第十三回 雲なる暗号:つまりガラクタか
三十年ほど昔の話になる。ギュスターブ・ヘルモントもロバート・ホーエンハイムもまだ見習いの学者だった頃の話である。このときの教授というのがジュゼッペ・フラメルの父であるヨハン・フラメルだった。ヨハンは骨董品や古美術の収集が趣味だったらしく、時たまその手のものに関心のない人間からしたら、奇妙というか小汚い代物を大学に持ち込んでは教授室に飾っていた。そのため教授室には、なにを表しているのか分からない外国の木像だの、なんと書かれているのか分からない文章の書かれた紙だの、なにかのお面だの、そもそもなんなのか分からない謎の物体が棚やサイドボードに並んでいた。
「家に飾るとカミさんが怒るんだ。しかも酷いことに
なにかを持ち込むたびにそう言うので、みなが奥さんに同情していた。
ある日、ヨハンが珍しく
「なんですか、これは」と若き日のヘルモントが、ヨハンに尋ねる。
「ああ。中々いいだろ?」と上機嫌だが、どこがいいのか分からない。
「誰が
「知らない。だが、古美術商によると数百年前に無名の画家によって
つまりガラクタか。
その日はそう思うだけで、特になにもなかった。
それからどれだけ経ったのか分からないが、ある日ホーエンハイムが妙なことを言う。
「この前、変な魔法使いの絵と額の間から、紙切れが飛び出してるのを見た」
そう言うのである。教授室にあるものなので、すぐには確認できないが、ヘルモントが部屋に入ったときにふと目をやってみると、普通の絵画と同じように飾られていた。周囲にある奇天烈な品々が引き立てているので美術品には見えるが、やはり悪趣味な絵である。だが、それ以外はなんてことなかった。
数日が過ぎて、再びヘルモントが教授室に入る。例の絵画はなぜだか右に僅かに傾いていた。模様替えをした様子はない。次に入ったときには元に戻っていた。
さらに数日後に確認すると今度は左に傾いている。意識してみないとこの傾きには気づかないほど僅かだが、やはり確かに傾いている。ヨハンが何度も絵画を動かしているのは明白だった。
このことをホーエンハイムに話すと、彼もそのことには気づいていた。ただ、このときは二人ともヘソクリでも隠しているのだろうくらいにしか思っていなかったのだが、ある日の夜に帰宅しようと廊下を歩いていたホーエンハイムが、たまたま教授室の前を通り過ぎようとしたとき、わずかに開いている扉の隙間から光が差しているのが見えた。ホーエンハイムは不審に思って覗いてみると、ヨハンが険しい顔をして例の絵画を見つめている……というよりは睨みつけていた。
不意にヨハンが「まるで分からん」と漏らす。
奇妙な独り言もあるもんだと、その時はそうとしか思わなかったのだが、今度はヘルモントが同様のものを目撃する。ホーエンハイムと同様に、帰宅のために教授室の前を通り過ぎようとしたら、やはり扉の隙間から光が漏れていたので、ホーエンハイムの話を思い出して部屋をそっと覗いてみた。ヨハンはやはりあの絵画を壁から外して机の上に置いている。そのためこちらに背を向けていたが、手元を
翌日、このことをホーエンハイムに告げると、彼も興味をそそられたらしく、一度こっそり見てみようということになった。
ヨハンが風邪を引いて欠勤した日があった。同僚たちが帰ったのを見計らって、こっそりと教授室に忍び込む。そして例の絵画を壁から外した。幼稚な好奇心と野次馬根性による行為だが、やっているうちに泥棒でもしているような嫌な気持ちになってくる。それでも用意周到に絵画を額から外す方法も
「なんて書いてあるんだ?」
「オレに分かる訳ないだろ」などと、ホーエンハイムとヘルモントは言い合った。
いろいろ考えた結果、分からないということでその日は帰宅したのだが、翌日になってもあの文字が気になって仕方がない。その日もホーエンハイムとヘルモントは、絵画の中に隠されていた紙を見つめては、これはどういう暗号なのか、それとも外国や古代の文字なのか、そもそも文字なのかと色々と話し合ったが、結局は分からず終いであった。翌日は、あの謎の文字を書き写そうと思っていたのだが、その日からヨハンが出勤する。しかも教授室に夜遅くまで居残っていたので、例の紙を書き写す時間などまるで無かった。
仕方がないので、二人は暇を見つけては謎の文字と類似した文字がないか調べてみるのだが、どこの国にもいつの時代にも類似した文字は存在しなかった。実在しない文字での暗号か。元の言語が分からなければ調べようもない。そう思っていたのだが、ふと絵画に書かれていた文章を思い出す。あれに手掛かりは無いだろうかと考えて、ヘルモントは教授室に入ったときに絵画を見てみるのだが、やはり何が書かれているのか分からない。
「どうしたんだ」
ヨハンに声を掛けられて僅かに動揺するが、「いえ、この文章……なにが書かれているのかと思いまして」と返す。
「気になるのかね?」
「それほどではありませんが、教授の部屋に入るたびにこの絵を拝見しますが、作者の名前も知らないなとふと思いまして。教授はご存じですか?」
教えてくれれば手掛かりになるかも知れない。ヘルモントはそう思ったのだが、ヨハンは「私も知らんよ」と笑うだけだった。
文字ばかり調べても埒が明かないと、ヘルモント達は絵画の作者を調べることにする。大学にある美術関連の書物を何冊も読んではみたが、例の絵画に似た絵を見つけることは出来なかった。
「大学中の美術書を調べても見つからなかったら、アイオロス渓谷まで行って調べる必要があるな。けど、さすがにアイオロスまで行って調べる気にはならん」などとホーエンハイムが愚痴を零すと、「オレだって御免だ。面倒くさい」とヘルモントが返す。
「あそこは大学とか博物館しかないからな」とも続けた。
「娯楽がないのは真ッ平だ」
「お前の地元は、ド田舎なんじゃないのか?」
「だから出来れば帰りたくないね。本当になにもないんだぞ。正直、あんな場所に帰る連中の気が知れない」
「人混みと都会の喧騒が耐えられないんだろう」
「ド田舎もうるさいぞ。それに田舎は群れるから一人のんびりって訳にはいかない」
「そうなのか?」
「みんな声がでかいし、教養もないし周囲に気を遣うという概念もない。さらに言うと、泥棒みたいになんの挨拶なしに人ん
「ホントか?」
「少なくてもオレの地元はそうだ。そのくせ人間関係も暗黙の掟みたいなものがあって面倒だし、夜中は野良の
「それは御免だな」
「ああ。都会の連中が田舎者を馬鹿にする気持ちがよく分かる」
それを聞いたヘルモントは思わず笑った。
結局、この日も手掛かりになるようなものは見つからなかった。
しばらく経つ。ヘルモントとホーエンハイムを動かしていた野次馬根性は冷めて、あの絵画に隠されていた謎の文字への関心は薄まり、絵画や暗号について話すことも無くなっていたのだが、ある日突然だが、ホーエンハイムが古い書物の中に絵画と似た構図の絵を発見した。その絵は美術品ではなく、古典的な錬金術……というよりかは、薬の生成法を記したものであったが、あの絵画の隅に
ヘルモントもその書物を見て、眠っていた野次馬根性が
「もしかして、教授はエクリプス・タブレットのことを?」
「たぶん出任せだろうけど、興味はそそられる」とホーエンハイムもヘルモントも、もう少しだけ調べてみることにする。
調べると言っても、やはり教授室にある絵画に隠された紙を手に入れないと正確には分からないと、ヨハンが帰宅した隙を狙って例の紙を書き写す。文字らしいというだけで、具体的には何が書かれているのか分からないものを、そっくりそのまま書き写すのは、思った以上に骨が折れる作業だったが、どうにかして全てを書き写す。そして解読を試みるのだが、既存の文字とは異なるために全く意味が分からない。手掛かりもない。ヘルモントとホーエンハイムは、ああでもない、こうでもないと言いながら時間を無為に過ごした。
ヘルモント自身が原因を忘れてしまうほど、些細なことで指を痛めたことがあった。動かすだけでも痛いので「治ってもちゃんと動かないかもな」などと笑ってホーエンハイムに言うと、「粘土でなにかを
「粘土よりピアノを弾くほうがいい。手が汚れなくて済むからな」
なんて返すと、その言葉でホーエンハイムが閃いた。
「もしかして、あれって……あの絵画の暗号って昔の楽譜じゃないか?」
「どこがだよ。横線しか共通点がないぞ」
「あの文字自体は見せ掛けで、本当は文字の角が音階を表してるんじゃないか?」
そう言われてみれば楽譜かも知れない。
仕事を終えた二人は例の紙の複製を引ッ張り出して、ホーエンハイムの言ったように文字の角を黒く丸い点に書き直した複製を作る。この仕組みなら、デジタル表記で例えれば【2】と【5】が同じところが角になるため同じ文字になる。この暗号にある一つの文字を解いてみると、四本の横線の上に最大で八つの点があり、それぞれ縦に四つずつ左右に並んでいた。翌日に二人は図書館で、音楽史の資料を読み漁るのだが、この暗号と同じ仕組みの楽譜は無かった。それでも一般的な楽譜である五線譜とは違い、四本の線で書かれた楽譜を見つけたのだが、そうなれば暗号の楽譜には音の長さを示すものが無いことになる。つまり四分音符【♩】や八分音符【♪】といった区別がない。
「これじゃあ、演奏するに出来ないぞ」
ヘルモントはそう言った。
「太鼓とかは?」
「音階のある太鼓ねえ。あるらしいけど」
取り敢えずは太鼓と思ってヘルモントが下手なりに演奏してみるのだが、やはり素人が適当にドンドンと鍵を押すように、締まりのない音が延々と空しく続く。
「ちゃんと演奏しろよ」とホーエンハイム。
「オレが下手なんじゃなくて、音符がおかしいんだ。和音しかないので分かるだろ」
「わおん?」
「複数の音を同時に出すんだよ。そんなのも知らないのか」
「オレの地元にピアノは無い」と言って、ホーエンハイムは楽譜を手に取るとぼんやりと見つめ始めた。楽譜なら恐らく題名が書かれているであろう大きな横線と黒い点のところに注目する。なんらかの暗号だとしても、楽譜の形で書かれているということは、音の長さと高さが関係しているはずだ。それに一部の段だけ、やけに同じ組み合わせの点が並んでいる。
ホーエンハイムは楽譜が読めない。だから、普通の楽譜を見てもそれを頭の中で再現できないのだが、反ってそれがどの暗号が、何拍子だのどの音階だのと気を取られることは無かった。音楽をピアノなどで演奏するときは両手を使う。つまり二つの楽譜の音を同時に出せるということ。それに、この暗号を辿ってエクリプス・タブレットの伝説に近づいた。ならば、これを『エクリプス・タブレット』や、複製の『エクリプス・カード』と仮定したのなら……などと考え続けて、そっと呟く。
「エクリプス・カードの内容」
「なんだって?」と思わず返す。
「この楽譜は、上の四つの点が音の長さで、下四つの点が音の種類を表してるんじゃないか?」
二進法を使った暗号である。ピアノを弾くときに、左手で演奏する部分が母音を表して、右手で演奏する部分が子音を表しているのだ。一オクターブは七音で構成される。二進法で点が四つあれば零から十五まで数えられるが、それは多すぎるし暗号にしては単純である。二巡するとしても一つ余る計算だ。だから音階ではなく、音を表すもので数が多いものといえば文字である。さらに片手ずつに子音と母音に分けられているのならば、日本語のように文字数が三十を超えるものも、子音と母音に分ければ使用できる。
仮名における『エクリプス』を暗号で示すと、左手で母音の『アイウエオ』の順番にあたる【四、三、二、三、三】で『エ、ウ、イ、ウ、ウ』の段を示し、左手で子音の『アカサタナ』の順番にあてて【〇、一、八、十四、二】で『ア、カ、ラ、パ、サ』の行を表せれば、その母音と子音を合わせることで【エクリプス】となるのだ
さらに音の長さであるが、これは一つの音符であっても重なる音すべてに対応する。先の暗号で説明すれば『エクリプス』の「プス」は共にウ段である。ウ段であることを表す【三】の音のあいだに、パ行とサ行の音がくれば、どちらもそのウ段である「プ」と「ス」として扱うのだ。補足だが四拍子【♩】は、八拍子【♪】の二倍の長さがある。そのため母音【♪四♩三♪二♩三】と、子音【♪〇♩一♪八♪十四♪三】で『エクリプス』になる。恐ろしく面倒な暗号である。
どの数字が、どの音階でどれほどの長さかは分からなかったが、それでも暗号の仕組みが分かったので、二人はさっそく読もうとするのだが、一行目から読めなくなる。
「違ったか」とホーエンハイムが舌打ちすると、「もしかして鏡映しとか、逆から読むとかじゃないか」とヘルモントが推測すると、その通り鏡映しだった。
暗号で書かれた楽譜に偽装した、しかも幾つもの二進法を用いた暗号で、さらに題名以外は鏡映しになっているという入念に考えられている。しかも見せ掛けで意味をなさない文字に隠してあるのだから、ヨハン・フラメル教授が読み解けなかったのも無理はない。ホーエンハイムとヘルモントが解読してみると、どうやら正解だったらしい。伝説にあるエクリプス・タブレットに記載されていたであろう内容が、その暗号には隠されていた。錬金術の学者として二人の興奮は最高潮に達した。
「本物か? 本物なのか?」とヘルモントだ。
「分からない。だけど、これが本物なら歴史的大発見だ」
翌日は仕事を休んでまで解読に勤しんだ。例の暗号には、題名のほかに前書きがあって「エクリプス・カードを見る機会があったので、それを翻訳して書き写す」とだけあった。一応著者らしき
とはいえ、ここまで手の込んだ
暗号に書かれている実験を行うのは素直に楽しかった。恐らく暗号を書いたリング・ベイリーなる人物の誤植か誤訳だと思われる、どうしても上手くいかない実験もあったのだが、ヴィクターが実験で得た感動を、三十年近く昔にヘルモントとホーエンハイムも味わっていたのだ。卑金属を貴金属に変えたり、小型のホムンクルスの生成をしたりと書かれていることは何でもやった。暗号の不完全な部分を補填するためにも、ヘルモント達は内容を整理し、実験成果などを纏めたものを論文の形で書き残すのだが、万一誰かに見られたことに備えて独自の暗号に書き換えた。のちにヴィクターがそれを解読することで、今回の一連の事件が起こることになる。
卑金属を貴金属に変える手段を確立したことは、安価な金属があれば高価な金属を手に入られるということである。当初、二人は暗号の内容確認のための費用を取り戻すために、自分たちで生成した金や銀を売ったのだが、これが笑いが止まらなくなるほどに儲かった。簡単に
そして
ホーエンハイムは、ヘルモントや同僚にろくに挨拶もせずに大学を去った。その
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