Star Wizards : Eclipse (スター・ウィザーズ:エクリプス)

枯尾花

第十二回 相容れぬ信仰:『尊厳』だの『汚辱』なんて難しい言葉

 その日の夜、家の外から妙な物音がした。最初に気付いたのは窓際の椅子に座っていたケレブで「おい、ビビアン」と彼女に声をかける。

「わかってる」

 二人の様子が変わったのに気づいたフラメルが「どうしたんだ」と声をかけたとき、ドンッと大きな音が立った。

「例の借金取りか?」とホーエンハイムだ。

 怯えるエディスを、ビビアンは後ろから抱き締める。

「放っておけ。うちに入ってきたら仕留めればいい」

 ケレブがそう言った直後に、家の後方の窓がガタガタと音を立てて揺さぶられたあとガラスが割れる音が響いた。

「ビビアン、強盗どもがここに来たら、容赦なく絞め殺せ」

 ケレブがそう言い残して、物音がした部屋に行って扉を開ける。真ッ暗な部屋を照らすランタンを持った不審な男がいる。

「まず、お前は誰だ。次に何の用だ」

「この家に住むガキの親の借金を返しにもらいに来ただけだ」と不審な男は答えた。

「さんざんむしり取ったんだろ? それに返すにも返す金が無いから、さっさと帰れ」

「ガタガタぬかさず、さっさと借りたもんを返せばいいんだ。オレはウィザードなんだぞ。痛い目に遭いたくなければ素直に返せよ」

「ほう、ウィザードとは随分とご立派な身分なんだな。では、そのウィザード様とやらの魔法でも見せてもらおうか」

 ケレブが威風堂々と男に近づくと、男は腰に下げていた短剣を抜いて、ケレブに向けた途端につかの星が輝いた。色が青だから属性は【水】だろう。

「死ね!」と襲い掛かってきた男の攻撃を簡単に躱したケレブは、【つち】のマナをボクシング・グローブのように右手に纏わせると、そのまま全力で男を殴り飛ばす。飛ばされた男は窓で腰が引ッ掛かって、逆立ちに失敗したような形で外に放り出された。すぐに体勢を整えようとする男が屈んだ状態になって窓を見ると、そこからケレブが顔を出して足を窓枠に掛けていた。ボクシング・グローブは消えている。

「帰る気になったか? 貴様らが二度とここの小娘にちょっかいを出さないと誓うんなら、特別に見逃してやっても構わんぞ?」

「ふざけんな! この野郎!」と怒鳴った男は、立ち上がってケレブに短剣を突き刺そうとするのだが、全く動じないケレブがいとも容易たやすく男の手首を掴むと、そのまま男の胸に飛び蹴りする形で窓から出た。男は必死にケレブの手を外そうとするのだが、男の力よりケレブの握力のほうが勝っていた。ケレブが【地】のマナを刃物に変えて男の手首を切り落とす。悲鳴を上げた男の手首を適当な場所に投げ捨てたあとに、男の頬を全力で殴り飛ばした。

「助けてくれええ! 誰かああ!」と男の声に、なんだなんだと数人の男たちが集まってくる。

「ひぃ、ふぅ、みぃ……」

 数えてみると、殴った男を含めて六人もいた。

「たかが小娘一人に、大の男が六人もまあ……呆れたもんだ」

 ここでリーダー格の男が言う。

「昨日、ここに来た仲間が五人いるんだが、誰も帰って来ないんだ。もしかして、貴様の仕業か?」

「さあな。どんな連中か知らんが、羞恥心と罪悪感に駆られて逃げたんじゃないか?」と惚けた。

「まあ、どっちでもいいが、これ以上……貴様がオレ達の邪魔をするなら、ブチ殺すぞ」

「脅してんのか格好つけてるのか知らんが、哀れみを覚えるほどに、みっともなくてダサいぞ。お前らも人として最低限の尊厳があるのなら、さっさと帰ったらどうだ。生涯の汚辱をさらすことになるぞ」

 男たちがムッとしたところで、ケレブが更に挑発する。

「おっと失礼。『尊厳』だの『汚辱』なんて難しい言葉、お前らのような野蛮な連中には分からないよな。分かりやすく言うとだな……恥をかきたくなければ、早く帰りなさいといったところか。ああ、しまった。お前らには『恥』といった概念が無いのか。困ったな。どう説明していいのか分からなくなってきた」

「調子に乗りやがって! ブチ殺す!」

 リーダー格の男が怒鳴ると、周囲の男と共に襲い掛かってきた。刃物を持った者、鈍器を持った者、松明たいまつを武器した者と様々いたが、ケレブからすればどいつもこいつも弱かった。飛び掛かって振り下ろされた刃物をサッと避けて男の頬を殴り、鈍器の男の手首を掴むと、その腕を相手の背中に回して取り押さえてから得物を奪って、ほかの男の顔面狙って投げつける。松明の男は、それを剣のように振り回してきたので、捕らえていた男を相手に向けて蹴り飛ばした。ケレブからすれば、一人一人の強さは大したことがないのだが、やはり六人もいると面倒だと【地】のマナで男たちの足を捕らえた。

「放せ! ふざけんな!」

「ブチ殺すぞ! この野郎!」

「ブサイク! バーカ! 筋肉ゴリラー!」

 幼稚で情けないと呆れながら男たちを見る。五人いた。

 待て、さっき数えたときは六人だったはず。

 見回して男を捜すと、玄関のほうが妙に明るかった。

 もしやと思った。

 捕らえた男たちは、マナで首元まで土に埋めてから光のもとへ向かう。やはり放火されていた。それでも小火ぼや程度で大したことは無かったので、すぐに【地】のマナをかけて消火できた。玄関扉を開けて「みんな無事か!」と声をかける。

「大丈夫だ!」と、フラメルの声が返ってきた。

 ケレブは捕らえた五人の元に戻ると、みな居なくなっていた。【水】のウィザードから星を奪っているため、察するに六人の中にウィザードがもう一人いて、そいつが仲間を助けて逃げたのだろう。こんな危険な連中を放置するわけにも行かないと、追いかけることにする。草陰に隠れて三つ頭の黒犬の姿になると、男たちのニオイを辿った。大きな犬と人間の足の速さなら、人間が敵うはずもない。すぐに見つけ出して先回りする。人の姿になって【地】のマナを使って不意打ちを仕掛けた。昨日の連中と同様に落とし穴に落としたのだ。これで最初に捕らえられた五人はアッサリと生き埋めに出来たのだが、もう一人のウィザードは緑色の光を放ち、そこから蔓を近くの木の枝に巻きつけることで穴に落ちずに済んだ。男はぶら下がる格好で、ケレブを見下ろしていた。

「【地】のウィザードか! なら、オレのほうが有利だな」と男は笑う。

「そうか? 【地】が苦手なのは【風】だぞ」

「ほう、お前はそう思うのか。なら、オレの言ったことが正しいと証明してやるから、ここで死ね!」

 僅かに光っていた男の蔓の輝きが増した。その光が枝を這い木を辿って地面に届くと、無数の大きな蔓が地面から生えてきてケレブに襲い掛かる。ここでもケレブは動じることなく、【地】を【風】に転じて蔓を切り刻む。その【風】の閃光が、男が捕まっている蔓を横一線に切り裂いた。

「え?」

 男が慌てて別の木に蔓を飛ばしたのだが、その蔓もケレブの【風】が切り裂く。男は灌木の上に落ちたので怪我らしい怪我を負わずに済んだ。そして立ち上がるなり逃げ出すのだが、再びケレブに先回りと不意打ちを仕掛けられる。闇から大きな手がサッと出てきたと思えば、首を掴まれてそのまま持ち上げられたのだ。男は急いで指輪に仕込んでいた星を輝かせようとしたのだが、その指をケレブは【水】のウィザードの手首でやったのと同じようにして切り落とす。

「放せ! この野郎!」と男は両手でケレブの手を引き離そうとしつつ、脚はジタバタと動かしてケレブを蹴るのだが、やはり一切動じる様子を見せない。それどころか「真面目に質問に答えないと殺すぞ」とまで言い出した。

「質問? なんの?」

「あの小娘の両親を殺したのはお前か?」

「だったらなんだ?」

「殺したと認めるんだな?」

「借りたもんを返さないんだ。殺されて当然だろうが」

 ケレブを睨んでいたはず目が、ほんの一瞬で星空を見つめて泳ぎ始めた。一瞬で地面に叩きつけられたのだ。氷雪が乱れる世界にいるかのように体が震え出す。

「こ・ろ・し・た・ん・だ・な?」

 もう、蛇に睨まれた蛙だ。

「こここ、殺してない、殺してない。オレは殺してない」

 男には虚勢を張る気力すら残っていなかった。

「本当に、殺していないんだな?」

「ほん、ほん、本当だ。嘘じゃない、嘘じゃない」

 言葉を連ねるほどに顔が濡れてくる。

「本当だ! 信じてくれ! オレはあのガキの親を殺していない! 顔も名前も知らないんだ!」

「ほう。なら、信じてやろう。その代わり、今後あの小娘の近くに現れたら本当に殺すぞ。仲間にも伝えておけ」

 男が小刻みに頷く。

「分かったのか?」

「わかった、分かった」

「じゃあ、オレがなんて言ったのか復唱しろ」

「オレ達は、もうあのガキのところには行かないし、迷惑も掛けない。仲間にも伝えておく」

「もし、お前らが裏切ったら、どうなる?」

「お、お前に殺される」

「ちょっと違う。オレ達に殺されるんだ。それと、ただ殺されるだけでは済まないぞ。徹底的に苦しみ抜いて死ぬんだ。分かったな」

「は、はい……」

 情けないほどにしわくちゃに潰れた顔をしていた男を再び持ち上げて、さっと投げ捨てた。解放された男は、悲鳴を上げながら逃げ出した。最後まで情けない男だった。

 エディスの家に帰る。小火以外に大した問題はなく、その日は無事に過ごした。


 翌日、ビビアンがエディスを連れて外出する。バシリスクのしもべに見つかってしまう危険はあったが、エディスが例の借金取りの恐怖から外出を拒んだため、ビビアンが同行することになったのだ。ビビアンは念のために不自然ではない程度に変装していた。エディスの自宅にあった母親の衣服を着て、顔に影を落とすように帽子を被ってスカーフを首に巻いた。郵便箱に手紙を入れて、数日分の食糧を買い込んで帰宅する。

 ケレブはビビアンが買ってきた新聞を読んで思わず舌打ちする。

「困ったぞ。まだ被害は出ていないが、各地で怪物が現れたという記事がある」と言って、ホーエンハイムらに見せた。小さな見出しの記事で数行程度しかないが、確かにアイオロス渓谷に、人の顔をした鳥の化け物についての記事が書かれていた。

「これも、バシリスクのホムンクルスか?」とフラメルだ。

「ああ。ハルピュイアという、オレ達を作る以前に実験的に作ったホムンクルスだと聞いている。知能は高くないから、普段は屋敷の警備にあたらせていたんだが、バシリスクめ。こんな試作の個体まで出してオレ達を捜しているのか」

「けど、ただ見た目が気持ち悪いだけの化け物だろ?」

「ホムンクルスの体内には星を埋め込んでいる。このハルピュイアやほかの実験個体連中も、試作とはいえ体内に星があって、その星を使ってマナが使えるはずだ」

「ほう、気持ち悪いうえにウィザードなのか。マナが使えるわ、化け物としての特性も使えるわで、敵にまわすと面倒だな」

「だからバシリスクは、こんな連中ばかり作ったんだろう。数日のうちに被害が出るだろうな。今は無事に手紙が届くのを信じるしかないな」


 数日が経つ。送った手紙の返事は今だ来ず。速達で送ったから、手紙はすでに届いているはずだし、相手も速達で返すとこちらに届いているはずである。焦りを覚えてきたケレブに「返事が送られている途中なのだろう」とホーエンハイムが言うが、今朝の新聞には各地の聖地の広い範囲で、バシリスクのホムンクルスらしき化け物が出没し、なんらかの被害を出しては各地のウィザードたちに駆除されているという報道があった。もちろん、被害はオケアノス湖でも発生している。自分たちが原因で化け物被害が増えているという現実が、ケレブには歯痒かった。だが、ケレブとビビアンだけではバシリスク達には敵わない。少なくともエトンとヒュドラは駆除されれば光明が見えてくるのだが、新聞に駆除されたとある化け物の中には、それらしき様相をした化け物はいない。

 翌日、とうとう殺人事件が発生する。以前からホムンクルスを駆除するために挑んだウィザードが返り討ちに遭ったという報道はあったが、どれもホムンクルスからすれば単なる防衛行動である。だが、今回は街中に突然現れては逃げ遅れた一般人を無差別に殺しまわったという報道が新聞に大々的に掲載されていた。もう一つ、犠牲者が少なかったために小さな記事になってはいるが、チカプらが関わったヘパイストス火山の温泉街で起こった火災についても書かれている。

「なんてことを……」

 ケレブの隣で新聞を覗いたビビアンが思わず漏らす。

「ほぼ同時刻の五大聖地近くの集落で起こった化け物による大量殺人……。間違いなくオレ達を誘き寄せるための罠だ。監視役の鴉どもも当然いるだろうから、まだ見つかっていないのは奇跡かも知れん。……明日あしたからはエディス一人に買い物に行ってもらう必要があるな。これ以上、お前を外に出すと変装を見破られる恐れがある」とケレブだ。

「ホムンクルスが発見されるどころか、ウィザードに殺されることにも躊躇が見られません。これ以上放っておくと、バシリスクはなにを仕出かすか分かったものじゃありませんね」

「まさか、ここまでの事をするほど愚かな奴だったとは思わなかった。自暴自棄にでもなったのか?」

「どっちにしろ、早く対処をしないと……」


 翌日の朝、ケレブとビビアンはエディス一人に新聞を買ってくるよう頼むのだが、借金取りへの恐怖が消えていないエディスはそれを拒否する。

「もうあいつらは、お前を怖がらせたりしない。あいつらはオレとそう約束したんだ」とケレブが言うのだが、「あの人達は嘘つきだから、絶対に約束を破る」と言い返すのだ。

 元から信用されるような連中ではないので、感情的に説得させる理由も、言いくるめる詭弁も思いつかない。途中からホーエンハイムとフラメルも説得させるために幾つか言葉を発したのだが、やはり効果が無かった。

「エディス、よく聞くんだ、エディス。もしも、お前に悪さをするような奴がいたら、オレもビビアンもそいつを許さない。だから、もしも万が一が起こったら必ず助けに行くし、そのときは命に代えてもお前を守ってやる」

「そうだよ、エディス。あたしもケレブもエディスのことが大好きだから、エディスのことは絶対に守るからね」

「どうしても、新聞が欲しいの?」

「ああ。新聞に載ってる化け物の親玉が、オレ達を追っている極悪人なんだ。そいつの情報がなんとしても欲しい。だが、オレ達を狙っている以上、オレ達が人前に姿を見せるのは危険なんだ。なんとかならないか」

「…………」

 これ以上拒むのなら、危険だがビビアンがエディスと一緒に買い物に行くつもりだったが、エディスのほうが先に「わかった」と折れた。

「ありがとう。助かるよ」とケレブが珍しく頬笑む。

 そうだと、ビビアンが「これのお陰で、何日間か悪い人に見つからなかったから、きっといいお守りになるはず」と言って、首に巻いていたスカーフをエディスの首に巻きつけた。そして額をエディスの額に付けて「頼んだよ」と頬笑んで一言いった。

「うん」とエディスも頬笑み返す。

「たかが新聞を買いに行くだけだろうが」と、フラメルは腹の中で呟いた。


 朝早くに出掛けたはずのエディスが、昼前になっても帰って来ない。新聞以外は買う予定もなかったので、所持金も決して多くないから、寄り道してほかのものを買っているということは考えられないし、ついでに遊びに行ったという事もないだろう。ケレブらに不安がよぎり、フラメルが窓から外をそっと覗いてみると、郵便受けの前になにかが落ちている。どこかで見た布切れである。

「おい、ケレブ! なにか落ちてるぞ」と声を出す。

 ケレブとビビアンが、フラメルが指差すほうを見ると、色合いや大きさがエディスの巻いていたスカーフと同じである。まさかと、ケレブが周囲を見るが、監視役の鴉をはじめ不審な生き物は見えない。それでも念のために、玄関扉を少し開けて【地】のマナで発生させた蔓で布を回収すると、ケレブはそれを持って無人の部屋に移動した。そこで三首の黒犬の姿になって布のニオイを嗅ぐとエディスのニオイがする。人の姿になって部屋から出る。

「ちょっと出てくる」

「やっぱり、エディスの……」とビビアン。

「そうだ。ホーエンハイム達は任せたぞ」

「一人では危険です」

「しかし、エディスと約束した以上、放置する訳にもいかない」

「そうですね」

「ホーエンハイム達のことは任せた。それと、オレ達が夕方までに帰って来なかったら――」

「わかっています。もう、なにも言わないで」

 ケレブが家を出て草陰に隠れる。再び三首の黒犬の姿になり、ニオイを追って駆け出した。

 ニオイは人里から徐々に離れていく。ホムンクルスによる大量殺人をやってのける連中だから、いっそ人混みに引き込んでエディスと周囲の人間を人質にするような手段を取る可能性も考えていたが、偶然居合わせたほかのウィザードと共闘するのを警戒したか。どっちにしろ、馬鹿の一つ覚えで暴れまわる連中ではないということは、バシリスクの側近であるエトンかヒュドラの可能性がある。エトンは【風】属性だから【地】のケレブとは相性がいい。ヒュドラは【水】属性だから、マナと湖の水を混ぜることでその水を自在に操れる分、ヒュドラのほうが有利。ここまで必死になって自分たちを狙っているという事は、どちらか一人ずつ出して来るなんて事はないだろう。二人の裏切り者を確実に仕留めるには、有利に戦える二人掛かりのほうが絶対にいい。それに自分たちがエディス救出と、ホーエンハイムらの保護の二手に分かれたら各個撃破だって出来る。ニオイを辿りながら走り続けているため考えに集中できないが、可能な限り対策を講じてはみるのだが、どう考えても勝ち目はない。エディスを見捨ててビビアンらと合流し、当初の予定通りに外国に逃亡することも頭を過ったが、ホムンクルスによる大量殺人という暴挙を行っているバシリスクの行動を考えれば、犠牲を増やすだけの悪手にも思える。バシリスクらが「大量殺人はケレブらを誘き寄せる手段としては効率が悪い」と思うまでに発生する犠牲者の数は想像したくなかった。

 エディスを見殺しにするのは愚行だ。魔が差している場合じゃない!

 そう思ったら少し冷静になる。エディスを攫ったということは、すでに潜んでいるエディスの自宅が分かっているという事である。つまり、監視役に睨まれているのだから何時いつ、どのように逃げたとしてもばれてしまう。それなら逃げるだけ無駄だ。バシリスクの屋敷から逃げたように地下のトンネルを使うにしても時間と手間が掛かるため、準備しているあいだに襲撃を受けて全滅だろう。

 奴らに発見された時点で実質負けなのだ。そんな状況に陥っているのだから、多少は無理を押し通してでも奴らを倒さなければならない。ウィザードとして敵わないのなら、純粋な化け物として戦い、奴らを噛み殺してやる。

 そう思いながらケレブは駆け続けた。

 湖の沖合にある孤島は【水】のマナを生み出す聖地とされた場所であるのだが、その島は水辺から離れており舟を使わないと近づけない。その代わりに、その島に向かって飛び石のように幾つもある島々の先端にある島には、聖地の島を祀るための神殿が築かれていた。

 ケレブはエディスのニオイを辿るのだが、それが示す道筋は神殿のある島に向かっているのだが、ケレブが島々に渡された橋を渡るたびに、その橋が水と風で破壊されていった。マナの気配がするから、間違いなくエトンとヒュドラの仕業だろうと考えているうちに、神殿のある島に辿り着いた。この島には半分が水に沈んだ洞穴があり、そこが神殿だったのだが、すでにほかの聖地の神殿同様に面影を残すだけに過ぎなかった。その洞穴の前にエディスが囚われていた。両腕が後ろにやられて縄で縛られている。その隣には細身の女がいた。ヘルモント教授の自宅が、ホムンクルスの襲撃を受けたときに、鱗に覆われた獅子ネメアに大量の水をかけたあの女、ヒュドラである。そして洞穴から離れた細い木の上にエトンが立っている。二人とも鶏冠とさかのついた蛇の仮面を被っていて素顔は見えない。

「思ったより遅かったな、ケルベロス」

 エトンが言った。

「人質を取るとは、相変わらず随分と卑怯な手を使うんだな、エトン!」と化け物の姿のままで、ケレブが言い返す。

「我々は効率のいい手段を考えて、それを実行しているにすぎない」

「それが各地でやってる大量虐殺か!」

「ああ。父上は裏切り者を許さない。必ず葬る。だから、こんな目立つような手段を取ったんだ。お陰で各地のウィザードや軍部・警察の連中から目をつけられて迷惑している」

「なら、こんな事をしなければ良かったんじゃないのか!」

「その言葉をそっくりそのまま返そう。スフィンクスならとにかく、お前は今回の裏切りがなければ処分されることはなかったはずだ」

「オレは、あの男のそういうところが大ッ嫌いなんだ! なんでも自分の都合通りに事が運ばないと発狂して、自分の思い通りにするために秩序をゆがめて禁忌を破る! そのくせ他人の犯した禁忌は許さず、必要以上に責め立てる! 奴は自分が神になったつもりでいる、妄想症のクズだ!」

「父上は神だよ。少なくても我々の」

 エトンが静かに返す。

「生命を弄ぶことが、神の行いだと言うのか!」

「そうだ。古今東西、神の行いには理不尽が付き纏う。人間であれば忌み嫌われ、罰せられる行いでも、神なら許されるんだよ。父上は命を弄ぶホムンクルスの生成に成功した。それが、父上が神に類する存在である証拠だ」

「他人が紐解いた資料を使って化け物を生み出した行為がか!」

「父上が持つエクリプス・タブレットの資料には、ホムンクルスの生成法は明確には書かれていない。つまり断片しかない手掛かりを元にホムンクルスを生成したのだ」

「だから、あの醜い魂の男が神だと言うのか! 奴に魂を乗ッ取られて盲信するような、穢らわしい信仰を持つ貴様とはもう話すことはない! お前が攫った小娘を返してもらおうか!」

「ケルベロス……、お前が私をどう罵ろうが構わないが、お前は父上がいない世界で、どう生きていくつもりなんだ?」

「オレは檻の中で長く生を盗むより、広い世界で短く生きる!」

 その言葉にエトンは鼻で笑った。

「どうやって? 仮に父上の追跡を逃れたとしても、お前はどう生きるんだ? 人として生きていないお前は、人として真ッ当な人生を歩めない。せいぜい路上で物乞いをして生活するのがオチだ。運よく仕事を見つけられたとしても、安い賃金でその日暮らしのような生活をして、息絶える人生が待っているんだ。それか、今みたいに化け物として生きるのか? 毎日毎日、餌を探して歩き回っては、爪を牙で獲物を捕らえて、また餌を探して、寝床も雨風をしのげれば上出来といった生活が、短いとはいえ死ぬまで続く。それが自由? それが広い世界だと言うのか? 人として惨めに生きるか、獣として野性に身を委ねるしか出来ないのに?」

「…………」

「命を持って生まれた以上、可能な限り生きようとするのは必然だ。どんなに高尚な志があろうと、心が病み、生に絶望しない限りは生命に固執する。お前は愚かさゆえに、社会に存在する見えない檻に気づいていないだけなんだよ。ハッキリ言うと、父上と行動を共にしたほうが人間として立派に生きられるし、生きられる期間も長い。その上、お前が言う『自由』を求めたがために、心を病んで生に絶望することほうが可能性は高いだろう。それで自殺でもすれば本末転倒だ。けどまあ、お前と話したところで、お前の言う『信仰』が違う者同士が分かり合えるとも思えないし、そもそも父上はお前もスフィンクスも殺す気でいるから、もうなにもかもが無駄なことだ」

 エトンは枝をバネのようにして宙に飛んだ。ケレブの視線が彼を追うが、一瞬だけ見失い、再び影を捉えたときには大人ほどの大きさをした鷲になっていた。鷲はケレブの周りを旋回しながら、マナを込めた風をこちらに向かって放ってくる。鋭い鎌鼬となったそのマナをケレブは躱し続けながら、ダメで元々ではあるが、【地】のマナで作ったつぶてを無数に撃ち返すのだが、エトンを包む【風】のマナが無慈悲にも【地】のマナを吸収する。今度は【地】を転じた【風】で鎌鼬を放つが、本来が【風】属性のエトンとの力比べに勝てるはずもなく、エトンの鎌鼬の盾代わりにすらならない。エトンが高度を下げて、水上ギリギリに降りてくる。ケレブの【風】の攻撃も、今度はエトンが【風】から転じた【水】のマナに吸収され、そのうえ湖の水をも加えた【水】のマナを目眩まし代わりに激しく打ち付けてくるのだが、これは【地】で壁を作って防ぎ止める。水が引けばすぐに壁を崩した。【地】のマナで【水】のマナを掻き消せるのだが、反対に【風】のマナの肥やしにもなってしまうからだ。水と壁で見失ったエトンを、三つの頭で捜す。エトンは洞穴の方向に立っていたが、まだヒュドラとエディスからは距離がある。互いの攻撃の手が止まった。

「……どうした? 攻撃して来ないのか? お前らのほうが圧倒的に有利なんだぞ」とケレブが言った。

「そうなんだよ。そこが引ッ掛かってるんだ」

「いくら馬鹿でもたかが小娘一人のため、これほど不利な状況になるような戦いに、しかも一人で挑み掛かって来るとは思えない。なにか罠があるんじゃないかと、妙に不安になってくる」と続けた。

「なにを今更。こういう状況を作るために、その小娘を攫ったんだろうが」

「そうなんだ。だが、正直ほんとうに来るとは思っていなかった。だから本当にお前がやって来て少々困惑している。けどまあ、対策は講じてある」と、エトンはヒュドラを見た。

 ヒュドラが胴回りだけでも大人の体と大して変わらないほどの、しかも首が九つもある巨大な海蛇になると、その一本の首がエディスに巻きついた。そして湖に入っていく。

「エディス!」

 ケレブが叫ぶ。

「安心しろ。死なない程度に息をさせてやる。死んだら人質としての価値が無くなるからな」

 ケレブの目がヒュドラを追う。水面を走る白波にエディスとヒュドラの影があるのだが、それが水中に消えた。ケレブはエトンに牙を剥いて飛び掛かったのだが、エトンすぐに飛翔して近づくことも出来なかった。ケレブの二つの頭はエトンを追い、一つの頭はヒュドラを捜す。エトンは上空から【風】のマナで攻撃し、時たまヒュドラが水面にエディスの顔を出したときに【水】のマナで攻撃してくる。ケレブはそれを必死に躱しつつエトンには【風】、ヒュドラには【地】のマナで反撃するのだが、そのマナはエトンには届かず、ヒュドラに至ってはエディスを盾にされるのを警戒して牽制程度にしか出来ない上に、【水】のマナを転じた【樹】のマナで掻き消された。それどころか、ヒュドラの攻撃を防ぐために作った【地】の壁も、エトンがタイミングを狙って【風】のマナで掻き消してしまって防ぎようがない。まともに【水】を受けて身動きが取れなくなった瞬間を狙って、例の鎌鼬が襲い掛かってくる。

 正直、打つ手が無かった。

 ケレブは不利な戦いになるのは分かっていたが、それでも甘かった。

 こちらの攻撃は一切届かず、相手の攻撃だけを一方的に受け続けた。いつの間にか血まみれになっていたケレブは地べたに倒れた。それでも二つの頭はエトンを睨み、残り一つの頭はヒュドラを追っている。

 エトンが地面に降りた。首を傾けてなにかに耽っているように思えたが、ふと「どこかで見たぞ」と言った。そのまま考えたあとに、ハッと思い出して「そうだ。オルトロスの死に様とそっくりじゃないか。出来損ないのオルトロスの代用が、結局は出来損ないと同じように死ぬとは、運命とは興味深いな」などとエトンが吐いた。

「あいつと一緒にするな。オレはあいつが嫌いなんだ」と息も絶え絶えになっているケレブが言うと、「同感だ。私もオルトロスが嫌いだった。禁忌を犯したからではない。それ以前から、あの幼稚で愚かなところが不快極まりなかった。珍しく気があったな」とエトンが返す。

「お前と一緒にするな。オレがあいつを嫌っていたのは、そんな理由じゃない。いや、それが遠因なんだろうが、あいつは愚かさゆえに、バシリスクを……ヴィクター・シェリーを疑おうともしなかった。そういうバシリスクの洗脳を甘受したかのようなところが嫌なんだ。次いでに言うと、オルトロスは元々バカだから、そうなるのはまあ……仕方がない。だが、お前らのように考える力があるにも拘わらず洗脳を甘受するようなやからはもっと嫌いだ」

「そうか。まあ、どうでもいいことだ。では」

 飛び石の島から枝葉が擦れるような大きな物音がした。エトンの注意がそちらに向いたとき、音の方向から蔓が伸びたと思った瞬間に、ケレブの体に巻き付いて引き寄せる。エトンが咄嗟とっさに【風】のマナで蔓を切り裂こうとするも、枝葉の陰から放たれた【焔】のマナがそれを掻き消した。

「スフィンクスと老いれたち以外に仲間がいたのか! キマイラめ! あいつまで裏切った……いや、手紙かなにかでホーエンハイムの息子を呼び寄せたか」

 エトンが察した通り、枝葉に隠れていたのはスフィンクスと呼ばれていたビビアンと、チカプだった。ケレブが三首の黒犬という化け物の姿としているのと同じように、ビビアンも化け物の姿だった。それが「頭から鳩尾みぞおちまではヒトなのだが、両腕は人間の指を四本備えた翼になっていて、腹の辺りから下は獅子のくびから下の体」といった姿だった。ちなみに、その大きな翼で飛翔することは出来ない。チカプを乗せている背中に人の姿に戻ったケレブをも乗せたビビアンは、すぐにその場から去ろうと蔓を陸地に続く飛び石の島に生える木に向かって飛ばす。向こうの枝に蔓が巻き付けると、その木に向かって飛んで行った。

「待て。エディスがヒュドラに捕まって水の中にいる。早く助けないと」

 チカプは湖面を見ると、こちらを追うように走る白波が見えた。凝視してみると少女の顔が水面に出ている。背後に目を向けると、大きな鷲がいる。

 チカプはこちらに向かっている途中に、ビビアンからエトンとヒュドラについての話を聞いていたのと、人だったビビアンが目の前で化け物の姿になったところを見ていたので、鷲の化け物と故郷のはぐれ村に現れた仮面の男が同一人物だという説明を聞いても、変に不信感を持ったりはしなかったし、まだ姿は確認できてはいないが水中に潜んでいるであろう大蛇が、ヘルモント宅に現れた長髪の人物だと知ってもやはり驚かない。

 飛び石の島にある木々と飛び移り続けるとき、ふと島と島の間の水面からから大きな蛇の頭がビビアンに襲い掛かった。チカプが大蛇に向かって【焔】を放つが、それを防ぐためにエディスを盾にしたので、咄嗟に【焔】を消す。木に辿り着いたビビアンが、今度は大蛇の首に向かって蔓を飛ばして締め付ける。そのまま釣りでもするかの蛇を引き寄せようとするが、蛇は全身をうねらせて足掻いたので引き上げられない。チカプがエトンを見る。奴が【風】で釣りの邪魔をしようものなら、こちらも【焔】でそれを妨害するつもりである。

「ヒュドラ! 小娘をこっちに寄越せ!」

 エディスを締め付けている首の頭がエディスに噛み付くと、彼女をエトンのほうに投げた。ビビアンの蔓がヒュドラを放してエディスに向かうが、エトンの足がエディスを掴むと太陽に向かって飛翔する。チカプ達からすれば、眩しくて目では追えなかった。すぐにヒュドラのほうに目をやると、奴はすでに水中に身を隠していた。

 ビビアンは次の島にある木に向かって蔓を伸ばしてそちらに移動する。と、いくつか先の島に人の姿に戻ったエトンがいた。エディスの肩と足を抱えて、右手の指が彼女の首に触れていた。ビビアンはエトンのいる島に着くと木から下りた。

「相変わらず卑怯な真似を……。恥ずかしくないの?」とビビアンだ。

「ケルベロスからも同じようなことを言われたが、まあどうでもいい。我々からすれば、こんな小娘にはなんの用もない。だから、お前たち三人がなんの抵抗もせずに殺されるのなら、この娘を解放する」とエトンは言った。

「どうせ嘘でしょ。あたしとケルベロスと数日間も一緒にいたその子を、お前たちが生かして放っておくはずがない。言い訳はそうね。気が変わったとか、殺す理由があるのに気がついたとかかしら。エディスに用がないのなら、生かしておく必要もないはず」

「そこまで我々を信用しないのなら仕方がない」

 そう言ってエトンが、エディスを湖に向かって投げた。ビビアンが蔓を彼女に向かって伸ばしたとき、水中に隠れていた大蛇のヒュドラが顔を出して蔓に噛み付いた。そして【水】のマナを転じて作った【樹】の蔓を、ビビアンの蔓をつたうように伸ばした。ビビアンとチカプは躊躇する。ビビアンが自らマナを消せば、気を失っているエディスはそのまま湖に落ちて最悪は溺死である。チカプも【焔】でヒュドラの蔓を掻き消そうにも、ビビアンの蔓に伝う形で迫って来るために、無理にやればビビアンの蔓まで消してしまう。

 二人の判断は間に合わなかった。

 ヒュドラの蔓はビビアンに巻き付いて湖に引きずり込もうとする。ビビアンの踏ん張るのだが、エトンが【風】のマナで鎌鼬を放ってきたので、チカプが【焔】で壁を作るのだが同時に死角も作ってしまう。と、【風】を転じて作った【水】の礫がビビアンに命中した。思わず踏ん張ることが出来ずに転倒する。その際にケレブとチカプはビビアンの背から落ちた。すぐさま立ち上がったチカプが、ビビアンが放った蔓の先をみるとエディスに巻き付いていた。ビビアンの背後から肩に抱きつくような形で引ッ張ろうとするのだが、やはりエトンが鎌鼬を起こして妨害する。チカプが応戦しようと【焔】を放てば飛び上がって回避する。ビビアンの前脚が水に触れたころ、水面に隠れていたヒュドラのもう一つの首が水面から飛び出して来る。ビビアンは咄嗟にヒュドラの首を躱そうとするのだが、死角に隠れていたヒュドラの別の頭が備えた毒牙が、ビビアンの腰を捉えてそのまま上半身に巻き付いた。そして力尽くで水の中へと引き入れる。ビビアンは力を振り絞って、蔓の先で捉えていたエディスを島に向かって投げた。地面に叩きつけられたエディスが、ケレブの近くに転がってきたので、ケレブは彼女の名前を呼びながら呼吸と脈を確認する。どちらもあった。

 水中に引きずり込まれたビビアンはすでに瀕死であった。ヒュドラの二つの首に締め上げられた上に、双頭に噛み付かれたことで全身に毒が回っていた。水中なので当然息も出来ない。彼女の全身に触れているヒュドラには、ビビアンの体から力が失われていくのがよく分かった。すぐに死ぬのは分かっていたが、ホムンクルスは死ねば体が朽ちて無くなってしまう。つまり死体が残らないため死んだ証拠も無くなるのだ。それは詰まらないと、ヒュドラは彼女が完全に死ぬ前に水面から顔を出した。片方の首が彼女を締め付けていた。すでに体が朽ち掛けているのが見えた。

「ビビアン!」とケレブが叫んだ。

 眉間に皺を寄せて「貴様!」と叫びながら再び三首の黒犬の姿になった。

「おい、小僧! エトンは後回しにして、ヒュドラを……あの蛇を先に倒すぞ! お前は援護しろ!」

 チカプが頷くと、ケレブは【地】のマナで作った鎖を飛ばす。ヒュドラはそれをひょいっと躱して応戦のために【水】のマナで大波を起こすとケレブに向かって打ちつける。本来であれば【地】は【水】を掻き消すのだが、ヒュドラはケレブの体力がそのうち尽きると無礼なめて掛かっているのが分かる。この瞬間にエトンも鎌鼬を放つ。ヒュドラの【水】はチカプの【焔】を掻き消す。エトンの【風】も、【水】に吸収される恐れがあるのだが、仲間の攻撃に力を加える形になるので吸収されて困ることはない。チカプも【焔】を転じて【地】のマナを作れるのだが、それもまたエトンの【風】の肥やしとなる。

 チカプもケレブもそれを察しては、【地】で壁を作るようなことはせず、カタツムリが殻に隠れるような最低限の守りと、杭を作って流れから踏ん張る程度のことしか出来ない。化け物の姿でいるケレブは大柄とはいえ、弱った状態でしかもエディスを庇いながらで耐え続けなければならない。チカプもいつ波に押し流されてもおかしくなかった。自然にこの二人は身を寄せて、大蛇と鷲の攻撃をどうにか耐えていた。

 ヒュドラがふと、攻撃の手を止める。捉えているビビアンが邪魔で仕方なく思えたのだ。この女をケレブらの前で殺すことで、奴らに絶望を与えようと思ったのだが、ケレブらの防戦を見ると、もうビビアンどころではないだろう。なら、この女はさっさと殺そうと考えたのだ。彼女に巻きついているのとは反対の首が、トドメに彼女に噛み付いて毒を注入する。緑色の光を纏ったビビアンの髪から蔓が現れると、それが右手を持ち上げてケレブらに向けた。

「ビビアン!」

 ケレブが【地】の鎖をビビアンに向かって放った。それに呼応するようにビビアンの手から【樹】の蔓を鎖に向かって飛ばして両者の先は結ばれた。と、【地】が転じて【風】となり、まさかの【水】に代わった。滅却循環の作用で、一度は解けた二つの線が再び結ばれて【樹】が【水】を侵蝕してケレブに向かう。ヒュドラもエトンも、一瞬なにが起こったのか分からなかったが、よく見るとケレブの下に庇われていたエディスがビビアンに向かって手を伸ばしているのが見えた。

 【水】は小娘か!

 ケレブの【地】が【風】に転じたあと、それを侵蝕する形でエディスの【水】が伝ったのだ。そして今度は、エディスの【水】を伝ってビビアンの【樹】の蔓がケレブ達のもとに向かったという訳だ。

 ヒュドラはビビアンを投げ捨てようにも、彼女から湧き出る蔓が蛇の体に巻き付いていて放れない。エトンの【風】はチカプの【焔】のせいで届かない。蔓がエディスの元に届いた。蔓を作っている【樹】のマナを、今度はチカプ【焔】が取り込んで焔の筋を作ると同時に、それを辿るようにケレブの【地】が追い掛けた。そのまま【地】の鎖がビビアンもろともヒュドラの首に絞めつけた。

「エトン!」と思わずヒュドラが声を上げた。

 エトンは鎌鼬で、ビビアンを捉えている首を付け根から切り飛ばした。ケレブ達がビビアンを引ッ張ったとき、ビビアンのマナがまだ再生していないヒュドラの傷口に触れた。だが、ヒュドラの凄まじい再生によって、チカプとエディスがビビアンを受け止めたときには、すでに傷口は塞がっていた。落ちた首は朽ちて湖に溶けていく。

「ヒュドラ、特大の大波を起こせ。それで一網打尽にする」

 上空からエトンがそう言うと、「あたしもそのつもりでいる」とヒュドラは答えて水中に潜った。湖から強くて青い光が浮かんだ。まさに渾身を込めた大波の一撃を食らわすために、ヒュドラが可能な限りのマナを発生させているのだ。

 水面が大きく揺れた。

 波が襲い掛かって踏ん張れずに湖に落ちれば、ヒュドラの餌食。波に持ち堪えたとしてもエトンの猛攻が迫って来る。奴らの負けだとエトンは確信したのだが、水面に浮かんだ青い光が消えたあと思うと、黒ずんだ液体が広がっていくのが見えた。と、なにかが伸びてきて水面に顔を出した。花である。大蛇の全身に根と蔓を生やして咲く花だ。

「ヒュドラから花が咲いたぞ」

 ケレブの言葉を聞いて、毒で麻痺していたビビアンを纏っていた緑色の光が消えた。咲いていた花は、その花弁はなびらを散らしながら蔓もろとも枯れて失われる。それを見てエトンは悟った。ヒュドラの首を切ったときに、ビビアンが【樹】のマナで植物の種のようなものを植え付けたのだろう。それを体内に留めたままヒュドラの傷は癒えて、今度はヒュドラが【水】のマナを発生させたときにそれを肥やしに種が爆発的に生長する。体内から根を張られて傷つけられたヒュドラは絶命するという寸法だ。

 エトンが再びビビアンに目を向ける。チカプらが砂の像を抱くように、ビビアンの体が朽ちていく。あのざまだと、なにもせずともそのうち死んでいた。あと数分、様子を見ていればこちらの勝ちだったと、エトンは唇を噛みながら飛び去った。それをケレブらは追い掛けようとはしなかった。エトンを追いかけるだけの余力が無かったため、ビビアンを看取ることを優先したのだ。

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