短編集「夏の宴」

笹川翠

夏の宴

 サイン、コサイン、タンジェント…。数学のノートにひたすら書きなぐって、俺は鉛筆を置いた。じっとりとした空気が体をまとっている。真夜中だというのに、暑い。首に、手に、足に、見えない湿気の帯がぐるぐる巻きついているようだ。

 時計はもう三時を指している。そろそろ寝るか。そう思ってペットボトルの水を飲んだそのときだ。机の横にあるすりガラスの窓に、ほうと小さな赤い光が揺らめいた。

 はっとして、窓を見る。

 丸く赤い光がゆらゆらとしながら右から左へと移動している。ゆったりと、時にその光を弱くしながら。俺は思わず息をのむ。…草木も眠る丑三つ時。火の玉だろうか。幽霊怨霊の類は苦手でもないが、得意でもない。見なかったふりをして、さっさと布団にもぐろうと思った。…しかし、できなかった。

 さっきまで一つだった赤い光が、その数を増やしている。目に留まる限り、十弱はある。幽霊の集会でもあるのだろうか。

 俺はたまらなくなって、窓を開けた。

 すると、そこにいたのは火の玉でも、幽霊でもない、ただの赤い金魚だった。

 ただの、というと語弊があるか。縁日などで見かけるあの金魚がその体を赤く光らせながら、宙を泳いでいるのだった。闇に包まれた隣家との間、その先の路地を悠々と。

 目を丸くしているうちに、その数は、どんどん、どんどん増えていく。まるで、家が金魚のいる水槽の中に沈んでしまったようだった。

 金魚の尾ひれのゆらめきが、ふうわりふわりと目をかすめる。その美しさにごくりと息をのんだ。そして誘われるように思わず、窓の桟に手をかけ身を乗り出す。そ

の時だった。近くを泳いでいた一匹が、俺の右ほおをすっとかすめ部屋の中へ入って行く。その金魚を追って振り返ると、ふっと金魚の姿は消え、瞬間、窓の外の光も一斉に消えた。


 金魚だったよな…。

 そこでようやく、寒気がどっと押しよせてきた。俺は机の上のペットボトルへ手を伸ばし、そして小さく叫ぶ。


 ペットボトルの中に、赤い金魚。ミネラルウォーター内を窮屈そうにたゆたうそれは、ぽこりと泡を吐いた。

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