第8章 花の香り

第58話 ルナティルスへ

 視界に映るのは、白。

 雪のように降り積もったそれは溶ける事なく、時折吹く獣の咆哮にも似た風によって空高く舞い上がり、再び地上へと舞い落ちてくる。

 死んでもなお、終わらない苦しみを表しているようだった。


 落ちては舞い上がる、粉々に砕けた骨の雪。その白と、朽ちていくだけの生気を失った木々に、辛うじて縋り付いた葉の暗緑。はらりと死んで落ちた葉をさくりと踏んで、黒いマントに身を包んだイーヴィが、目深に被ったフードを少しだけずらして周囲を見回した。


「彼が言ってた場所って、ここら辺だったかしら?」


 問われた先で、同じように黒いマントを羽織ったライリが肩を竦める。その拍子に、ライリの肩に積もっていた白がぱらぱらと零れ落ちた。


「多分? って言うか、どこを見ても同じに見えるんだけど?」


「森に入って西……その先に葉っぱを残した木と、葉のない老木が北と南にあって、葉のある木を背にして北東に歩いてたら朽ち果てた石碑があるから、そこから南に行くと葉っぱのある木が二つ並んでて、そこから東を見ると目印があるって言ってたわ」


 ライリの横では、レフィスがメモを読みながら位置を確認していた。森に入ってから何度も開いたり閉じたりしたせいか、メモはすっかりくしゃくしゃになっている。


「メモしてて良かった。本当、この森って目印になるものがないんだもの」


「それよりさ、そのメモの道順は本当に合ってる? 石女の事だから、どこか書き間違えてるんじゃないの?」


「そんな事ないわよ! ちゃんとルヴァルドに確認したもの。三回!」


「そのルヴァルドさ……何か意識朦朧としてたよね」


「そ、それはそうだけど……」


 背後で繰り広げられる光景にどことなく懐かしさを覚えつつ、イーヴィはその雰囲気に呑まれないよう緩みかけた口元をきゅっと結んで、再度注意深く周囲を見回した。どこまでも続くと思われた死んだ色の森に、ちかりと光る何かを鳶色の瞳が捉えた。


 白い骨の大地に、錆びた剣が深々と突き刺さっている。柄は色褪せ、刃に至ってはかつての輝きすらなく、ぼろぼろに欠けたそれが他者を傷付ける事はもうないだろう。風化し、崩れ落ちるのをただ待つだけに見えた剣は、近付いたレフィスたちに反応して、淡く光を放ち始めた。


「見つけた!」


 ほっと息を吐くレフィスの前で、イーヴィがルヴァルドから預かってきた銀の指輪を嵌めた手で、そっと剣に触れた。途端、錆びた剣の刃に金色の小さな魔法陣が浮かび上がった。それは足元にも同じ魔法陣を呼び寄せ、レフィスたちは人目に触れる事を拒むかのように、一瞬にしてそこから姿を消した。




 森に入ってからずっと聞こえていた風の音が消え、視界が白から黒へ塗り替えられる。体が逆さまに引き上げられたような感覚に思わず目を閉じると、次の瞬間体を包む空気ががらりと変わった。


 肌に絡み付いて、そのまま染み込んで行くような不快な冷気が漂っていた。足元からずるずると体を這い登って来る何かを感じて、レフィスが身震いしながら目を開けた。


 辺りは一変して薄暗く、湿った空気の漂う石造りの地下室にレフィスたちは飛ばされていた。無造作に積み上げられた木箱からは、赤茶色に色褪せたローブがはみ出している。棚に放置された燭台や罅割れたランプには蜘蛛の巣が張っており、もう長い間ここが使われていない事を物語っていた。


「ルヴァルドの言った通り、ここは教会の地下室みたいね」


 部屋を一通り見回したイーヴィが、上へ続く階段を見つけてレフィスたちに振り返った。


「さて、行きましょうか。闇に包まれたルナティルスへ」






 ラスレイア大陸の北に位置するルナティルス。かつて世界を支配していたと言われる神族の末裔である彼らが治める国は、反乱が起きる前まではその神性によって大陸内でも一番の発言力を持った大国でもあった。


 現在はすべてが闇と謎に包まれ、反乱が起きた後の国内の様子を知る術はない。国境では魔物や魔族の脅威が常に有り、王都リヴェスティールに至っては周囲を不気味な骨の森に囲われ、外部からの接触を断つかのごとく侵入も脱出も困難な状況を作り出していた。


 かつての神々しさはどこにもなく、あるのは腐敗した闇と嘆く事も諦めて淡々と生きる人々の姿だけだった。



 階段の最後の一段を上り終えた瞬間、体が薄い膜を貫いて出た感覚に驚いて、レフィスが思わず声を上げた。


「ぴゃっ!」


 怯えて身を竦めるレフィスを、呆れ顔のままライリが振り返る。さっきまで痛いほど張り詰めていた緊張もどこかに消え、ライリは肩の力を抜いてがっくりと項垂れてみせた。


「……何、その悲鳴」


「だっ、だって、今何かぺっとりくっついてきた!」


 泣きそうな顔をして身震いしたレフィスが、その「ぺっとり」の正体を確かめようと背後の階段を振り返った。けれどそこにあるはずの階段は忽然と消え、代わりにぼろぼろに朽ちた木の扉がレフィスの瞳に映っていた。鍵は錆びて役に立たず、少しの振動だけで物悲しい音を立てている。


「あれ?」


「空間を歪ませて、そこに結界を張っているのよ。レフィスが感じた『ぺっとり』の正体は、それ」


 ためしに手を扉の向こうに伸ばしたレフィスは、再度感じた「ぺっとり」に慌てて手を引き戻す。戻して、その手をライリの背中にこすりつけた。


「うわ! ちょっ、何してんの!」


「いや、何となく……拭いておこうかと思って」


「へぇ……そう。全身ぺっとりに包まれたいのか。いや、むしろぺっとりそのものにしてあげようか」


 儚げな外見にどす黒いオーラを纏ったライリが、冷たい目でレフィスを見たまま静かに手を上げた。細い指先にしゅるしゅると巻きついて行く帯状の黒い霧を目にして、レフィスが慌ててイーヴィの背後に回り込む。


「待って待って! 単なる冗談じゃない。うわぁっ、ごめんなさい!」


 禍々しい力を向けてくるライリと、怯えて謝るレフィスの間に挟まれたイーヴィは、懐かしいやり取りに苦笑しつつも呆れ顔で溜息をついた。


「じゃれ合う貴方たちををまた見られた事は嬉しいけれど、ここに来た目的は忘れてないでしょうね?」


 にっこりと綺麗に笑う顔の裏に、恐ろしい別の何かが垣間見える。


「ご、ごっ、ごめんなさい!」


「別にじゃれてなんかっ」


「はいはい、じゃれててもそうじゃなくても、どちらでも構わないから」


 不満げに言い返そうとするライリを氷の微笑で抑えて、イーヴィが壁際で縮こまっているレフィスを呼んだ。


「メモの出番よ、レフィス。教会を出て、どこに向かえばいいの?」


 問われて、焦ったようにバッグからぐしゃぐしゃになった紙を取り出す。


「えっと……教会を出て右に行って、二つ目の角を左に曲がって、四軒目の……花屋、さん?」


「花屋?」


「カモフラージュにはいいんじゃないの? 花屋がレジスタンスとか、なかなか結びつかないしね」


「それもそうね。――とにかく、行きましょうか。その花屋へ」


 そう言って先を行くイーヴィが、教会の重い扉に手をかける。開ける前に一度振り返って、少しだけ声を潜めた。


「夜も遅いし、人通りも少ないとは思うけど用心に越した事はないわ。特にライリ、貴方はエルフだと気付かれないように気をつけてね」


「わかってるよ」


 当たり前だと言いたげに、ライリがフードを目深に被って羽根耳を完全に覆い隠す。その様子を確認して、イーヴィがライリとレフィスを順に見て頷いた。


「じゃあ、囚われの王子様を救出に行きましょうか」


 あえて冗談混じりに言って笑みを零し、イーヴィがゆっくりと慎重に扉を押し開いた。

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