第12話 止まらない涙

 右も左も分からなかったが、レフィスは無我夢中で森を駆け抜けていた。

 見つかった時に向けられた、あんなにも鋭く冷たい気配を、レフィスは心の底から怖いと思った。今まで何度か一緒に依頼をこなしたが、あんなユリシスは初めて見た。

 ユリシスではないような気がした。


(ユリシスって、一体何者なのよ)


 彼の事を少しでも知りたいと思い決行した尾行は、けれど更に深い謎をレフィスに与えただけだった。

 影のように従うルヴァルドと言う男。

 十年前に反乱が起き、今では凶悪な魔族の住処となっている神魔国ルナティルス。

 そのルナティルスとユリシスとの関係。

 そして、彼らが指す「秘宝」とは。


 逃げながらも、レフィスの頭にはさっき聞いた言葉が延々繰り返される。それらを振り払おうと頭を振ったレフィスが、次の瞬間地面の窪みに足を取られて前方に派手に転がり込んだ。


「うぎゃっ」


 ずさぁっと滑った小さな体が、何か固いものにぶつかって止まる。


「いったぁ……」


 よろりと立ち上がって視界を確保したレフィスの目が、予想もしなかった最悪の事態をはっきりと映し出した。


「ガルルル……」


 生臭い息を吐き出しながらレフィスを見下ろしていたのは、二つ首の鋭い牙を持つ黒い魔犬だった。






 森の遠く、深い所から悲痛な叫びが漏れ聞こえる。

 時々何かにぶつかっては途切れ、そしてまた木霊する悲鳴。それに重なる咆哮は、その音だけで獰猛さが感じられる。

 何回目かの転倒の末、レフィスはついに右足に深い傷を負って、そのまま前に倒れこんでしまった。その好機を逃すまいと、後から追いついた魔犬が口を大きく開けて飛び掛る。


「いやっ!」


 叫んでも、もうレフィスには逃れる術は何一つなかった。

 猫であるがゆえに逃げる事しか出来なかったレフィス。しかし右足が動かなくなってしまえば、もうレフィスには助かる道など残されていない。それでも必死に足掻こうと地面を這ったレフィスの体に、魔物の巨大な影が容赦なく覆い被さった。


「……ユーリっ!」


 最後の悲鳴のように名を呼んで、レフィスが瞳をぎゅっときつく閉じた。

 瞼の裏に、幼い頃の思い出が浮かんでは消えていく。記憶に残る少年の声がレフィスの名を呼ぶより先に、記憶よりもはるかに近い場所で……少年と似たような声がした。


「馬鹿がっ!」


 苛立った声と共に、レフィスの体がふわりと浮いた。そのすぐ後に魔犬の悲鳴が続いて、そして消えていく。いつかと似た情景にレフィスが目を開くと、思っても見ないほど間近に怒ったユリシスの顔があった。


「……ユリシス」


「身を守る術を持たないなら、俺の後なんかつけて来るなっ!」


 あまりの怒号に、レフィスの体が硬直する。魔犬に襲われている時とは別の恐怖が、レフィスの中を満たしていくようだった。


「……ご……ごめんな、さ……」


「好奇心で死ぬつもりか」


 冷たく落とされた言葉に胸を貫かれたようになり、レフィスが一瞬だけ呼吸を止める。怯えて小さく丸めた体を強く抱きしめているユリシスの力に、今のレフィスが気付く事はなかった。


「……だっ、て……ユリシスの事、知りたかったんだもの。聞いても教えてくれないし。……ただ一緒に仕事をする仲間じゃなくて……もっと、皆の事……」


 そこまで言って、口を噤む。続きを口にする事は出来なかった。声を出せば、その震える音に涙までが誘われてしまう。唇を噛む事の出来ない猫のレフィスは、ユリシスにしがみ付いた手に力を込める事で、溢れ出しそうな涙をすんでの所で必死にせき止めた。


「……馬鹿が」


 先程と同じ言葉を、先程とは違う……かすかに優しい声でユリシスが呟いた。


「俺の事が知りたいなら教えてやる。だが今はまだ駄目だ。……時期が来たら、ちゃんと答えてやるから……待っていろ」


 いつになく優しい声音に、レフィスがゆっくりと顔を上げた。少しだけ潤んだ瞳に映ったユリシスの顔が、ゆっくりと歪んでいく。涙のせいかと瞬きを繰り返したレフィスだったが、今度は急激に視界が回転し、気持ちの悪い浮遊感と共にがくんっと前に倒れこんだ。


「……いきなり戻るな」


 自分の下から聞こえた声にはっと目を向けると、同じ目線に紫紺の瞳があった。必死にしがみ付いていた手も人間のそれに戻り、レフィスはユリシスを巻き込んで地面に倒れこんでいる。元に戻っても、レフィスは怯えた猫のようにユリシスの胸にすがり付いていた。


「……戻っ、た」


「らしいな」


 胸にしがみ付くレフィスを避けようともせず、あえて下敷きにされたまま、ユリシスもレフィスに回した腕を解こうとはしない。その熱を感じてか、ユリシスを見上げたレフィスの瞳から、ぽろりと大粒の涙が零れ落ちた。


「あれ……?」


 瞬きで押し留めようとするも、一度堰を切った涙は止まる術を持たず、後から後から零れ落ちていく。レフィスの頬を滑り落ちた雫は、あっという間にユリシスの胸元を熱く湿らせていった。


「変ね、止まらない……。ごめん」


「別に構わない。……気が済むまでこうしてるから、今は泣いてろ」


 その言葉に、レフィスが迷う事はなかった。


「ユリシス……。怖……っ、怖かっ……の。魔法も使えないしっ、逃げるしか出来ないし……本当に死っ……死ぬんじゃないかって……」


「ああ」


 ユリシスは何も言わなかった。ただ黙って、レフィスの体を抱きしめるだけだった。

 けれど、それが何より嬉しかった。


「ごめんなさいっ……」


 嗚咽を堪えながら、何度目かでやっとレフィスがはっきりと言葉を紡ぐ。


「……助けてくれて……ありがとう」


 そう言ったかと思うと、また涙が溢れ出した。


 月明かりの下。

 ユリシスの腕に抱かれながら、レフィスは子供のように声を上げて泣いた。

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