お前が魔王で俺が邪神!

ながやん

第1話「プロローグ」

 どこまでも落ちてゆく感覚が、不思議と浮かぶように上昇する。

 まばゆい光と共に、真っ暗な視界が開けてゆく。

 見たこともない風景は、荘厳そうごんな神殿のように天井が高い。そして、自分を見守る者たちが息を飲む気配が、素肌を泡立てる。

 九頭竜灯牙クズリュウトウガは、ゆっくりと冷たい床の上に降り立つ。


「こ、ここは……あれ? 僕は……僕、なのか?」


 妙に身体が熱く、活力に満ちている。

 驚きに両手を見下ろせば、長く伸びた黒髪がパラパラと揺れた。白い指が細くて、まるで女性のような手は変わらない。

 だが、何故なぜか今ならなんでも掴んで潰せる気がした。

 病弱な優等生の自分が、まるで生まれ変わったようである。

 どうしてそうなのかは、灯牙にはわからないし、記憶が不鮮明だった。

 そんな時に、静かな言葉が投げかけられた。


「現界、おめでとうございます。偉大なる邪神の一柱、御身おんみにこのたましいささげましょう」


 とても綺麗な、清水のような声だった。

 それは、目の前でうやうやしくひざまずく少女から発せられている。

 彼女はおもてをあげると、白妙しろたえのような頬をしゅに染めた。

 右目に眼帯をしていても、端正な表情の乙女だとすぐにわかった。

 灯牙はゆっくりと、少女に歩み寄る。

 その一歩も、見知らぬ力に満ちあふれていた。


「あ、あの……君は」

「わたしの名は、アルテア。えっと……魔王、です」

「魔王」

「はい」


 耳慣れない言葉を、灯牙はオウム返しにしてしまった。

 アルテアは今、魔王と言った。

 それは灯牙にとって、全くえんのない用語だ。

 それで自分が、受験を控えた中学三年生……それも、受験勉強しかしてこなかった人間だと思い出す。

 アルテアの前に立てば、彼女は数歩下がって身を起こした。

 だが、隻眼せきがんの目をらしつつかしこまる。


御尊名ごそんめいを、我が主。どうか、その名をお聞かせください」

「えっと、九頭竜灯牙。灯牙でいい、けど」

「クトゥルフ・トゥグア……ええと、じゃあ……クトゥグア様。この世界では、古き神々の言葉は発音が失われていますので。どうかお許しを」

「えっ、いや……普通に話してよ、様って」

「いえ、いけません。貴方様あなたさまは偉大なる邪神の一柱なのですから」


 頭が現実に追いつかない。

 困って周囲を見渡せば、他にも数名の人間が事態を見守っていた。

 その中から、長身の女性が此方こちらへ向かってくる。

 水着姿のようなアルテアと違って、よろいを着込んで腰の剣に手をかけていた。


「って、ええっ!? ちょ、ちょっと待ってください、僕は」

「いいから、アルテア様から離れろ! 不埒ふらちな……不潔な! ッ、直視に耐えん!」


 抜刀された刃が光を放つ。

 咄嗟とっさに灯牙は、手を伸べた。

 そう、待てと念じてやめてと願った。

 ただ、それだけだったのだ。

 だが、現実には紅蓮ぐれんの炎が舞い上がる。まるで灯牙の呼び掛けに応えるように、炎はへびのように女性を包んで壁へと叩きつけた。

 アルテアが小さく「ッ!」と表情をゆがめた。


「えっ? い、今のは」

「……それが邪神の力です。かつて世界を滅ぼした力」


 アルテアの目は、嘘を言っているようには思えない。

 今まで味わったことがないような、全能感ぜんのうかん

 勉強しかできなかった自分の中に、巨大な力が渦巻きくすぶっている。

 それは灯牙の気持ち次第で、どこまでも高まるように感じられた。

 先程の鎧の女性も立ち上がりつつ、おどろきにまばたきを繰り返していた。


「僕は、邪神」

「はい」

「君は、魔王」

「はい」

「えっと、つまり……待って、こういうの確かクラスで騒がれてた、ええと」


 ――

 灯牙はその手の娯楽を許されたことがないが、漠然ばくぜんと理解していた。おおよそ遊びといえるものを全て封じられ、受験一筋で生きてきたが、この状況を知っている。

 間違いなく、灯牙は異世界に生まれ変わったのだった。

 そのことを、アルテアはうつむき顔を赤らめつつ伝えてくる。


「クトゥグア様……この世界、アースティアでわたしたちと共に戦ってください。どうか、戦いに終止符しゅうしふを」


 戦いを終わらせるための、戦い。

 確かにアルテアはそう言った。

 そして、今の灯牙にはそれができる気がした。

 言葉では言い表せない力が、全身の毛の先までみなぎっている。


「そうか、僕は……じゃあ、俺は! 邪神クトゥグアで!」

「は、はいっ」

「君、じゃなくて、お前は! 魔王アルテア!」

「はいぃ……そ、それで、その」

「俺は、邪神! この力で、戦いを止める! ……なんて凄いんだ、面白い! こんなに気持ちがたかぶるなんて、初めてだ!」


 灰色の日常などもう、忘れた。

 思い出すことさえ忘れていきそうだ。

 今、この瞬間から……灯牙は邪神クトゥグアとして戦うことを決意した。

 シンプルに、違う自分に生まれ直したことだけが嬉しかった。

 力があって、それを求める者がいる。

 それは、少年にとって初めての経験だった。


「あの……クトゥグア様」

「なんだ、アルテア。ああ、やるさ……やってやる! 俺は邪神をやってやるぞ!」

「は、はい。それで……なにか、お召し物をお持ちしますので」

「……へっ?」


 燃えるような覇気に満ちて、全身が熱い。

 だから、気付かなかったようだ。

 異世界アースティアに召喚された灯牙は、だった。

 そして、アルテアは耳まで真っ赤になりながら、周囲の者たちに指示を出すのだった。

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