第26話 女同士の夜

 数十回目の断りの言葉を口にして、その赤い唇が疲れたように長い溜息を吐いた。次々に差し出される手から笑顔で逃げてきたバルコニー。そこには煩く誘ってくる男たちや、影でイーヴィを妬む女たちの姿はひとりもいない。暫しの休息とでも言うように、イーヴィは手すりに寄りかかって、眼下に広がるライトアップされた庭園をぼんやりと見下ろしていた。


「随分と派手に誘われてたね。折角なんだから、少しくらい遊んできても良かったんじゃない?」


 ふいに落ちてきた言葉を辿って上を見上げたイーヴィの瞳に、いつものローブ姿で屋根に腰掛けているライリの姿が映った。ひらりと身軽に屋根からバルコニーへ飛び降りたライリが、悪戯心いっぱいのわくわくした瞳をイーヴィに向けて笑う。


「一人くらい好みの相手がいると思ったんだけど、案外理想が高かったりするんだ」


「貴方に心配されるほど困っているように見えるのかしら?」


「一人を思い続けているようでもないし、かと言って適当に遊んでいる素振りもないし。……もしかしてイーヴィ、男に興味がなかったりする?」


「さぁ、どうかしら?」


 微笑みあう美しい笑顔の合間、たまにどす黒い色が見え隠れしている。美しいものには棘があるとはよく言ったものだ。……いや、毒か。まて、猛毒か。


「ほんと、はぐらかすのが上手いよね」


「お褒めに預かりどうも。……まぁ、そうね、今のところ私の興味を引いているのは確実に男ではないわ」


 赤い唇をにっと横に引いて妖艶に笑うイーヴィが、視線を隣のライリから外して屋敷の奥へ続く廊下へと向けた。


「暗く沈んだ空気なんてあっという間に吹き飛ばしちゃうくらいの、突風……と言うよりは強烈な嵐みたいな子。焼け付くような、限度を知らない熱を降り注ぐ殺人的な太陽とも言えるわね。時にそれは息を奪う重圧となって痛みを伴うけれど、でも不思議と嫌いじゃないのよ。貴方もそうでしょう? ライリ」


「煩い時の方が圧倒的に多いよ」


「それを自然と心地良く受け止めてる自分がいるのよ。――ほら、今もそう」


 促すように廊下の先を指差したイーヴィに釣られて、ライリも視線をそちらへ向ける。と、まるでそれを待っていたかのように、暗い廊下の向こうから聞き覚えのある声が木霊した。


「イーヴィー! イーヴィー! うわーん、ユリシスったら酷いのよっ。女心をからかって弄んで最後はぼろ雑巾のように捨てるんだわ! 男なんて大っ嫌いー」


 そう大声で叫んで突進してきたレフィスが、そのまま勢いに任せてイーヴィに抱きついた。イーヴィもこうなる事を予想していたのか、かなりの勢いで飛びついてきたレフィスを、少しもよろける事なく細い両腕にしっかりと抱きしめる。子供のあやす親のように頭を撫でてやると、面白いくらいに大人しくなる。もうすっかりレフィスの扱いに慣れてしまったイーヴィであった。






「それで? ユリシスが来た途端真っ赤になって腰が抜けた挙句、その彼に担がれて部屋に着いたかと思ったらユリシスとライリを追い出すなんて貴女らしくないわね。余程動揺していたのね。……何に対してかは分からないけど」


 レフィスの潜り込んだベッドに腰掛けて、イーヴィがシーツ越しに優しくレフィスの頭を撫でた。


「まぁ、分からなくても……予想は出来るけれど?」


 イーヴィの手の下で、レフィスの頭がぎくんと動く。それでもだんまりを決め込んだレフィスを見下ろしたまま、イーヴィがくすりと静かに笑みを零した。その微笑が、かすかにほんの少しの毒を含む。


「ユリシスもああ見えてたまに強引過ぎる所があるものね。綺麗に変身した貴女を見て押さえが利かなかったんじゃない? ユリシスも男だもの。日頃から思いを募らせる相手に欲情するのは当たり前の事よ」


「うおぉいっ、ちょっと待ってイーヴィ! 何か話がおかしな方向に進んでるってば!」


 さっきよりも数倍顔を赤くさせたレフィスが、弾丸のようにベッドから飛び起きた。そんなレフィスを少し意地悪な笑みを浮かべて見つめたイーヴィが、おもむろに細い指を伸ばしてレフィスの首筋を軽く突く。その僅かな衝撃に、レフィスの体が面白いほど大きく震えた。


「痣になってるわよ」


「……っ!」


「よっぽど我慢できなかったのね。でも今度からは見えない所につけてもらいなさいね、レフィス」


「ち、違うの! 何にもなかったのっ! ユリシスが女の人に追いかけられてて、一緒に物置部屋に隠れただけなんだってば!」


「でもそこでレフィスが全身真っ赤になって腰が抜けるような事があったんでしょう?」


 さらりと告げられた言葉に、今度こそレフィスが声を失って再びベッドに突っ伏した。


「……もう知らない」


「あらあら、機嫌損ねちゃった? ごめんなさいね。レフィスがあんまり可愛いから、つい」


 くすくすと小さな声を漏らして笑ったイーヴィだったが、レフィスの頭を撫でる手のひらからは優しい温もりが消える事はなかった。

 レフィスはベッドに顔を突っ伏したまま、イーヴィはそんなレフィスの頭を撫でながら、暫くの間無言の時間が続いた。その無音を、レフィスのか細い声が破る。


「本当に、何もなかったのよ」


「分かってるわよ」


 顔を少しずらして、突っ伏したベッドからイーヴィを見上げたレフィスが、少し戸惑うように言葉を選びながらぽつぽつと話し始めた。


「私、時々ユリシスが分からない。大抵無関心を決め込んでるくせに、時々びっくりするくらい近い場所に踏み込んでくる。男の人なんだって……実感させられるくらいに」


 ユリシスを意識した事がないと言えば嘘になる。近寄り難い雰囲気があるとは言え、その容姿は少なからず大抵の女性の目を引くものだ。勿論レフィスも例外ではなかったが、ユリシスのその氷のような光を湛えた瞳が自分を見る事はないだろうと思っていた。それなのに、時々こうして不意打ちにレフィスの心をかき乱す。その度にレフィスの胸の奥がちくりと痛んだ。


「そ、そういう事を望んでるなら、そういうところに行けばいいのよ」


「分からないのはユリシスの気持ち? それとも、自分の気持ち?」


「え……」


 自分を見つめる瞳がいつになく真剣な光を湛えている事に気付いて、レフィスが舌を凍らせた。暫くの間硬直したようにイーヴィを見上げていたレフィスだったが、やがてゆっくりと細い吐息を零して自身の胸へと手を当てた。服の下に隠れていたネックレスの先――赤い指輪の存在を手のひらに確認して、静かに目を閉じてみる。瞼の裏側に浮かんだ思い出のユーリが、一瞬だけユリシスの姿と同化したような気がした。


「……私には、ユーリがいるもの」


 自分自身に語りかけるように呟いたレフィスが、ゆっくりとイーヴィの手を掴んだ。


「ね、イーヴィ。今夜は一緒に寝ようよ? お願い」


「あら、誘ってるの?」


「うん。だってイーヴィといると、落ち着くんだもの」


 邪気のない笑顔を向けて手を引っ張るレフィスを見て、イーヴィが一瞬困ったような表情を浮かべて苦笑した。


「こんな大きな子供がいる年でもないんだけど」


「ごめんなさい。……でも、やっぱり……少し、少しね――怖かったの」


 イーヴィから逸らした瞳が、僅かに揺れた。その瞳を閉じると、さっき間近で見つめあったユリシスの顔が思い浮かぶ。肩を押さえた大きな手。額に触れた髪の先。鼻腔をくすぐるユリシスの匂い。そして自分を見下ろした、僅かに熱の篭った紫紺の瞳。

 高鳴る鼓動が、それを完全に拒絶しているわけではない事を伝えていた。そう、嫌ではなかった。そして、ユーリを思う気持ちが心の奥底でかすかに揺らいだのを感じた。

 あまりに突然すぎるユリシスの「男」と、それまで揺らぐ事のなかったユーリへの思いがゆっくり傾き始めた事が怖かったのだ。


「……しょうがないわね」


 頭上から降ってきた声に、レフィスが顔を上げた。かと思うと、イーヴィがするりとベッドの中に潜り込んでくる。ふわりと舞ったイーヴィの艶のある香りに、レフィスの神経が一瞬震えた。


「寝相が悪くても文句言わないでね」


「イーヴィ。……ありがとう」


 子供のようなあどけない笑顔を浮かべて、レフィスがイーヴィに体を摺り寄せた。


「誰かと添い寝するなんて何年振りかしら」


「そうなの?」


「そうよ。ずっとひとり」


 微笑と共に零れ落ちた言葉に、かすかな影が絡みつく。けれどそれは誰にも気取られる事なく、ただ静かに消えていった。


「だったら私、役得ね」


 そう言って、レフィスがイーヴィに抱きついた。一瞬困惑した表情を浮かべたもののそれもすぐに消え、イーヴィはいつものように優しく笑うと、抱きついてきたレフィスの背中にゆっくりと手を回した。


「それは私もよ」


 ゆっくりと閉じた瞼の裏側に、色んな光景が浮かんでは消えていく。間近に聞こえる呼吸音に自分のそれを重ねて、レフィスが心から穏やかに微笑んだ。


「おやすみ、イーヴィ」


「おやすみなさい。良い夢を……」


 耳に残るイーヴィの声音に誘われるように、レフィスはそのまま深い眠りへと落ちていった。

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