Case 1ー10
わたしが、この世界に迷い込んだどこかの時点まで、もうひとりの『わたし』は確かに存在していた。
そう言った後、誰にも顔を見られたくなくて、思わずユキは俯いてしまう。
「そっか、ユキさんのお母さんが言ってましたよね? 飛び出したと思ったらまたすぐ戻って来て、挙げ句に鍵を落として夜にまた帰って来たって。つまりその時まで、ユキさんは二人だった。二人のユキさんかぁ……。男って、美人の双子って憧れるんですよねー。うん」
天真爛漫さを装った鬼海のひとことに、ユキは俯いたまま微笑んだ。
鬼海は優しい。
「気にするな、と言うのは簡単だが……まぁ、自分の都合で消しちまっては、気にするだろうな。もうひとりのユキの『世界』を自分の都合で奪ったんだし。でも、もうひとりのユキのことを俺は知らないから、可哀想だと思うぐらいだが、お前が捨てた『世界』の方に消えたユキが行ったんでなければ、居なくなったお前を今も探してる人達がいると思うと……二重に俺は……」
倉部はそこで黙った。
龍之介は倉部がその先、何と続けるつもりだったんだろうと考える。
許せない?
卑怯だと思う?
……哀しい?
窓の外を見る倉部の横顔からは、何も読み取ることは出来なかった。
どうして帰れないんですか?
龍之介は思わず言いそうになって、口を
そうだ。ユキは帰れないのではなく、還りたくないのだと自ら言っていたではないか。
「『わたし』は消えた。消してしまった。それでもどこか『世界』は、わたしに違和感を感じているんでしょう。だから、元の世界に戻るように、あるいはこの『世界』から出て行くようにわたしにはどの世界に繋がるのかは分からないけれど、ここから出るための『入り口』が見えるんです」
もしかしたら、と龍之介は思う。
もしかしたら兄も、帰れないのではなくて帰って来たくないのだろうか?
倉部もまた、探している誰かに対して同じようなことを考えているのだろうか?
「チーフ、しっかりして下さいよー。『並行世界』は分からないことも多いんです。と、言うか分からないことばっっかり! なんですよ⁉︎ 『入り口』は意外とあちこちにあって、そのうえ『並行世界』もひとつじゃないときてる。この『世界』に居ない人が、別の『並行世界』にいる可能性があることが分かっただけでも凄いことだし、そこに行けるようになったのもユキさんが今、居るからでしょ? あーもう。自分、何が言いたいのか分からなくなってきた!」
いつにない鬼海の剣幕に、倉部は驚いた顔でそちらを見返す。
「それにですね、言い出したらキリがありませんが、例えばあそこに座る老夫婦」
鬼海がそっと視線を送る。
「ここではない『並行世界』では、どちらかひとりしか、ここに座っていないかもしれませんよね?
それに、あそこで楽しそうに笑い声を立てているママさん達の中には、別の『並行世界』に子どもが居ない人だっているでしょうね。
あそこで本を読んでいる人も、あのサラリーマンだって皆自身の人生を生きている。
あの時こうしていれば、とかあの時なぜ、ああしてしまったのかと誰もがする後悔と共に皆、生きているんです。
『並行世界』は言い換えれば、現在では実現していない、すべきだった過去や、するはずだった未来の行き着く『世界』です。
あくまでも、個人から見ればですよ?
だけどそれだけの『世界』じゃない。知ってるでしょう? 全く違う側面があるんです。
人をヒトとして思わない誰かあるいは何かがいて、それらは自分達を大枠でしか考えていない。自分達をぼんやりとした大まかな数でしか捉えていないんですよ。
それらは、どう変わろうとも何とも思わない。自分の選択の結果なのか、誰かあるいは何かの介入のせいなのかわからないまま、今の自分からは予期せぬ殺人犯になる『世界』もあるでしょうし、被害者にもなる『世界』もある。誰か大切な人を事故や事件で亡くすこともあれば、それを間逃れることもある。それは自分の選択から生まれたものなんですかね?
突然、靴の紐が解けてしまって立ち止まったことで未来が変わるのは、自分の何の選択です?
それらのせいで、どの『世界』に居たって、どんなに努力しても、どれだけ心を砕いても、ある日突然すべてが一変してしまうことがあるんです……。
自分達は誰かあるいは何かの単なる駒のひとつなんですよ。悪意も善意も介入しない大局の中にあるたくさんの駒でしかないんですよ……」
鬼海は今や肩で息をしている。
「こんな世界くそったれですよ。なぜならどこかの辻褄を合わせるために、誰もが選ばれてしまう可能性があるんです。所詮は駒ですからね? この『世界』では平凡というありがたい人生も、一瞬で変わることがある。それは、違う『世界』での辻褄合わせに選ばれてしまったがためなのかもしれない。または数を合わせるために、この世から抹消されてしまうこともある。駒を動かしている誰かあるいは何かには悪意も善意もない。だからこそ残酷で、くそったれな世の中なんです」
囁くような静かな倉部の声が聞こえた。
「……そのくそったれの一手を、俺たちは『運命』と呼ぶんだよな」
半ば諦めの気持ちで。
あるいは、稀なる出来事に対して。
ひとは『運命』だったから、と言うのだ。
しばらく誰もが口を開かなかった。
唐突に舞い降りた沈黙は、店内の微かな騒めきに包まれて、四人はまるで薄い繭の中にいるようだった。
沈黙を破るのは、いつも鬼海だ。
「……まあ、アレですよ? その一手にイカサマかますために作られたのが、ウチの事務所ですしね? しかも設立者はミイラになっちゃいましたし」
突然、殊更明るく振る舞う鬼海が、龍之介にはとても悲しそうに見えた。
「そうなると、ユキは立派なイカサマ師だな」
倉部が、苦笑いで鬼海に答える。
ユキの俯いたままの肩が震えている。
「チーフ、休憩は終わりにしましょう。箱崎ひなちゃんを迎えに行くんです。今回は確実に救える、そうですよね?」
鬼海が携帯電話のアプリを起動する。
「箱崎さんから、アプリとそのパスワードを教えてもらいました。現在のGPS情報によれば、ひなちゃんは今この辺りにいます。以前ご両親が探したところではありません」
龍之介と倉部が携帯電話を覗き込む。やや遅れて、目元を拭ったユキが。
現在、GPSが示しているのは、一軒のケアホームだった。
「なんでまた、こんなところにいるんです?」
思わず呟いた龍之介に、倉部が言った。
「おい、自分で言っておいて忘れるなよ。この位置情報は、あくまでもこの『世界』の地図だ。箱崎ひなが居るのはこの場所で違いないだろうが、おそらくケアホームではないだろうな」
それにしても、と倉部は首を捻る。
この『世界』の箱崎家がある位置から、離れすぎている。
先ほど一旦行ってみた『並行世界』は、この『世界』とよく似た処だった。街並みも、道路も建物もよく似ていた。
ざっと見た感じは、ほぼ同じ。
帰宅途中の通学路で行方不明になったのだから、箱崎ひなは家に帰るはず。
毎日、朝晩通る道。けれどいつもとはどこか違う様子を肌で感じながら。
少しずつ不安になりながら。
あの家、犬を飼っていたかな?
ここ自販機が、二台あったと思うのに。
微かな違和感は、やがて恐怖に変わる。
家へ、家へと急ぐはずだ。
そこに、家がないとしたら?
学校に戻る?
誰に助けを求める?
「龍之介くん、とりあえず覚えるのは得意だよね? この地図まるっと覚えておいてくれると嬉しいなー」
「向こうの『世界』で携帯は使えないんですか? あれ? 熊谷さんは使えてますよね?」
思考を遮られた倉部は、我に返る。
「そうか……。いや、使える。使えるが……ユキ、携帯貸してくれ」
ユキは携帯のロックを解除し、マップを開いてからテーブルの上に置く。
覗き込む龍之介がそこに見たのは、文字化けした画面だった。ユキが指でスクロールした瞬間、その寸の間、地図が映ると思う間もなく消える。
「通話はこの『世界』で新しく登録した人となら問題はないの。もとの『世界』の人からはほとんど架かってこないし、聞こえても雑音のが多かった。それが全部繋がっていたのかも分からない。それにここの『世界』の人達以外とはもう、架けることも出ることもしないから。……使えないのはマップ。いくらアップデートしても、違うアプリを入れても使えるのはほんの最初だけ……つまりは、そういうことね」
それでもこの携帯電話を手放さないのは、なぜ?
「まぁ、通話ならなんとかなる。それが永遠にかどうかは、知らん。携帯のマップは使えないが今回の『並行世界』はこことよく似ているということだから、地図も似ていると思って間違いないだろう。今までは紙の地図を用意していたんだか、龍之介が覚えるだけで充分だ。向こうで比較出来る」
急がないと、と倉部は続けた。
「急がないと、おそらく箱崎ひなは移動する」
その場に居た誰もが、倉部の言葉に息を呑んだ。
「……どうしてそう思うんですか?」
一呼吸おいて龍之介が尋ねた。
「箱崎ひなは家に帰れなかった。家が無かったんだよ。箱崎ひなが居るとするここが家だとしたら、おかしな話だ。なぜなら『並行世界』だとはいえ、GPSの示す位置が本来の家から離れすぎている。家がなかったらどうする? 両親の話からすると、彼女は歳の割に比較的落ち着いた子どもだと聞いた。おそらく困ったときに助けを求めるのは、警察」
鬼海は慌てて地図を縮小する。
「あった、駅前交番。そうか、ひなちゃんは駅前に交番があることを知っていたはずですよね? 小学校からも駅は近いし、普通に考えて、あの歳からすれば電車だって何度となく利用している。交番があるくらい覚えていますよね? ということはさっきのコンビニのように、交番は同じ場所にあったんだ!」
龍之介もすぐに頷いた。
「それに、子どもは知らない大人を信用していません。僕たちは小さい頃から、知らない人に声を掛けられても信用してはいけないと教えられていますよね。落ち着いた子なら尚更、ひなちゃんも知らない大人から救いの手を伸ばされても、その手を掴むことはしないでしょう。きっと自ら助けを求めるはずです」
こちらから挨拶をしても、返ってきた試しのない同じマンション内の小学生の姿が、ちらりと倉部の頭に浮かぶ。倉部が幼かった頃とは、だいぶ違ってしまった。誰にでも挨拶するのを奨励していた時代には、考えられない世の中。
「うーん。じゃあ、ここ、警察署ですかねー?」
鬼海が首を傾げながら言う。
「なわけないだろう。考えろ」
「病院……。病院でしょうね、多分……」
そう言いながら、ユキはテーブルに置いたままだった自分の携帯電話を鞄に仕舞う。
帰る家のない『世界』
ひなちゃんの両親が存在していない『世界』なのかしら?
それとも、ひなちゃんが存在しない『世界』……?
どちらの可能性もあり得た。
だけど両親だけが存在していたとしたら……? ひょんなことから連絡がついてしまったら?
同じ顔をした人達がひなちゃんの存在を否定し、拒絶したら……?
ユキは鞄をぎゅっと握り締める。
「交番に行って、家がないなんて言う子どもが来たんだ。住所も、電話番号も言える。そこに家がない。両親にも連絡がつかない。とすればまずは病院だろうな」
「その後は……?」
きっぱりとした口調で倉部が言う。
「おそらく、児童養護施設に連れて行くだろう。だから、急ぐ。移動されるまでに箱崎ひなに接触する」
「……夜……ですか?」
鬼海は倉部に後頭部を軽く叩かれた。
「……って。痛いですよー」
「考えろ。怪しすぎるだろう。……昼間だよ。都合良く、箱崎ひなは病院に居る。児童養護施設に移ってからだと難しいが、いまなら病院の面会時間に紛れられる。ただし、記録も履歴も一切残せないから出来る方法は、ひとつ」
続く倉部の言葉に、全員がしばし呆気にとられた。
「イカサマをやる」
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