主従のはじまり-1

 朝目が覚めてから夜眠りにつくまで、顔を合わせる人間は片手の指で数えられる程度であったけれど、エリンのことが見えるものは誰もいないようだった。いや、正しくは、誰もいなかった。

 最初の日に会った祖父――皇帝の姿を見ることはなかった。

 彼にはまだ理解できなかったが、そうそう目通りの叶う相手ではないのだから、当然である。

 目に入るのは使用人ばかり。掃除をする者、給仕をする者、主の身の回りの世話をする者、届いた手紙の類をせっせと運ぶ者。帝室の使用人らしく、どの者も皆賢そうな顔をしていて、折り目正しく洗練された所作で、黙々と仕事をこなしていく。けれど、誰もエリンを見ようとせず、話そうとせず、ましてや世話を焼こうとすることもない。これではまるで、幽霊にでもなってしまったかのようだ。無口な少年は見知らぬ人間に積極的に話しかけるような性質ではなかったけれど、話しかけたところで、おそらく応じてはもらえなかったであろう。

 その上、常に空腹であった。誰もエリンの食事を用意してくれないのだ。お腹がすいたと申し出ても、やはり無視されるばかりで、どうにもとりつく島がない。

 優しい母と乳母が恋しかった。早くいえに帰りたかった。けれど、それが許されないのだということを、哀れなエリンは何となく悟っていた。

 そう考えるに至る理由らしきものも、ひとつあった。別れ際、母から、いつも身につけ大切にしていた指輪を手渡されたのだ。大きな宝石のついた、とても綺麗な指輪である。

 どうか元気で、と言われた後の母の言葉は、エリンにはまだ難しくて分からなかったけれど、別れの言葉だったように思う。母が、この上なく悲しそうに、泣いていたからだ。


 両親から引き離された後、何度か子供らしく泣きべそをかいて、けれど、誰も全くとりあってくれなかったせいで泣くのをやめた。もし、飢えて動けなくなるまでわんわんと泣き続けていたならば、少年の命はそこで終わっていたであろう。けれど、そうはしなかった。誰も聞き届けてくれない中で泣きわめいても仕方がないことを、幼いなりに理解していたのだ。そんな、生来の冷静さのようなものが、彼の命を永らえさせたのかもしれない。

 泣くのをやめたら、別の部屋へと連れていかれた。そこが、今少年が暮らしている、この部屋である。

 好ましい色の壁をした、広くて、いい香りのする部屋だった。子供ならば十人は眠れそうな、大きなベッドも置いてある。

 そしてここで、エリンは唯一、自分のことが『見える』人間に会うことになった。

 この部屋の幼い主、この先、彼が生涯仕える主君となる、アーシュラ=オルガ・ヴィラ・アヴァロンである。


「エリン、お前、イチゴは好き?」

 食堂でのランチを終えたらしい少女が、小さな手に小さな皿を持って部屋に戻ってくる。そして、それをトンと少年の前に置いた。まるで犬か猫にでも餌をやるような手つきである。

 少女は、得意げな様子で、皿に目を落とすエリンの様子を見つめていた。早く感想を言えとでも言いたげである。

 皿には、ちぎったパンとオムレツが一切、ローストビーフが一枚、よくわからない豆や野菜がパラパラと、それから、妙に大粒の苺がひとつ。

「苺……!」

 いかにも甘そうな、ピカピカの赤い果実に、自然と笑みがこぼれる。苺は好物だ。エリンの反応に、少女は深く頷いた。

「よーし、やっぱり果物はイチゴが一番だわ」

この少年に食事を与えることは、祖父から言い渡された、彼女にとっては初めて自分だけに任された仕事と言って良いものだ。それが無事達成された満足感に、少女は会心の笑みを浮かべる。

「……たべても、いいですか?」

 少年は、グウと鳴りそうな腹を抱えて、恐る恐る口を開く。そして、少女がニコニコ顔で頷くのを見届けると、飛びつくように食べ始めた。

 腹を空かせている分、何を食べても異様に美味しいと感じ、また、少女の手によって食事にありつく度、不思議と、家族への強烈な思慕は薄れていった。

 ここ数日で、エリンは自分の置かれた状況――立場を、わきまえていた。目の前の、この年上の少女は、唯一自分のことを見て、話して、世話をしてくれる相手であり、しかも、意地悪ではないが気まぐれだ。機嫌が悪かったり、忘れていたり、眠かったりすると食事をくれないし、話しかけてもくれない。

 食事がもらえないとお腹がすくし、話しかけてもらえないのは寂しい。エリンは自然と、彼女の顔色や行動を注意深く観察するようになっていた。




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