第1話

 暑い……

 三輪洋次はつぶやく。

 だらだらと汗を垂らしながら自転車を漕ぐ。

何でも今年はここ十年で一番だとか毎年のように嫌でも聞く言葉を朝のニュースで言っていたがそれにしてももうちょっと加減してくれても罰は当たらないのではないかと思えるほど暑い。

 そうブツブツと叶うはずもない文句を垂れ流しながら洋次は自分を呼び出した友人のもとへと急いでいた。左手に見える大きな池のある公園の入り口に差し掛かったときゾクッとした寒気が走る。しかしそれを気にする暇もなく洋次はスピードを上げた。すると目の前に誰かが捨てたであろうボロボロのクーラーボックスが目に入る。周りの人たちは当然と言えばそうだが気にする人もおらず、皆それぞれこの暑い夏を楽しんでいた。

 何故だろう・・・別に気にするほど変わった物でもないにも関わらず洋次には気持ちの悪い何かが背中にへばりついているような気がした。

 だがそのときはそのモヤモヤを解くよりもしなけらばならないことが迫っていたためそっとしまっておくことにした。



 いくらかペダルを漕ぎ進めていくと男数人の声が聞こえてくる。

 「おーい! 大神!」と呼ぶ声がする。待ち合わせ場所にはすでに何人かが集まって健全な男子高校生の中身のない、だがそれに意味のある会話をしていた。

 「もうみんな来てたのか」

 最後だったことが少し悔しかったが仕方がない。一番、家が遠いのだ。そう自分に言い聞かせて顔中から噴き出る汗をタオルで拭いながら駆け寄るとそこには準備途中のガラクタが積んであった。

 夏休みと言えば宿題、宿題と言えば自由研究。そう、今日ここに集まったメンバーは一緒に課題をやる仲間であるが洋次たち数人が延々悩み選んだ結果『どの容器が一番飛ぶペットボトルロケットになるか』という高校生とは思えない、高校生にもなってと言いたくなるような何とも情けないテーマだった。

 ――まぁ、いい。どうせ自由研究なんて生徒の個性をとか本物の学力をなんて国から言われても何をすべきなのかさっぱりわからない教師にとっての便利な言い訳で、その言い訳に付き合う側の人間としてはこれくらい見逃して貰っても罰は当たらないだろう。――

 そうぼんやりと考えていると突然、声をかけられた。

 「はい。お茶」

 そう言って手渡してきたのはメンバーの一人、昔からの友人の速水健太だった。

 「それにしても暑いよね。もう少し涼しい時間にやっても良かったのにね」と洋次に同意を求めるような物言いで他の奴らに愚痴を言うと、一人、明らかにテンションの違う大柄の男が大声で駆け寄ってくる。

 「それは違うぞ。太陽が照りつけるこの暑さと戦い、勝ち、そして素晴らしい結果を手に入れた時の快感は何者にも変えられないんだ。だからこそ、こうやってわざわざ部活の合間を縫って手伝いに来てるんじゃないか」

 ペットボトルロケットから何を得るのかは分からないが今まさに池に放り込まれて上がって来た所かと思う程に全身汗だく、ぴっちりと張り付いた服を来て話しかけてくる男、田中力也は乾いた喉を潤しながら話を続ける。

 「そう言えば最近、この辺りで変な噂を聞くんだが、お前たちは知らないか?」

 変な噂……嫌な予感がした。

 「あぁ、それなら僕も聞いた事あるよ。ほら、洋次も知ってるだろ?二組の奴らがこの間、話してた」

 頷いたのか、横に首を動かしたのか分からないような返事をした洋次を見て力也が口を動かす。

 「なんだ。相変わらずなのかお前は」

 苦笑いしながら洋次は答える。

 「しょうがないだろ。これでもましになったんだ。そうさそんなものはどこにもいない」困った顔をしていると健太が助け舟を出した。

 「誰だって苦手なものぐらいあるだろ? 力也だって期末試験、真っ赤だったんだろ?」

 すると力也はまるで神に祈る子羊のような顔を浮かべて「そうなんだよ。部活、辞めたくなかったらもっと真剣に勉強しろって。夏休み明けのテストでもし悪い点を取ったらやめなきゃなんねぇんだよ。だから親友として一生の頼みだ健太。宿題のノート見せて」

 全くこいつは……呆れた顔を洋次がすると速水が「ほ、ほら! ノートを読むだけでも勉強になるって言うし」

 こいつはいつもこうやって力也に甘い。正確には洋次と力也に甘い。洋次の長い話が始まりそうだ。始まり出したらまずいと思ったのか力也が逃げ出す。

 「も、もうちょっとで出来そうだな。手伝ってくるよ」

 そう言えばここに来てから何もしてないことに気付き、少しは手伝わないとまずいなの作業をしているみんなの元へ駆け寄る。

 大量のペットボトルの近くには同じクラスの飯田翔馬と山口悠介、それから力也がロケットを飛ばす準備を終える所だった。事前にロケットは作ってあったのでただ飛ばすだけの作業だ。やることなんて特にない。

 「それにしても何でそんなに濡れてるんだ?」

 二人を見ると全身ぼとぼとだ。そういえばさっき力也が異常に濡れていたことを思い出した。

 翔馬が話しかけてくる。「そうなんだよ。聞いてくれよ。力也の奴が張り切ってロケットの箱を一人で持ってくれたのはいいんだけどさ。転んで池に落としちゃってさ。拾うの大変だったよ。悠介がふざけて水をかけてくるしさ」

 やけに力也が濡れていたのはそういうことか。洋次は納得し、足元に転がっているロケットを一つ拾い上げた。少し濁った水が中から出てきて洋次の手を濡らす。ひんやりとした心地よさを一瞬、感じたあと小さな氷の欠片が手に乗るのを見つけた。

 何故だろう。どうして氷が、などと考えているとポンっと肩を叩かれた。

 「どうしたんだ洋次? 何か見つけたか?」健太の問いに「いやっ」と適当に答え、洋次は作業の続きに戻った。



 日が少し傾き始め一仕事終えた洋次たちは濡れた服を生温かい風で乾かしながら帰路に着く準備をしていた。

 ちなみに自由研究の結果はと言うと散々だった。ロケットを踏みつぶす奴、暴発させてびしょ濡れになる奴、結局、最後には皆びしょ濡れになりながら騒いでいるだけの集まりになっていた。

 ふと今、何時だろうかとズボンのポケットから古ぼけた懐中時計を取り出す。それを見ていた翔馬が話しかける。

 「大事なものとはいえ、相変わらず古臭い時計をいつも持ち歩いてるね」

 その言葉に愛想笑いをしながら時間を確認した。

 時刻はすでに六時半を過ぎた頃を指していて流石の夏でも音を上げて沈み始める時間になっていた。

 片付けを一通り終え皆が測ったように背伸びした時、洋次が呟いた。

 「そろそろ帰るか」

 それに答えるように四人がバラバラの肯定の意味の単語を発した。

 その後はそれぞれが荷物を乱暴に自転車のカゴに放り込み特にダラダラとおしゃべりをすることもなく「じゃ、また」と軽い挨拶をして別れた。



 四人と別れたあと洋次は一人、暑い暑いと文句を垂れながら来た道を戻る。

 生乾きの服が体に張り付き気持ちが悪い。早く帰って着替えたい。少しずつペダルを漕ぐ速度が上がる。ふっと生温かい風が吹いた時、洋次は思い出す。

 ――そう言えばここへ来る途中に感じたあれはなんだったんだろう。まさかな――

 力也の言葉が頭を過る。

 夏休みが始まる少し前からその噂は学校に広がっていた。洋次が聞いた話だと何でも最近、『出る』らしい。

 実際にそれを見た奴には話を聞いたことはないが洋次も大体のことは把握している。

 ただ、情報が色々混じってしまっているらしくある者は白くて細い棒のようだとか、長い髪の女だとか聞いているうちによくわからなくなってしまう噂だった。

 しかし今の洋次にとってそれは聞かなければ良かったと後悔するには十分、怖い話であり直ぐにでも灯りのそばに行きたいものだと思った。

 その時だった。

 ガタリッと何かが鳴った。

 気になって辺りを見回すとそこにはここへ来る途中に見たクーラーボックスだ。

 なんだってこんなところにあるのだ。確かあの草むらに落ちていたはずじゃ。

 「まぁ、子供か誰かが遊び道具変わりに放って遊んでたんだろう。そう思うと洋次は通行ノ邪魔にならないようクーラーボックスを脇へ退かした後、自転車に乗り直し、去ろうとした。

 その時だ。

 ガタッ、音がなる。

 思わず背筋に寒気が走る。

 大きい。近くだ。

 逃げたい。このまま振り向かず、一目散に逃げ出して風呂に飯を食べて寝るときちょっと思い出して震えて、何事も無く次の日を迎えたい。

 しかし洋次の体は動かない。誰かが言っているようだ「振り向け」と。何かに惹かれるように後ろを怖がりながらゆっくりと時間をかけ、振り返る。

 ある。そこにはさっき確かに避けたはずのクーラーボックスが置かれていた。

 ――悪い冗談だ。――そう思いたかったがどう考えても目の前に置かれた状況を説明できない。理解出来ないことが起こった。なら取るべき行動は一つだ。そう考えた洋次はその謎の箱に背を向け、襲われないかと不安になりながらもペダルを力一杯、漕ぐ。今まで出したこと無いような力で漕ぐ。

 その瞬間、強い自分とは違う力に邪魔をされる。あまりに勢い良く漕いだためバランスを崩し倒れそうになる。何故だか動かない。さっきまでなんの問題もなく動いていた自転車が重い。

原因は何かと振り返るとそこにあるのは不思議な箱。あれではない。あれが原因ではあったがあれではない。ひやりとした冷気を足元に感じ下を見ると夏にはぴったりなだが今の状況には見たくはなかったものがタイヤに張り付いていた。

 ――氷。――でも何故?――

 何故ではない。そうだ。自分はもう分かっている。

 一つ目の選択を諦めた洋次に残った選択肢は一つだ。凍りつき自立した自転車から降りると怖怖と箱に近づき、手を近づける。じとりとした暑さのなか冷蔵庫に手を入れるように冷たい冷気が伝わってくる。パチリ、パチリと蓋の留め具を外し勢いをつけ普段は祈らない神に祈り開けようとしたその瞬間、蓋が飛んでいくのではと思うぐらいに勢い良く開いた。すんでの所で避けた手を確認してから蓋の開いた箱の中身を確かめるためそっと覗き込む。

 すると中から黒い物体が飛び出しごちりと洋次の鼻をうつ。

 クソッなんなんだ一体。悪態をつく事で正気を保てた事に感謝し痛みと期待と焦り、色々と混じりながらも少し間を取り落ち着いてから目を開く。

 すると目の前には黒く長い美しい髪と手を差し伸べてもすり抜けてしまいそうなほど滑らかで白い肌を持つ少女が何も纏わず今ここで誕生したかのような姿を晒していた。

 「なっ、えっ」言葉に詰まる。必死に洋次はこの場に合う言葉を探す。

 だが洋次が言葉を見つける前に彼女の口が開いた。

 「暑くて溶けそう。何か冷たい物を持ってませんか?」

 固まった口をようやく動かし、答える。いや、問いかける。

 「お前は何なんだ。一体どうなってるんだ。どうしてクーラーボックスの中から人が出てくるんだ。」次々と浮かぶ疑問を片っ端からぶつける。

 そんなことかと冷めた目をしながら

 「ただの普通の女の子ですよ」とだけ答える。

 そんなバカな話が信じられるかと思いながらもただの普通の女の子にしか見えない彼女を見つめる。

 「そんなに私の体が気になります?」

 そう聞かれハッと我に返る。気づいていたことだがあまりの事に混乱しそのことが頭からこぼれ落ちて彼女の姿をまじまじと見つめていたが彼女の体にはその透けるような肌を隠すものは何も無い。かろうじて彼女の長く美しい髪が肌を隠す役割を果たしていた。

 視線を離すように目を肩に掛けた鞄にやり、彼女の要求に答えるため中から昼間、健太から貰った飲みかけのお茶を取り出す。

 「これしか無いけど、良かったらどうぞ」

 そっと彼女の前に差し出すと躊躇することなく洋次の手からそれをひったくりゴクゴクと飲み干す。

 「ぬるい。美味しくない」

 文句を言いながら空になった容器をこちらへ放り投げると何事もなかったかのように空のクーラボックスを閉めスタスタと歩き出す。その様子を目を丸くしながら見ていると突然、名前を呼ばれる。

 「なにしてるんですか。早く行きますよ。洋次さん」

 見ず知らずの人(?)に名前を呼ばれたことに驚きながらなんとか新しい言葉をひねり出す。

 「ちょっと待ってくれ。なにが起こったのか俺に分かるように説明してくれないか?」

 すると彼女はさも当たり前のように「平凡な高校生のもとに女の子が降ってきて居候はよくある話じゃないですか」

 「いや、まてっ答えになってないぞ。ちゃんと一から説明しろ。どういうことなんだ」

 言葉をさっきより強め尋ねるとぷうっっと頬を膨らまし答え始める。

 「もうっ、のりが悪いですね。そんな洋次さんでも納得するように説明してあげますね。私はあなたの許嫁なんです」

 ――はっ?なんの話だ?――

 落ち着きだした頭がまた混乱し始める。

 「どういうことだ。初めて聞くぞ。一体、誰が決めたんだ」

 間髪入れずに答えが返ってくる。

 「私です」

 「はっ?」口に出さずにいたものも含めて何度目だろう。

 少し息を吐き大きく吸ってから質問する。

 「まず聞こう。お前は何者なんだ?」

 「許……『そうじゃなくて!』」

 「わかってますよ。冗談じゃないですか。熱くならない、熱くならない」

 「熱くなんてなってない。寒いくらいだ」

 「それはもうさっきから頑張って冷やしてますから」

 訳の分からない返事をし話を続ける。もっと訳の分からない話を。

 「私、雪女なんです」

 「それって雨男とかそういう類の……」

 「いえっ、本物の雪女です。男を氷漬けにする本物の雪女です」

 「に、逃げていいかな?」一応訪ねてみると彼女は笑顔で答える。

 「ダメです。凍らせますよ」

 仕方なく逃げる代わりに溜まっていたものを吐き散らす。

 「常識で考えろよ。どこの世界に雪女なんているんだこの科学の進んだ現代にそんなたぐいが入りきる余地は無いぞ。確かに常識で考えればクーラーボックスの中から女の子が出てくるなんて考えられないけれど、それは単に体がものすごく柔らかかったからとか実はそ底に穴が空いてたとか、そういう話であって……妖怪なんて……雪女なんている筈無いじゃないか!」

 そんな洋次の言葉を一瞬で吹き飛ばすように「ふぅっ」っと彼女が息を吐くと止めてあった自転車がまるで南極で発掘されたマンモスのごとく氷の塊へと変わる。

 「んなっ、なにするんだ」

 「一々説明するよりもこの方がわかりやすくていいかなと思いまして」

 何か問題でも?そんな顔をする。

 そうだ。今は自転車を氷漬けにされたことを怒ってる場合じゃない。普通なら起こることが何よりの優先事項だが、いやまずそんな状況自体がありえないのだが、それよりも……。洋次は恐る恐る確認する。

 「本物……なの…か…?」

 めいいっぱいの笑顔で元気に返事をする。

 「はいっ!」

 何にかは分からないがほっと安心した洋次は尋ねる。

 「さっきお前は俺の許嫁と言ったがあれはどう言うことだ。誰が決めたんだ」

 「あぁあれは私が今、決めました。そういう設定でこれからもよろしくお願いします」

 そういう設定ってなんだ。そんなこと認めるわけ無いだろ。大体それを誰が信じるんだ。『父さん、母さん、俺の許嫁だよ』って言って『はい、わかりました』ってなったら俺は今直ぐ家族を病院に連れていかなければならないじゃないか。何なんだこいつは。どういう手品を使うの教えてもらおうじゃないか。そう思い尋ねる。

 「っで、どうやってそれを周りに信じこませるんだ。一人一人に私は雪女でこういう設定で暮らしていこうと思ってます。って話して回るのか?笑いものになるか檻に入れられて見世物にされるのがオチだな」

 ありったけの嫌味を難なくかわすように彼女はこう言う。

 「なら問題無いです。私には人に嘘の記憶を信じこませる術がありますから。現に今あなたは雪女の私というさっきまで信じていなかった存在を認めてるじゃないですか」

 「それはさっきお前が俺に力を見せたからだろ」

 「ほんとにそう思ってますか?なら成功ですね」

 ふっ、と笑みを浮かべ話を続ける。

 「でっ、話は戻りますけどお家に伺ってもいいですよね。もちろん洋次さんに選択肢は無いんですけどね」

 「もし断ったら?」

 「氷漬けです」

 笑顔が怖い……

 「わかったよ。いくら暑いからってマンモスみたいにはなりたくないからな。とりあえず付いて来い。ただし言い訳の方はその力とやで何とかしてくれよな。実は嘘でしたは勘弁だぞ。こっちも誰かさんのせいで疲れてるんだ。これ以上疲れるのは体に悪い」

 「はい、迷惑はかけませんから」

 もうかかってるんだがとは言い出せずやっと帰れるとほっとする。

 「そう言えば名前聞いてなかったな。なんて名前だ?」

 「名前?雪女としか呼ばれた事無いので困りましたね」

 「じゃあ今、決めるか。冷たいから『冷』な。それでいいだろ。どうせ元々無かったんだ色々ひねる必要は無いだろ。それと許婚って設定は他の人騙すときに付けなくていいからな」

 「冷かぁ」

 洋次が適当につけただけの名を嬉しそうに繰り返す。そんなに喜ばれると少し簡単につけてしまったことへの罪悪感が生まれる。

 こうして洋次は帰路に着く。雪女と……氷漬けの自転車と。

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