04 第1話02:Eye of the tiger
微量な獣の匂いを嗅いだ彼は、すぐに全力で周囲を探る。
五感を総動員して匂いのもとを辿るのだ。
『感法』というものがある。勘働きを強化して、相手の殺気を素早く察知して奇襲に備えるという技巧だ。現代風に言えば、第六感を鍛えるようなものと言えようか。
彼の時代に生きた名のある兵法者、武芸者はほぼ例外なく、この殺気を捉える術を習得していた。これは一流の兵法者・武芸者になるために必要な技術とも言え、当然、彼もこの『感法』を修めていた。
だが彼は常々、この『感法』だけでは足りない、完全ではないと感じていた。
人間には優れた感覚器官が備わっている。それら全てを動員せずして何が完全か。
目で周囲の状況を収め、鼻で敵の匂いを嗅ぎ分け、耳で微かな身動ぎを捉え、肌で空気の振動を感知し、味覚で周囲の空気の異常を味わう。これら全てを行なえずして何故己の安全が確保出来るのだと固く信じていた。
今回のように殺気を
そう、獣に殺気は無かった。
たった今まで風下だった方角から近づかれていたのもあるが、そうでなければとっくの昔に気付いている。
実は森ではこういったことは珍しくない。腹を空かせてもいない個体が偶々近くにいて、偶然に意図せずこちらに向かってきてしまう場合。獣は満腹であれば自分から近づいてまで人間を自ら襲うことは無い。つまりはお互いに不幸な遭遇だ。そして、歳若い個体が好奇心に負けて接近してきてしまう場合。
今回はどちらの場合でもないようだ。
視線を感じる。
木々の裏か草むらに隠れ、こちらを覗っているのを感じるのだ。偶然の遭遇ではない。完全にこちらに気付いていた。
そして歳若い未熟な個体でもない。隠れ方が巧みだ。さっきから方角は分かるものの正確な場所が特定できない。物音どころか呼吸音すら聞こえない。老練なるものを感じる。
〈かなりデカい。肉食獣、もしくは雑食獣だ〉
匂いで分かった。大きさから考えて、熊だろうか。
野生の獣の中にはごく稀に、襲う直前まで殺意を抱かない者もいるらしい。昔、戦場で知り合った狩りの名手から教えてもらったことがある。殺すことが日常になった歴戦の猛獣がたまにそうなるらしい。彼自身はそんな獣には出会ったこともないが、それはつまり攻撃を繰り出すまで殺気を漏らすことの無いという存在だということだ。
ここは森の中。どの程度の深さかは
覚悟を決めた彼は、先程、獣の気配を察知した方角に向けて歩き出した。手に持つ刀は
果して、獣に僅かな気配の動きがあった。
彼が大よそでも獣の潜む気配を感知したことに驚いた様子で、気のせいかもしれないが、何故か子供が親に悪戯を発見された時のような気配があった。
獣が身を隠す位置は彼が少しずつ歩みを進めていた方向からやや左にずれた斜め前方の大木の裏手。その幹に、恐らくは巨大な躰を押し込めるように隠れている。
彼の勘は、相手に戦闘の意思、少なくともこちらを襲撃しようとする意志が無いのではないかと告げていたが、ここまできて検めぬわけにもいかぬ。そう思い、大木の裏に隠れる存在に向けて言葉を放った。
「そこに隠れているモノ。出てこい」
彼の全感覚はそこに潜むものを野の獣だと予想していた。
ゆえに、これは相手への警告代わりに発しただけであって、野獣が人語を解するとも、人の命令に従うとも思っていなかった。
だから、それが彼の言葉に従って、即座に木の陰からその姿を現したことにも勿論意外感はあった。が、彼が目を剥くほどに驚いたのは別の事だった。
〈デカい……、なんてデカさの虎だ……!?〉
その虎は四足獣でありながら目線の高さが少年とほぼ同じであった。むしろ、僅かながら見上げる程である。
後ろ足で立ち上がって威嚇しようとすれば、体高は1丈8尺(およそ5メートル42センチ)に達するのではないかと思われた。
前足から上だけで、彼が前世で見た月ノ輪熊を大きく超えている。
刀を持ってはいるとはいえ、こんな少年の身体では対抗するのも難しいかと思われるほどの立派な体格を持っているというのに、大虎は肩を落として目線は下を向き、彼の意識が宿る少年と視線を合わせ辛そうにしながらも、ちらちらとこちらの様子を伺いつつ、恐る恐るといった様子でゆっくりと近づいてくる。
その姿は森の王者たる虎としても、威風堂々たる体躯の持ち主としても滑稽に見えた。そして、一つの記憶を想起させる。
ようやく客分とはいえ永年の願いだった仕官を果し、己が屋敷を手に入れた頃、その屋敷に一匹の猫が住みつくようになった。
出会ったときは子猫だったせいか、野獣のような風貌がもとで動物に好かれにくかった彼に何故か懐き、ちょこちょこと後をついてくるようになった。はじめは鬱陶しかったが、次第に情が移り、成猫となってからも数年は屋敷において面倒をみた。
見事な虎柄で、精悍な顔つきから虎丸と名付けた。身体も猫にしては大きかったが、その立派な風貌に反して気が弱く従順で、粗相をしたときに叱った後の姿が目の前の大虎と瓜二つのそっくりだった。肩を落とし大きな体を丸め、目線を下にして如何にも反省していますといった態度を取るのだ。普段は別の生き物かと思う程、活発に動かす尻尾すら股の間にくるんと収めて。その姿を見てしまうとそれ以上怒れなくなってしまうものだった。
見れば目の前のこの大虎も巨大な尻尾を内側に回して股の間に隠してしまっている。
森の主とも言える猛獣のそんな姿は、ある意味哀愁すら漂わせていた。
「お前、この少年の飼い……虎か?」
そんな哀れすら感じさせる姿に思わず毒気を抜かれ、警戒を解いて尋ねてしまう。とはいえこれは返答を期待したものではなく、己に確認したようなものだった。
大虎は、彼の知識の中にある虎と比べてやや緑がかった虎縞に包まれていた。この世界の住人であれば目の前の大虎が、フォレストタイガーと呼ばれる強力な魔獣であると気付くだろう。
その毛はつやつやと光沢を持ち木漏れ日に反射している。首の付け根から人間でいえば両肩に当たる場所だけ、人為的かどうかは判別できないが、獅子の
明らかに人間の手で手入れを受けた証だろう。この体毛の長さで毛玉の一つも見当たらないのは野生の獣では有り得ない。
既に刀から放した掌をかざしてやると、大虎の方からその巨大な頭を押し付けてきた。撫でてやれば安心したような顔で目を細めて、ゴロゴロと喉を鳴らしそうな雰囲気まで醸し出している。体格差からすれば少年が撥ね飛ばされるか押し倒されてしまいそうな行為だが、大虎は絶妙に力加減をしていた。そのことが先程の質問の答えを示しているかのようだった。
「ふふ、お前、虎丸のようだな」
前世の飼い猫を思い出しての一言に、一瞬、彼の顔を見つめてから、より甘えるような仕草を始める大虎。
その動きに応えて、撫でる手を滑らせていくと鬣の中に何かが巻き付いているのを感じた。
「ん?」
モフモフした毛を掻き分けてみると、大虎の脇の下を通して括り付けられた革紐があった。騎乗するための器具かとも思ったが、荷物が括り付けてあるだけであった。
この少年の荷であろうか。鞄を開けて検めてみると、一通の手紙らしきものとえらく使い古された革製の頭陀袋が入っているのみである。食料や水を入れた竹筒のようなものは見当たらない。
読むことが出来るとは思わなかったが、この少年の名くらいは分かるかもしれんと駄目元で開く。
中は驚くことに見慣れた日ノ本の言葉で書かれていた。ただし、奇妙なことに横書きであったが。
これ幸いと書に目を這わせて内容を読み込んでいく。
〈どうやらこの少年が家族に宛てた手紙……いや、遺書のようだな〉
ところどころ知らない文字や意味の分からない単語もあったが、この書が、少年自身が家族に向けて自らの命を絶つ経緯と理由を説明するために記したものだということは理解できた。とはいえその内容には、自殺などという手段を考えたことも無い彼のような人間にとっては理解不能ではあったが。
まず、彼の新しい身体となった少年の名はハーキュリース=ヴァン=アルトリーリア=クルーガー。
何と読みにくい、ややこしい名だろうか、と彼は辟易した。異人の名というのは本当に分からない。これが恐らくこれから自らが名乗らねばならない我が名かと思うと気が滅入るが、遺書の内容程ではなかった。
簡単に言うと、よくある思春期の小僧が引き起こす独り相撲というか、片思いが原因のようであった。
この少年は森に住むウッドエルフという部族出身らしいが、ある時に訪れた同族でありながら住む地域の異なるデザートエルフ族の女性を見て、自分よりも遥かに年上にもかかわらず一目惚れをしたらしい。そしてそのまま女性を追い掛けて家出。自分に懐いているのをいいことにこの大虎を連れて、である。大虎のお蔭で外界でもここまで無事だったようだが、見事デザートエルフの女性に追いついたところで問題が起きた。
デザートエルフの女性、名をヴィラデルディーチェというらしい。
このヴィラデルディーチェ、長いので2度目以降はヴィラデルと略してあったが、彼女は世界中を旅しながら魔物を倒すことを生業とする冒険者であるらしい。しかし、それはあくまで表向きであって、裏では四ツ首という街の暴力集団の一員だったようだ。
この四ツ首というのは盗みや恐喝、暗殺を旨とする裏社会勢力で、少年は子供らしい潔癖さ故に彼女に裏稼業から足を洗うことを迫った。
その結果、少年に裏の顔を知られたヴィラデルは彼を始末するべく3人の刺客を放つこととなった。
刺客から逃れるべく、現在の森に入ったはいいものの、恋した女性に命を狙われたという事実にやがて絶望し、少年は投身自殺を決意するに至る。
読みながら彼は、頭痛すら感じるかのようだった。実に理解しがたい内容だと思いこめかみを揉む。
逃げるつもりも戦う気も無いこの身体の前の持ち主は、反骨精神の全くない、所謂意気地なしだったようだ。
そのくせ動物の帰巣本能を期待してかこの巨大な虎に手紙を括り付け、故郷に帰るように指示した。
だが虎は、その頼みだか命令だかを実行しなかった。少年が身投げした後も、故郷に向かわず、つかず離れずの距離でその周囲を守っていたのだ。
そう考えれば声をかけた際に大虎がオドオドしていたのもわかる。主人の命に背いたことを咎められると思ったのだろう。
主人に責められるのを承知の上で尚尽くす。畜生にしておくには惜しい、大した主思いだった。
しかも、少年の手紙にはこの大虎について書かれてあることは一言もないのがまた哀れだった。
これだけの忠誠心を見せて、その名も、その後の処遇についても一切書かれてはいなかった。それが不憫だった。
彼は大虎を撫でまわす手に力を込めて、思わず言った。
「私がお前の新しい主人だ。お前を虎丸と名付けよう。昔の愛猫に付けた名だが、お前にも似合うんじゃないかと思う。気に入ってくれるかね?」
こちらを見上げたその緑色の瞳が潤んだかのように見えた。
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