02 阿修羅


〈何者!?〉


 突然の枕元から聞こえた声に、まず脳裏に浮かんだのはその言葉だった。

 次に、周囲の気配を伺う。もはや先の無い身でありながら彼の感覚は未だ鋭敏だった。

 しかし、その達人たる感覚が捉えた周囲の気配は、……何も無い。屋敷の主たる彼が今まさに死の床に着こうというのに、誰一人・・・として感知できなかった。逆にこれは異常と言えた。


〈忍びか?〉


 人外の化生とも言われる彼らなら、わずかな血の匂いすら漂わすことなく屋敷中彼以外の人間を全て殺戮し、真上の天井に潜むことのできるものもいるだろう。

 若い頃、数多くの死闘により彼がその命を奪ったものは老若男女数知れない。不意打ちや奇襲ではなく、―――されたことは何度もあり、全て返り討ちにしたが―――双方納得ずくでの戦いであったはずで、恨まれる謂れは無い、と少なくとも彼は思っている。が、面目を潰された者や血を分けた者を殺された者達の恨みというものは恐ろしく、しばしばそういった道理すら踏み倒す。その種の輩が熟練の忍びを頼ったのかもしれぬ。

 先程の脳天に直接響かせたような声が不可解だが、忍びには怪しげな薬品に精通するものもいると聞く、それを使って意識を朦朧とさせたところであるいは―――


〈―――いや、ないな〉


 そこまで考えて、彼はその考えを脳裏から追い出した。

 かつては、あるいはそれができる忍びがいた。

 しかし、戦国の世が終焉を迎え幾星霜。そういった熟達の忍び達はほぼ全てが寿命を迎えている筈だ。仮に生きているとしても、もはや自分と同じくまともに動くことは敵うまい。


 若い忍びではもっと無い。

 忍びの技は剣士以上に実戦の経験こそが熟達へと至るキモなのだ。訓練だけでここまで一切の気配も感じさせぬほどの忍びなどいる訳が無い。実戦に優る経験などないのである。彼はそのことをよく知っていた。


 昔、松平家の役人をやっていた男に従っていた忍びに頼み込んで教えを請うたことがある。その忍びは変わり者で、その役人の父親に命を救われて以来付き従うようになり、それが亡くなった後にも息子に付いたままという律儀な男だった。律儀な忍びなど笑い話にもならねえ、などとよく自嘲していた忍びらしからぬ性格だったが、腕は確かだった。

 何と3丁の鎌を自在に操る恐るべき忍びだった。

 どういう原理かはついに教えてもらえなかったが、投げた鎌が弧を描いて戻ってくるという驚愕すべき技の持ち主だった。対峙する場合、ひとりでに戻る鎌を知らねばそのまま背中から鎌に貫かれて終わりであるし、知っていたとしても前方から2丁の鎌を両手に構えたその男と同時に、後方から襲ってくるもう一丁の鎌にも気を配らねばならぬ。よしんば後方の鎌を躱しきったとしても、戻ってきた鎌を空中でしかも足の指先で捕まえてもう一度投擲してくるのだ。

 立ち会うことはないままだったが、もし立ち会えば負けはせぬが容易には勝敗のわからぬ相手の一人であろうとは思っていた。


 酒の席でぽろりと武田忍びの末と語っていたあの男も、生きていたとしてとうに百を超える歳となっている筈だ。

 それだけの月日が流れている。

 大坂で風魔の小倅が上げたのが忍び最後の花火だった。忍びの技も既に太平の世に消えゆく存在となっている。戦国大名としては異質ともいえた伊賀忍びに対する初代将軍家康公の恩に報いたる温情策は、結果的に彼らの牙を引き抜くこととなった。そりゃあ、危険な任につかずとも飯が食えるなら技を磨く必要は無い。これに危機感を覚えた二代将軍秀忠公は柳生忍びなる集団を雇ったが、彼らは所詮剣士である。剣士が忍びの技をかじったに過ぎない。こんな、血の匂いを一滴も漂わせることなく侵入することなど不可能だし、やるならば目撃したものも全て殺し尽くす勢いで囲んでくるだろう。



〈……どなたかな? 本当に神や仏が、我が願いを聞き届けてくれるのか?〉


 数瞬の迷いの後、彼は脳内に語りかけた。返答はあまり期待していなかったが、果して、再び声が脳内で響く。まるで少年とも女性とも思える澄んだ声音だった。


『神でも仏でもありません。私はあなたのような御仁を、私の世界に招待するものです』


 少なからず彼は驚いた。まさか返事が返ってくるとは思わなかったからだ。心の声を聴くことのできる存在。そんな存在とはどのようなものなのか。神仏でないとすれば閻魔、或いは今も出島に残る紅毛人どもが語る悪魔とやらか。


〈招待……。どのような世界かは存ぜぬが、我はもう体を動かすことすら出来ぬ。招待頂いたとしてもすぐに死ぬ身だ〉


『ご心配はいりません。若く健全な肉体を、今ならご提供できます。寿命もたーーーっぷりと、残っていますよ』


 どこか道化じみた言い方であった。


〈……信じられんな。代わりに何を持っていく?〉


『何もいりません。ただ……』


〈ただ?〉


 言いよどむ謎の声に彼は思わず心の中で聞き返した。


『ただ……、私の世界はひどく危険なところでしてね。あなた方の世界で言うところの魑魅魍魎、悪鬼羅刹がうじゃうじゃいるところなのです』


 ほほう。

 魑魅魍魎、悪鬼羅刹と聞いて、我知らず彼の右の口角が上がる。

 おもしろい、と。


『全く恐れを感じていらっしゃらないのですね』


 からかうような感じはなく、声にはむしろ感心したような口調が感じられた。


〈昔、戦場で鬼とは戦ったことがある。四肢を半ばまで斬り落としても向ってくるような奴であった〉


 少し懐かしい気分で思い出す。とある戦で出会ったその鬼は、その少し前に彼が戦いにてはねた鬼の息子の首を抱きながら猛然と襲い掛かってきた。

 力勝負では滅多に負けたことの無かった自分を軽々と吹き飛ばしたのには驚いた。正確な時間は覚えていないが、少なくとも四半時(30分)以上は鬼と斬り合い続け、首を裂こうが腹を裂こうが鬼は倒れることはなかった。


『私の世界には本物……のがいるのですが……、まあ、いいでしょう、あなたの次の世界での身体はこちらです』


 謎の声がそう言うと、彼が見上げる天井との間にぼんやりと一人の人間の像が浮かび上がった。


 これには流石に彼も驚愕した。


 ここに至って、ようやく彼は会話の相手が超常の存在であると確信する。

 このような術は見たことも聞いたことも無いからだ。


 そして、改めて中空に投影された人物を注視する。

 白い肌、金髪碧眼、すらりと伸びた四肢。


〈異人の……少女かね?〉


 少し嫌そうに彼は心の中の存在に語りかけた。

 異人、そして女性であるということも勿論だが、肌は長年の外歩きでなめし皮の如く浅黒く、野獣のようだと言われた彼の容姿からすると、目の前に投影された人物とは月とすっぽんとも言えるほどかけ離れている。


 くすり、とほんの少しの笑い声の後、やや楽しげな声が返ってくる。


『ご心配なく。彼は少年……男の子ですよ』


 うーむ、と彼は映し出された像を凝視する。健全な身体のままであったならば腕を組みつつ時々己の顎を撫でたところであろう。


 兎に角、前述のように容姿がかけ離れ過ぎている。

 今の己に似ても似つかないのは、やはりどうも気になってしまう。とはいえ、正確な身長こそつかめないが、どうも子供であるようだ。これから成長すれば色々と変わることだろう。歳は元服前かその前後(12~15)に見えるし、鍛えていけば家康公に仕えていた三浦按針殿の如く屈強に育つかもしれない。


 そこまで考えたところで彼ははたと、謎の声と話すことを己が信じ切っていることに気づく。

 自嘲の笑いが思わず浮かびそうになる。

 少し前に変な坊主たちが生まれ変わりだの転生だの言っていたのを眉唾だと思い、半分以上聞き流していたというのに。そういえば数年前に島原の乱で民衆を率いていた天草何某が転生復活したとかいう噂が流行っていたらしいが、それもあまり気に止めてはいなかった。


 そんな己が、何故こんなにも乗り気になっているのか。それは脳に直接送られてくるような声や、目の前に見知らぬ異人の子供の姿を映しだした奇術のせいでもない。

 ひとえに選択肢が無いからだ。

 例えこれらがエセ妖術師や宣教師のまやかしであったとしても、彼はもうすぐ死ぬのである。騙されたとして害され死んだとしても、結果は同じ。時間もわずかな差でしかない。


 ならば、今までの矍鑠かくしゃくとした身では絵空事と断じた事であっても、真剣に向き合うべきなのではないか、とも彼は思い始めていた。



 そう考えを改めていると、目の前に投影された自らの新しい身体となる予定の少年から目が離せなくなる。見れば見る程、少女と見紛うような子だ。穴が開くほどに眺めていると少年の耳が異様に長く横に伸びていることに気が付いた。どこか部族の証なのだろうか。


 と思ったら目が霞んできた。もはや己に残された時間は少ない。決断を下さねばならない時らしい。


〈実にありがたい話だ。そんなことが出来るのであれば是非お願いしたい。……が、二つ確認したい。よろしいか?〉


『お答えできることであれば、なんなりと』


〈我がこの子に成り代わった後、この子の意識だか……魂だか、は一体どうなる?〉


 目の前に投影された少年は生きているように見える。謎の声の話の通りに事が運んだとして、この少年がどうなるのかは気になった。


『どうにもなりません。この子は自殺したのです』


〈自殺?〉


『ええ、自ら生きようとする意志の無い魂を助けることは出来ません。身体は奇跡的に無事なのにもかかわらず、目を覚ますことなく、このままでは朽ちていくことでしょう』


 思春期を迎える少年少女が自殺することはままある。幼児期に幼児としての完全な人格が完成させたにもかかわらず、急激な身体の構造変化によって否応なしに強いられる内面の変化と周囲の自らに対する評価について行けなくなってしまうのだ。


 彼自身はそういった気持になったこともないし、そういう心境を分かろうともしたこともないが、そういうものであるということは知識として知っていた。

 だから、これもそういうものであるのだろうと解釈し、この時は深くは考えなかった。


〈つまりはもうすでに意識は無い、ということなのか〉


『はい』


〈ならばそれは何も問題は無い。では二つ目の質問、最後の質問だ。見返りもなくそなたの世界に招待してくれるというそなたの目的は何だ?何を我に求める?〉


『特にありませんよ。強いて言うならば……大いに生きて、暴れて欲しい、といったところですかね』


〈暴れればよいのか?〉


『ええ。私の世界はね、ちょっと停滞しちゃっているんです。雁字搦めになっちゃって、つまらないんですよ。だからそれをぶっ壊してくれればありがたいかなって思うんです』


〈わかった。存分にあちらの世界で暴れてくれよう。本当に向こうの世界に生きることが出来たなら、毎日そなたを崇め感謝を捧げよう〉


『やめてください。要りませんよそんなの。だいたい、感謝どころか向こうで私を恨むことになるかもしれません。先程お伝えしたように、私の世界は非常に危険です。魑魅魍魎、悪鬼羅刹の数々に加え、国は荒れ、各国は対立しあい、群雄割拠もかくやといえる状況です。あなた方の世界でいえば修羅道に叩き込むことになるのです』


〈ますますもって結構だ。修羅道こそ我の望む道そのものよ。冥府に行くよりよほど心躍る。そうじゃ! そなたのことを阿修羅と呼ぼう。我を修羅の道に突き落としてくれるというのじゃからぴったりじゃろう?!〉


 まるでぽん、と手すら叩きそうな勢いだった。


『アシュラ……アスラ……、いいですね。ふふ、これからはそう名乗りましょう。さて、そろそろお別れですね……。あっと! その前に、一つ忘れるところでした。何かあちらに持っていきたいものはありますか? ものによっては代償が必要になりますが、一つであれば問題なく持っていけると思いますよ』


〈ほう? 何でもかね?〉


『ええ、調味料から道具、形見の品とか、何でもいいですよ。言ってみてください』


〈ならばあれを希望する。我が刀だ〉


 迷うことなく彼は枕元に立てかけられた愛刀を、首を僅かに動かし目線で示した。


『おお、アレですか。結構大きい、いえ、重いですね』


 触れてもいないのに何故、重さが分かるのか気にはなったが、その刀は彼にとって命の次に大事とも言えるものであった。


〈ああ、剛刀厚重ねの特注品だ。今ではこれ程のものは手に入らん。……出来んかね?〉


『出来なくはありません。が、ここまでのものだと代償をいただくことになります。具体的に言えば、名前の記憶……ですね』


〈名前の記憶?〉


『ええ、この世界を離れる際に、その刀の代償として己自身の古き名を捨ててもらいます』


 もし本当に新しき世界を若い健全な肉体での第二の人生が手に入るのなら安いものだ、と彼は思った。日の本一の剣士となった今の己の名に愛着はあるが、こだわるものでもなかった。


〈郷に入っては郷に従え、だ。そなたの世界では、そちらの世界での名を名乗れればよい〉


『いえ、それだけではなくてですね、名を完全にこちらに置いてくるのです。記憶から完全に無くなり、思い出すことも出来なくなります』


〈何?〉


 彼はほんの少し動揺した。が、すぐに問題ないと判断した。

 むしろ都合がいいかもしれない。どうせ名乗ることが敵わぬのだ。それならばキッパリと忘れてしまった方が未練も無かろういうものだ。


〈問題無い。我が愛刀に比べれば安いものだ〉


『そうですか、即決とは恐れ入りますね。では、そろそろ転送を開始します。あなたの魂と共に刀を送り届けましょう』


〈ありがとう。楽しみだよ。……向こうで会えるかね?〉


『残念ですが、それは叶いません。向こうの時間軸にまだ私は存在していないのです』


〈何? それはどういう……?〉


『参りますよ。よき旅を……』


 質問を最後まで紡ぐことなく、彼の意識は闇へと溶けた。


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