熊谷ユキの場合 ③


 あの日は雨が降っていた。

 実家への半年ぶりの帰省は、ユキにとって珍しいことではなかった。


 まめに帰ろうと思えば、それも出来た。

 何しろ近いし。

 

 友達のなかには、どんなに遠くても月一回は実家に帰るという強者もいる。


 家族と不仲なわけではないし、どちらかといえば仲の良い方だと思う。


 仕事が忙しい、というわけでもない。


 付き合っている人との関係が、上手くいっていようがそうでなかろうが、それもまた特に関係があるわけでもない。


 距離に関係があるのかといえば、電車とバスを乗り継いで40分から50分、という中途半端な距離がそうさせるのか、なんなのか。


 ただ、一人暮らしの気儘さに慣れてしまったというのは、ある。


 いつでも行けると思うからこそ、足が向かない、というのも多分にある。


 顔を見せに来なさいよ、という言葉に渋々従う感じが嫌なのだろうか。


 どんよりと低く垂れ込めた灰色の空。

 朝から降り続く雨は、ユキの足取りを一層重くさせる。


 いつものように最寄りのバス停で降りた。

 ぽんっと軽い音を立てて傘が開く。

 行き過ぎたバスから吐き出される白い排気ガスを見ながら、ひとつめの角を右に曲がり住宅街に入る。


 歩道のない狭い道路。

 ここはユキが子どもの頃から、時が止まったままのような場所だ。


 向かいから一台の乗用車が走ってきた。

 一歩、塀に沿うように身体を避ける。

 

 あ、水溜り。


 ユキがそう思った次の瞬間、片足はその水溜りを踏む……。


 ……はずだった。

 気づくと尻餅をつく格好で、足を投げ出し、手に持っていた傘は放り出した姿で地面に座っていた。


 びっくりした。


 いい歳をして転んでしまったことに慌てて、何事もなかったかのように立ち上がり、早鐘を打つ心臓を宥めようとさりげなく胸に手をやる。


 放り出した傘を拾い上げ、くるくるっと畳むとさっと左右を見渡し、誰にも見られていなかったと安堵して歩き始めた。


 ……?


 ユキは一瞬、違和感を感じたが、それが一体何なのかわからなかった。


 しばらく歩いて、転んだことの動揺が去ると違和感はさらに増した。


 ……雨が……。

 雨が、降っていない。


 地面はからりと乾いて、先程まで雨が降っていた様子もない。

 空を見上げれば、水色の空に刷毛ですっとなぞったような薄く白い雲がある。


 雨が上がった、というより降っていなかったようだった。


 違和感の正体が、近づいてきているような気がする。ようやく落ち着いた心臓が、また跳ね上がった。

 ……ユキは歩く速度を上げる。


 次の角を左に曲がるとタバコ屋さん。

 赤いポストは『お帰り』の目印。

 それを過ぎれば家はすぐそこ。


 子どもの頃のように、心の中で節をつけて呟く。


 ……!


 帽子を被った、血塗れの人が立っている……?

 一瞬、ユキの足は竦んで動けなる。

 

 角を曲がって最初に目に飛び込んできたのは、円筒形の庇がついた赤いポストだった。

 見慣れないその形と大きさが、人のように見えたのだ。


 こんなの、ここにあった?

 いつもの四角いポストは、どうしたの?


 ユキは駆け出したい気持ちを抑えて、足早に通り過ぎる。


 家はすぐそこ。

 家はすぐそこ。

 家は、すぐそこに。


 いまにも足が絡れそうだ。

 おまじないのように心の中で繰り返し『家はすぐそこ』と呟やきながら、鉄製の門扉を震える手で開ける。ほんの数歩の玄関までの距離さえもどかしい。


 何かがおかしい。


 本能がそれを告げているのに、恐怖に飲み込まれたくない自分が、それを受け入れまいとわずかな抵抗をしている。


 玄関のドアを開け、ユキは悲鳴を上げた。


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