第8話 猫になった日
鮮やかに燃える茜色の空が、火傷しそうなほどに赤い太陽を西へ追いやっていた。
夕闇に紛れて佇む、人通りの少ない路地裏。乾いた響きを生み出していた足音が、路地裏の真ん中でぴたりと止まる。
夕日に照らされた影が、静かな石畳の上に長く細く伸びていた。
燃えるオレンジとは、どうあっても混ざり合わない黒尽くめの男。漆黒の中で、彼の金髪だけが眩しく光っている。
歩行を止めた足の先に、小さな生き物がいた。
どこをどう歩いてきたのか、その白い毛並みは泥ですっかり汚れてしまっている。気落ちしたように垂れていた耳がぴくんと動き、振り返った先に佇む男の姿を小さな若草色の瞳が捉えた。
かと思うと、物凄い勢いで小さな生き物が男の胸へと飛び込んだ。
「……」
胸に突撃してきたそれを片手で受け止めた男は、何も言わずにただ眉間に僅かな皺を寄せただけだった。一方小さな物体は必死に男にしがみ付き、頼りない弱々しい声で一言だけ、鳴いた。
「……にゃぁ」
どうやってベルズまで辿り着いたのか、記憶は定かではなかった。
見知らぬミセフィアの街をあちこち駆け抜けて、ようやく見つけた魔法陣を前に心の底からほっとした事だけは覚えている。
帰り道を探して必死に走った為か、手足は酷く汚れ、僅かに血が滲み出ていた。それを舌で舐めてから、目に映る自分の手に改めて愕然とした。
(どうしてこんな目に遭うのよ。……あいつら、絶対許さないんだからっ)
心の中で悪態を付いて、レフィスは今のこの状況を落ち着いてよく考えてみる事にした。
フレズヴェールから星屑の灰を受け取ったレフィスは、意気揚々と魔法陣からミセフィアの街までやって来た。目的地の魔術研究所は遠目で見ても分かるほど大きな建物で、迷う事はないだろうと高を括ったレフィスは半分観光気分でミセフィアの街を歩いていた。
そこへ、あの男たちが現われたのだ。
周囲を物珍しげに見て回る観光気分のレフィスは、彼らにとって非常に都合の良いカモだったらしい。気が付くとレフィスは、肩から提げた唯一の荷物あっけなくひったくられていた。
しかし明日へ続く未来(報酬金)が奪われようとする中、レフィスの反応は今までで一番素早かった。敵の手に渡ろうとした荷物を掴み返し、決して渡すものかと岩になったようにその場に踏ん張ったのである。それが、却って良くない結果を生む事になってしった。
(……まさか、袋が破けるなんて)
はぁっと、落胆の溜息を落とす。
両側から思わぬ力で引っ張られた袋は悲鳴を上げて引き裂かれ、中にしまわれていた星屑の灰が零れ落ちたのである。それだけならまだしも、灰は風に乗って、風下にいたレフィスへと満遍なく降り注がれた。
そしてレフィスは――――なぜか猫になっていたのである。
何とか帰り着いたベルズの街の路地裏で、レフィスは運よくユリシスに会った。動物を拾って帰る姿が想像できない彼だからこそ、レフィスは自分からユリシスに張り付いて、二度と離れようとはしなかった。どうやら彼も、か弱い動物に向ける優しさは持ち合わせていたようで、レフィスはそのままユリシスの部屋へと連れられて行ったのである。
(うわぁ。ユリシスの部屋って初めて入る)
どきどきしながら入った部屋は、けれどレフィスの想像とどれも一致しなかった。
(何、この殺風景な部屋! 何もないじゃない)
広い部屋には、窓がひとつ。その側にベッドがあるだけで、他には何もない。見回す限りでは備え付けの家具のみが置かれていて、何と言うか生活感がまるでない部屋だった。
(本当にここに住んでるのかしら。これじゃ、このまま部屋貸しますって言われても違和感ないわ)
そんな事を考えていると、ふいにユリシスがレフィスを連れたまま部屋を移動した。連れて行かれたのはバスルームで、レフィスは浴槽に放り込まれるなり問答無用で熱いシャワーを浴びせられた。
「にぎゃぁ!」
お風呂は好きだが、小さな猫の体に降り注ぐシャワーはまるで豪雨のようで、レフィスは不細工な悲鳴を上げながら浴槽の中を必死で逃げ回る。
「煩い、黙ってろ」
(あんたこそ少しは手加減してよ! もうちょっと弱めに……って、痛い痛いっ!)
ぎゃあぎゃあと暫く叫んでいたが、走り回っていた体は既にげっそり疲れていたのか、レフィスはやがて逃げる事も諦めてされるがまま汚れた体を洗われていった。
やっと雨の拷問が終わったかと思うと、今度はそのご褒美と言わんばかりに柔らかいタオルで全身を包み込まれる。その居心地のよさに思わず眠りそうになったが、夢見心地も終わり、レフィスはまだ少し濡れた体のまま床の上に解放された。
「みゃぁ」
ユリシスを呼ぶと、答えるように振り返る。そしてミルクを注いだ皿を、無言でレフィスの前に置いた。この宿の部屋に戻る時、一階の食堂で何やら話していたのはこの為だったのかと、レフィスは少しだけ胸の奥があったかくなる感じを覚えてくすぐったい気持ちになった。
(……意外と優しいんじゃない)
ミルクとユリシスとを交互に見て、レフィスはそれをありがたく頂戴する事にした。
……が。
「びゅほっ」
勿論舌だけでミルクを飲む事のなかったレフィスが、鼻からミルクを吸って盛大にむせ込んだ。
痛さと恥ずかしさでのた打ち回りながら、レフィスがぶほぶほ色気のない咳を繰り返す。そんなレフィスの体をやんわりと抱き上げて、ユリシスがミルクに汚れたレフィスの顔を服の袖口で綺麗に拭い去る。
「……ありえなくらい間抜けな猫だな」
頭のすぐ上で呟かれた声に、レフィスが顔を歪ませたままユリシスを見上げた。思っても見ない距離の近さに一瞬どきりとしたが、それ以上に胸を高鳴らせたのは、自分を見下ろすユリシスのひどく優しげな微笑だった。
(う……わぁ……。ユリシスもこんな風に笑うんだ)
思わず惚けて見入っていたレフィスの鼻を親指で撫でるように拭いて、ユリシスが再度ぽつりと言葉を落とした。
「あいつといい勝負だ。その間抜けぶり」
誰と比べられているのか何となく分かったような気がして、レフィスがユリシスの腕の中で反論するように暴れだす。けれどその僅かな抵抗すらやんわりと抑え込まれ、レフィスはかすかな胸の熱を保ったまま、ユリシスの腕に抱かれているしか出来なかった。
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