テーブルの向こう側

@5seconds

第1話まだ塩は渡していない

私の塩は冷蔵庫に入っている。なぜなら、冷えた塩ってトマトに合うから。夏の暑さを優雅に乗り切るには必須のアイテム。

オリーブオイルというあだ名をつけている後輩がいて、彼の本名には草冠が3つ入ってる。彼はとんだ節約男で、唯一の趣味が自宅のベランダでの大根の葉っぱの栽培だというくらい。そんな貧乏くさい趣味してるのは、草が名前に入ってるからなんじゃないの?と冗談で言ったら、彼は真に受けてコクコクと頷いた。もっと高級な名前だったらよかった、とつぶやいた後、ジョージって名前だったらよかった!とエクスクラメーションマーク、頭の上でくるくるっと一回転。私はそのマークを両手でそっと包み込み、貧乏くさくっても何でもいいんだよ、私のオリーブオイル、と言う。そっか、貧乏でいいよねってウインクしたら彼の目尻から星マークが出てくる。でも星がまつ毛に引っかかって、痛え!まぶたの端っこが切れたみたいだった。こういうおっちょこちょいなところが、にくめないんだよな。

帰りの電車ではマブダチの彼も、オフィスではれっきとしたライバル。業務上のいろんな煩雑な事情をすぐに解決する彼は、私の課まで遠征に来て、いろんな煩雑のことを肩代わりしてくれる。でも、私だって、煩雑なことを解決することには自信があるし、そのことで同僚に頼られるのが嬉しかったりするのだ。だから、彼がハゲワシのようにこっちを見て、業務を肩代わりしようと狙ってギラギラしているのを感じた時には、私はいっつも仕事のギアを数段アップする。腕まくりをして、猛烈に手を動かして、みんなの分の事務も恐ろしいスピードで片付けていく。うちの課の業務は私が全部消化します!オリーブオイルになんか渡しません!電話の受話器を油でベトベトにさせません!書類をベトベトにさせません!エクセルのマス目をベトベトにさせません!うちの課は私が守るんです!と鼻息を荒くしたり。

ところがある日、オリーブオイルは会社にパタリと来なくなった。ラインで聞く、どうしたの?返事は、既読無視、の四文字だった。彼の友人の軽井沢くんに聞いてみたら、彼は仕入れどきのちょうど一番忙しい時期に、煩雑な業務を一手に引き受けてしまったんだって。ひと時も休まずにオフィスに缶詰、チャキチャキと業務をこなしていったら、1ヶ月が立った時についにガタが来た。脳漿の使用量がキャパを越えてしまって、あのいとしい脳みそは、無残にもパッサパサになってしまい、なまくらになってしまったらしい。今の彼には、もう働くことはできない。時間の感覚を失ってしまって出勤時間がわからないし、そもそも方向感覚が狂っているのでベッドからドアまで辿り着けないらしい。そんなにひどい状況だなんて、と私は青ざめる。スマホのインカメで確認しても、やっぱりちゃんと青ざめてた。それってさ、もしかして、夏バテ?と恐る恐る聞いてみる。死にいたる病、やばいじゃん。

軽井沢は目をそらして、違う、と一言。アイツはオーバーヒートしてんだ。え、なんだ!私の胸はフワッと軽くなった。それだったら冷えた塩おでこに塗ったら治るじゃん!って安堵。そしたら、軽井沢の返事は厳しい。俺も思ったよ、塩を塗ったらいいじゃんって、、でもアイツは塩を切らしてるんだ!荒らげた声はめちゃくちゃ悲痛な感じだ。もう無理だ、無理なんだよ、アイツには塩がないから、もう死ぬしかない、アイツは死ぬ、と悔しそうに下唇を噛む。貧乏なあいつらしいや、とニヤリとしたら、私のトマト色の唇は、光沢が3倍になった。

持って行ってあげたらいいじゃん、塩。健也はアイツの住んでるネカフェの場所知ってるでしょ?うん知ってるけど、、じゃあ何で行かないの?問い詰めるように語気が強くなってしまった。いや、持っていくべきなのはわかってるよ、今俺が行動すべきなんだって、、だから持って行ってあげなよ。死んじゃうんだよ?わかってるよ、俺が動くのが筋なんだよ、、軽井沢の声はどんどん小さくなって、今や消え入りそう。

ははーん、これはなんかアルネ。おねえさんに言ってごらん。スッキリするから。私がそういい放つと、軽井沢はこっちにすっとに澄んだ瞳を向けて来た。肩の力がふっと抜けたようで、覚悟の決まった目をしていた。いいよ、その調子、さあ言ってごらん。実はさ、誰にも言った事ないんだけど俺、昔っから行動力ないんだよ。え、ここで告白?まあいいよ、続けて。それでさ、俺、そんな行動できない自分を変えるために、パーネギーの8つの習慣を読みはじめたんだよね。おう、それはそれでいいけど、今関係ある?まあ聞いてくれよ、それがさ、俺まだ読み終わってないんだよ。今やっと二章目でさ。ん?本読むよりも塩を持って行くことの方が先じゃない?え、話聞いてる?俺は自己啓発本をまだ読み終わってないから、まだ行動力が備わってなくて、よって塩を持っていくこともできないってことじゃん。ごめん、ナギサ。オリーブオイルのことを助けられなくて、ほんっと悪い。いや、ちょっと待った、ちょっと待った!塩を渡しに行くことと、行動力ってなんか関係ある?は?関係大アリじゃん、塩を持ってくのも行動だよ?

愕然とした。こいつが行かないんなら、私が行かないといけない。私が、オリーブオイルに、塩を届けるんだ。健也、住所教えて。いや、それはプライバシーとか、あるだろ。いいから、と私は軽井沢からスマホを奪い取る、おい、お前何様だよ、調子乗んなよな、とグダグダ言うこいつに鉄拳制裁をくらわしたら、天使がプワプワアタマを舞っていた。健也、あんたほんっとかわいくない。そう言い残して、私は電車を降りて雨の中まっすぐに自宅まで歩いて行った。目的地は、冷蔵庫の一点。


それから1ヶ月がたった。

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