。」

「本当ですか!よかった!」

手応えはあった。あったけれど、それでも数字でタイムが可視化されると嬉しい。


「それよりもお前…」

急にトミーが険しい顔になった。

「痩せすぎじゃないか?また体重落ちたろ?」

やっぱり気付かれた…

「体重軽い方が良いタイムが出せるので。でもきちんとご飯は食べてます!」

「ならいいけどな、タイムも大会も大事だが、それより自分の体の方が大事だぞ。特にお前たちみたいな成長期には、食事制限なんて絶対するなよ。」

まるで見透かすような目で覗き込まれて、綾は慌てて手を振った。

「本当に…!ちゃんと食べてます!」

「ならいいがなー、…痩せすぎは体に良くないからな」

念を押すようにトミーは言った。

「ちゃんと食べてますって、あ!一年生が転んだので様子見てきます」

居た堪れず、綾は慌ててこの場を去った。

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