僕はわがままで 人間を裏切った

しーしい

第一章 綺亜の裏切り

第一節 迷い

 最後まで戦っていた人間の魔法使い三名が、呪詛の声を謁見の間に響かせながら魔族に引きずられていく。

 彼らの叫び声はやがて遠くなり、替わりに魔族の戦士が床の血を洗い始めた。


 謁見の間のドームを埋め尽くした人間は、もう誰一人残っていない。

 全てが魔族の戦士に倒され、恐らく処理のために亜人の房に投げ込まれた。


 多数の魔族の戦士が壁際に整列し僕と魔王の一騎打ちを見守っている。

 彼ら魔王の近衛はハプタ王と人間同盟の戦士達をこの謁見の間に誘い込み、包囲して殲滅した。


 ハプタ王が王女リシャーリスが指揮した魔界侵攻作戦は戦術的に失敗したが、それにもかかわらず僕は魔王に対して優位に戦っていた。

 互いの技量が拮抗し決め手を欠いたていたが、僕も魔王も満身創痍で倒れ、魔王は黄水晶の剣を落とし、僕は聖剣を離さなかっただけだ。


 そして僕は魔王を足の下に組み敷き、彼女は浅い息のまま四肢を投げ出している。

 ただ戦いの惰性に従い、僕は彼女の首筋に聖剣を突き付けた。



 「僕が君を殺せば……」



 人間の勇者として言うべきであったであろう次の句を、僕は口にすることが出来なかった。

 嘘なら言えるけれども、魔王を殺して解決する問題など何一つ無いからだ。


 僕は腕の血が下がりきるまで聖剣を持ち続けて、魔王の達観とした表情を見つめていた。

 魔界に昇る昼の太陽が天窓から差し込み、魔王のゴールドオーカーの頬を艶やかに照らす。

 十万年生きたこの少女にとっては、生も死も、永続も滅びも、僕が思うほどには差が無いのかも知れない。



 「本当にこれでいいのかい?」僕は魔王を見下みおろしながら、懇願するように聞く。


 「それは本当は誰への問い?」魔王は僕を見上げながら、見透かすように聞き返した。



 僕のあごから滴り落ちた血と汗が、魔王の鎧下よろいしたの上で彼女の血と混じり模様を描く。

 魔王の失われた胸甲の下は、あどけない少女の胸だ。わずかな膨らみが、空気を含んで上下している。

 僕は深く息を吸い込むと、咳き込みながらも戦いの興奮を振り落とした。


 僕はつかから左手を離し、聖剣を大理石の床に放り投げる。

 黒く透明な聖剣は宝石のような音を響かせて転がり、魔王の手から落ちた黄水晶の剣に寄り添った。


 僕は聖剣から与えられる原初の力を失い、ふらついて彼女のそばに手を付いた。

 聖剣や黄水晶の剣など水晶剣が持つ使い手を守るための性質だが、場合によってはそのまま死ぬこともある。


 「いいわけがない。僕は君を殺せ・・ない」


 「なら、私の導きによって世界の滅びを確定させようか」


 「僕という勇者は、どちらも選べないんだ」籠手の留め金を外すと、投げ捨てる。


 「すべてを知った上で、キアはここに来たのでしょ」


 ハプタ王が第五王女セラシャリスは言った。人間界の永続の果てにあるのは荒廃であり、終わりの無い地獄だと。

 『綺亜きあ、永続は人間の罪。人間界から永続を奪って、世界の滅びを確定させて』


 「すべてを知った上で、僕はここに来てしまったんだ」


 ハプタ王が第三王女リシャーリスは言った。人間界が永続を失うと、力を失った大地が崩壊して幾億もの人間が犠牲になると。

 『キア、永続は人間が得た至宝。滅びをたくらむ魔王を殺して、世界を永続させて』



 「本当はわかっている、世界は滅びるべきだ。ネイトに見せられなくとも、永続の先に楽園は無い」


 最高神ネイトとセラシャリスは、三百億年後の未来で大量のヒルに覆われて食べもせず、動きもせず、死にもしない肉塊を、人間と呼んだ。

 文明の痕跡が消えた世界で、彼らは二百九十九億年分の記憶を持ち、死を望みながらも二百九十九億年ネイトの召還は試みなかった。


 「世界の滅びを確定させれば、人間同盟とアンテ城の人達は僕を裏切り者と呼ぶだろう。それはいいんだ」


 アンテ城の主であるハプタ王家は、永続の果てを知りながら王家の未来が安寧であればそれでよしとした。

 情報を独占するリシャーリスの幕僚は、僕が教えられたものと同じ嘘を人間同盟の指揮官達に与えている。


 「人間界から永続を奪い破滅させれば、僕は多くの人間を手にかけることになる。恨まれてもいいけど、決心がつかないんだ」


 ハプタ王とその同盟者以外、ほとんどの人間は、世界の滅びも、魔王も、聖剣も、勇者も知らずに生きている。

 世界は直ぐには滅びないけれども、人間界の崩壊は直ちに始まる。多くの人間にとって両者の厳密な区別は意味が無い。



 僕はあご止めを外して、華美なだけで役にたたない勇者の兜を捨てた。全てを切断する奇跡の水晶剣相手に、鎧は意味を持たない。燭水晶の切片を埋め込んだと言うが、魔法使い達の材料実験につきあう義理は無い。

 丸くまとめた三つ編みを解き、長いピーチブラックの髪を手櫛でひろげると、毛先から血が散った。


 「透けるようで繊細な髪。妬ける、人気があったでしょ?」魔王はローズマダーの目を細める。


 「勇者になる前のことは知らないんだ」


 「別の世界のキアは?」


 「そのことを知っているのかい」


 「因果律の変化には気が付いてたから」


 「前の世界では男性のように、短く切っていたんだ。真島はそれを好んでいたけど、異性にモテていたかは知らない」


 真島 恋まじま れんは、僕の大学の後輩であり、趣味仲間だった。当たり前のように、僕の服装の決定権を持っていた彼女は、今考えると東京における僕の大事な人だったのだろう。


 「そう、短く切ると似合うのでしょう」


 魔王の口調から嫉妬を感じた僕は、不敬にも頭に手を伸ばし燕脂の兜を脱がせにかかる。

 あらわになったゴールドオーカーの額、シルバーグレイに光るくせ毛、薄くて密な渦を巻くシェルピンクの角に僕は心のうずきを感じた。


 「この世界に義理は無い。聖剣を抜いたのは確かに僕だけど、この世界に来た時には既に手がかかっていたんだ」


 「聖剣が別の世界から勇者を選んだのは初めてのこと」


 「僕は前の世界で、理不尽な重荷を背負いこんで過労死した。そして勇者になっても断り切れずに同じことをしている」


 「僕はくやしいんだ」堰を切ったように涙があふれて、その滴が魔王の胸を濡らしていった。


 彼女は横にひろげていた腕を持ち上げると、手甲てこうで僕の顔を包む。


 「キアは、勇者として失格ね」


 「そうだね」


 「いいキア、私は魔王であり、勇者を導いて世界を滅びにいざなう役割があるから、キアのかわりに決断は出来ない」



 魔王は指折り数え始めた。


 「人間界から永続を取り上げるのは、世界の正常化」親指を折る。


 「世界の滅びが確定するのは、世界の正常化の結果」人差し指を折る。


 「人間界が大地を失うのは、世界の正常化による現象」中指を折る。


 「キアの持つ聖剣は、世界の正常化のための鍵」薬指を折る。


 「キアがそれを決めるの。終わらせましょう」魔王は小指を僕に差し向けた。



 僕は涙に濡れた眼鏡を外し、乾いた血と滴る塩水を布で拭い取る。


 そして魔王を組み敷いていた足をのけると、それを伸ばし黒大理石の床に座った。


 「足が痺れてる」彼女もまた起き上がると、足をさすりながら横に座った。


 魔族の戦士達が見守りながらも介入して来ないのは、魔王と勇者が世界のあり方であり、その選択が世界の意志だからだ。


 「世界が滅びると、君と魔界も輪廻に帰るけどいいのかい?」


 「十万年も生きると執着はそれほど無いから」


 「僕には執着心が有る。だいぶ忘れてしまったけど」


 僕は無言のまま横を向き、魔王の幼くて端正な横顔をしばらく眺める。

 魔族の誰かが窓を開けたのか謁見の間に風が吹き、僕達の髪の毛を散らしていった。

 魔王のシルバーグレイの髪の毛から、バーミリオンの血が滴り落ち、ゴールドオーカーの頬を流れ下る。

 それは、首を伝わり、鎖骨を通って、胸の間に消えた。

 僕は血の雫を目で追い、迂闊にもそれに欲情・・した。



 「僕は君を殺さ・・ない」


 「そう」


 「僕は世界の滅びを確定させる」


 「わかった、理由は後で教えてね」


 「ただの、わがままなんだ」



 僕は前の世界で抱いていた、反社会的な劣情を思い出す。


 魔王のような褐色・・の肌の少女を抱きたいと思っていた。

 そして今、彼女のバーミリオンの血を舌先に乗せたいと望んでいる。


 かなわなくともいい。でも魔王を殺してしまったら後悔する。

 彼女は僕が手に入れられるかも知れないたった一つの可能性、運命の人だ。

 この世界で彼女ただ一人が大切なものだから、他のすべては犠牲に出来る。


 裏切りの理由を知ったら、リシャーリスは僕を見下すだろう。

 裏切りの理由を知ったら、セラシャリスは僕を笑うだろうか。


 でもセラシャリス、僕は魔王と共になら世界の滅びを見守れる気がするんだ。



 僕は魔王の左腕をしっかりと握ると、鎧の破片が散らばる大理石の床に一緒に立ち上がった。

 互いにふらつき抱き合うと、彼女の角が僕の胸甲に当たって音をたてる。


 昼の太陽が正中にまで達し、天上にはめ込まれた巨大な一枚ガラスを通して謁見の間全体を祝福した。

 見守る魔族の戦士達は一斉に剣を抜くと胸の前に捧げ、僕の選択に敬意を示す。

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