第36話 ユリシス=ルーグヴィルド
何かに呼ばれている気がして、レフィスの意識が一気に覚醒した。それまで気を失っていたとは思えないほどの瞬発力で身を起こし、自身の前に杖を掲げて身構える。しかし体の反応に頭が付いていかず、レフィスは再び床の上にぺたんと座り込んでしまった。
周囲は暗く、自分がどこにいるのかさえ十分に把握できない。忍び寄る闇に木霊するのは自分の荒い呼吸音だけで、他の音は一切聞こえない。或いは自身の激しく鳴り響く鼓動音に遮られて、聞き逃しているのかもしれないとさえ思えた。それほどまでにこの闇は暗く、レフィスの心にじわりと恐怖を植えつけていく。
息を呑み込んで、杖を強く握り締める。早く皆の元へ戻らなくてはと、再度足へ力を入れたレフィスの耳に、かすかな音が聞こえてきた。それは部屋の外からではなく中、レフィスを取り巻く闇の中から響いてくる。
更に加速する鼓動とは裏腹に、近付く足音はひどくゆっくりで、それがまた余計な恐怖心を生む。
「……っ」
叫びそうになる自分を唇を噛む事で叱咤し、闇を見据えたレフィスの視界に、ふっと静かな光が飛び込んだ。頭上から降り注ぐ光に縋るかのように顔を上げると、損壊した天井から顔を覗かせる白い月と目が合った。控えめな光は、それでも闇を照らすには十分で、レフィスは自分がいる場所がどういう所なのかを十分に理解する。
朽ちかけた部屋。壁や天井の一部は損壊し、その向こうに外の世界を切り取っている。
自分が座り込んでいる場所には赤黒い線が緻密に描かれており、中央に小さな石が縫い止められているかのように安置されているのを見て、レフィスはここが魔法陣の上だという事を悟った。
慌てて魔法陣から出ようと体を動かしたレフィスを咎めるように、先程の足音がすぐ目の前で止まった。
「駄目だよ、動いちゃ」
若草色の瞳に映った人物を確認するより先に、レフィスの頬を男の手のひらが撫で上げた。途端レフィスの体から自由が奪われる。
「な、に……っ」
声は出る。視界も動く。なのに体だけが、意思を持たぬ人形のように動かない。ただただ恐怖だけが蓄積されていく。
「初めまして。僕はリーオン。そして彼女はアデイラ」
動けないレフィスの前で優雅に膝を折り名を告げた男の後ろから、アデイラと呼ばれた藍色の髪をした女が現れた。二人並ぶと絵になるくらいに美しいのに、なぜか漂う雰囲気は恐ろしく禍々しい。
「君の名に興味はないけれど……」
ともすれば天使とも見紛う笑顔を浮かべ、リーオンが再びレフィスへと手を伸ばした。細い指先が頬を撫で、そのまま首筋へと移動する。
「僕には、君の血が必要なんだ」
首筋を撫でて離れた手に、今度は細い剣を握り締めて、リーオンが屈託のない笑顔を浮かべた。
「ごめんね」
意味を持たない謝罪を口にして、ゆっくりと剣を掲げる。その刃が月光を受けて、ちかりと反射した。
舌は動くのに声すら出せず、レフィスは振り下ろされるであろう刃を拒絶するかのように瞼をぎゅっと閉じた。
刃で風を切る音が聞こえた。しかしそれは一瞬で、次いで響いた轟音にその音はあっけなく掻き消される。
「何っ?」
思わぬ出来事にリーオンの注意が逸れたのか、レフィスの自由を奪っていた術が解けた。この機を逃すまいと体を動かしたレフィスを、今度はアデイラがその細い腕に絡め取った。
「逃がしませんわよ。あなたはリーオン様の、大事な生贄ですもの」
細い腕のどこにそんな力があるのかと思うほどアデイラの拘束は完璧で、レフィスはアデイラの腕を振りほどけずに再び魔法陣の上に膝を付く。
「……もう少し時間は稼げると思ったんだけどね」
リーオンの視線の先で、粉砕された扉の残骸が乾いた音を立てて崩れ落ちた。辛うじて片方の扉だけが原型を留めてはいるが、それも再び放たれた魔力を孕む剣の衝撃波によって外側から吹き飛ばされる。
「略式とはいえ、この僕が施した封印の扉をこんなにもあっさりと壊すなんて……」
床を削り鋭い爪跡を残しながら向かってくる衝撃波を片手だけで弾き飛ばし、リーオンが何事もなかったかのように軽く肩を竦めて笑みを浮かべた。
「君は一体、何者だ?」
返事の代わりに、剣と剣のぶつかり合う金属音が鳴り響いた。
瞬時に懐に飛び込んできた男の剣を軽々と避け、右手だけでその重い一撃を弾き飛ばす。再度振り下ろされた攻撃も同じように受け止めて、リーオンが交わる刃の向こうに金髪の男を確認した。
「君は……?」
意図せず唇から漏れた音は、僅かに困惑の色を孕んでいた。見開いた青い瞳に映る、金髪の男。深淵を思わせる紫紺の瞳、その奥に揺らめく静かな闘志を知っている気がした。
注意が逸れたのは一瞬。しかしその機を逃さずに放たれた次の一撃に防御が間に合わず、リーオンの剣が高い音を上げて部屋の隅に弾き飛ばされた。
「終わりだ」
間をおかずに振り下ろされた剣の下で、武器を持たないリーオンが不敵に笑った。
「僕を見くびらないでくれるかな」
その言葉が既に呪文詠唱の代わりを成したのか、リーオンを中心にして瞬時に緑色の魔法陣が床に形成された。かと思うとそれは硝子のように砕け散り、物凄い勢いで渦を巻きながら振り下ろされた剣を弾くと同時に男の体さえも吹き飛ばした。
「ユリシスっ!」
思わず叫んだレフィスの声をも呑み込んで、風の渦は少しも勢いを弱める事なく、ユリシスの体ごと壁に激しく激突する。その衝撃に脆くなっていた壁が耐え切れず、大部分が轟音を上げて崩れ落ちた。
「ユリシス! ユリシスっ!」
立ち上る粉塵に求める者の姿を掻き消され、取り乱したレフィスの声だけが木霊する。その音を拾ったリーオンがレフィスへ視線を戻し、何かを探るようにその名をゆっくりと口にした。
「……ユリシス?」
目を細め、じいっと見つめてくるリーオンの視線に耐え切れず、レフィスが顔を背けた。その顎を強く掴んで強引に視線を合わせたリーオンが、再度確認するようにレフィスに問いかけた。
「ユリシス=ルーグヴィルド、か?」
「……何、の……事?」
青い瞳が苛立ちに歪み、レフィスの顎を掴んだ手に力が篭る。もう片方の手を横に上げたかと思うと、部屋の隅に飛ばされていた剣が意思を持つ者のようにリーオンの手に戻り、そしてそれは再びレフィスを脅す道具となった。
「奴は何者だ? 正直に言え」
先程とは打って変わって、その身に纏う気配も鋭さを増している。笑顔はとうに消え、恐ろしいまでに冷徹な瞳がレフィスを見つめていた。
「そいつから離れろ」
背後から聞こえた低い声に、リーオンがゆっくりと振り返った。
外へ吹き飛ばされたはずの男が、剣を片手に立っていた。闇に溶け合う黒の中、折れそうに細い金髪が月光のように儚く色を落している。
けれど瞳は、リーオンを真っ直ぐに見据える紫紺の瞳は深淵を思わせる静けさで、その相反する色にリーオンは僅かな違和感を覚えた。
記憶の隅で、何かが激しく急きたてている。
黒衣に身を包む金髪の男。
すべてを見透かすように深く、静かな揺らめきを孕んだ紫紺の瞳。
目に見えなくとも、肌で感じる闘志は刃のように鋭く、けれど……どこか、懐かしい。
自分と同じ、ルナティルスの匂いがした。
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