森侘介さんとの交換日記

雨伽詩音

第1話2019.11.26 あなたへ

 日を追うごとに寒さが厳しくなってまいりました。もうすぐ年の瀬かと思うと早いものですね。

 あなたは屋外でお仕事をなさっているので、さぞおつらいこととお察しします。

夏の暑さも、冬の寒さも身にこたえる中でお仕事を続けておられる宅配業や運送業、そしてあなたのようなお方に思いを馳せると、日頃家にこもりがちな我が身が情けなくなるとともに、ほんのささやかなものであっても日々の幸せを祈らずにはいられません。

 そのささやかな幸せがあなたの日記の中で林檎という形をなして、ぽっと赤く灯って、美しいなぁと感じながら拝読しました。

 林檎の詩も白秋めいた童謡で、病みつかれた心をなぐさめられた心地がいたします。

 私に差し上げられるものはさして多くはありませんが、それでも思いをこめてこの日記を記そうと思います。


 日々のささやかな幸せということを先に書きました。私にとって幸せなひとときは、午後のお茶の時間や、窓の外から聞こえてくる小鳥たちのさえずりに包まれる朝の時間です。

 私が暮らしているところは東京の片田舎にあって、駅前にある小さな書店の他には娯楽とてない街ですが、それだけに緑は豊かで、名も知らぬ小鳥たちが毎朝のように訪ねてきてくれるのです。



 きっとあなたも小鳥たちとはお友達でいらっしゃることでしょう。

 高村光太郎「智恵子抄」の「千鳥と遊ぶ智恵子」は特に私が愛好している詩です。


   人つ子ひとり居ない九十九里の砂濱の

   砂にすわつて智恵子は遊ぶ。

   無數の友だちが智恵子の名をよぶ。

   ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――

   砂に小さなあしあとをつけて

   千鳥が智恵子に寄つて來る。

   口の中でいつでも何か言つてる智恵子が

   兩手をあげてよびかへす。

   ちい、ちい、ちい――

   兩手の貝を千鳥がねだる。

   智恵子はそれをぱらぱら投げる。

   群れ立つ千鳥が智恵子をよぶ。

   ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――

   人間商賣さらりとやめて、

   もう天然の向うへ行つてしまつた智恵子の

   うしろ姿がぽつんと見える。

   二丁も離れた防風林の夕日の中で

   松の花粉をあびながら私はいつまでも立ち盡す。


 この詩に触れたとき、私はかつて智恵子が患っていたのと同じ名前の病気と診断されたこともあり、のちにそれは誤診とわかりましたが、彼女に自分自身を重ねずにはいられませんでした。

 智恵子抄がお好きなあなたの心にもきっと大きな影響を与えた詩の一編なのだろうとお察しいたします。

 高村光太郎について、あなたと語り合える日を今から心待ちにしています。



 庭先の小鳥たちのお話に戻りますと、以前隣家の庭先の枝に止まった鳥を撮ろうとしたところ、あっという間に逃げられてしまいました。


   翼あるものは、人間ほど不自由ではない。


 という泉鏡花「天守物語」の富姫の言葉を思い出し、ああ、私も妖やもののけから見ればさぞつまらぬ人間なのだろうと思いつつ、愚かな人間の欲から離れて清浄な世界にいる富姫の気高さを美と仰がずにはいられません。

 美を渇仰することが私にとっての救いであるのは、いつまでたっても私が美に到達できぬことの裏返しなのでしょう。ルカによる福音書のマリアの言葉に


   主はその腕で力を振るい、

   思い上がる者を打ち散らし、

   権力のある者をその座から引き降ろし、

   身分の低い者を高く上げ、

   飢えた人を良い物で満たし、

   富める者を空腹のまま追い返されます。

   (ルカ1.52-53)


 というものがあるのを思い出して、久しぶりに高校時代に使っていた新約聖書を引っ張り出してきましたが、私は「身分の低い」「飢えた人」でありながらも、「思い上がる者」でもあるのです。

 この悲しみはいかんともしがたく、美を渇仰してやまないのも、それが永久に自らに与えられぬと半ば分かっているからなのでしょう。

 マリアは美しいお方です。私にはとても及びもつかない清らかなお方です。

 私は高校でマリアを理想と仰ぐ教育を施されましたが、それでもこの高慢さという私の「罪」はついぞ消えることはありませんでした。

 いずれ小説で書こうと思っている細川ガラシャという女性がいて、彼女はキリシタンなのですが、彼女を描いた作家たちは彼女の持ち前の高慢さを巧みに捉えています。そういう生まれながらの罪を原罪と呼ぶのなら、おこがましいかもしれませんが、私もまた彼女を描く資格はあるのではないかと思っています。



 と、ここまで書いてきましたが、すっかりキリスト教一辺倒の日記になってしまいました。一時期改宗しようか悩んだこともありましたが、私はカトリック教徒ではなく、これらの聖書からの引用を、文学からの引用と同義として位置づけていることを一応断っておくことにして、次の言葉をあなたに捧げます。


   すべて、疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのところに来なさい。

   休ませてあげよう。

   (マタイ11.28)


 寒い中、外でお仕事をなさっているあなたの心が少しでも安らかになりますように。

 またいずれこの場所でお目にかかれることを楽しみにしています。

 どうぞお体にお気をつけてお過ごしください。

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