第13話 車内
「────、───」
声が聞こえた。薄い壁を挟んでその向こうから聞こえる様な声だ。くぐもっていて聞き取りにくい。
「──から、少し──れる」
次第に壁が取り払われていき、声が輪郭を帯び始める。まだ所々しか聞こえないその声が佐伯のものだと高坂は理解した。
「我慢してよ、それくらい。うん、えー……」
「……佐伯、先生」と高坂は言った。
「あ、うん。今起きたみたい。うん、じゃね」
佐伯はそういうとスマートフォンを顔から離し通話を切った。通は相手は彼女の父で帰宅が遅れる
スマートフォンをスウェットのポケットに仕舞うと佐伯は高坂の顔をじっと見た。
「うん、顔色はマシになったね」
高坂は状況が掴めずに周りを見渡して情報を集めた。車の中だ。高坂は車種には疎く、それがどんな車なのかまではよくわからなかったが、車内の大きさからそれが軽自動車なのだということが何となくわかった。高坂は助手席に座り、佐伯は隣──つまり運転席に座っている。他には誰も座っておらず車内は暗い。煙草特有の臭いに高坂は幾らか咳き込んだ。
「あーごめんね? うちのお父さんが煙草をよく吸うんだ」佐伯は片手を立てて申し訳なさそうに言った。「私はあまり気にしなくなっちゃったけど、高坂くんは慣れてない?」
高坂は咳き込みながらも肯いた。咳をしているせいで高坂の頭は激しく動いていたが佐伯は高坂が肯いたことをはっきりと読み取った。
咳も治まり、自分の
「高坂くんがさ、急に倒れちゃったからびっくりしたよ」と佐伯が高坂の作業を強制的に中断した。
「倒れた」と高坂は呆然とした。「全然記憶にないです」
車のフロントガラスからはコンビニが見えた。先程まで高坂と佐伯が買い物をしていたコンビニだった。しかし、あまりジロジロ見るなと注意をされた場所までしか高坂は思い出せなかった。
「会計をしていたら君が後ろでパタってね。救急車を呼ぼうとも思ったんだけれど、眠っているだけのようにも見えたから車に運んで様子を見ることにしたんだ。あ、彼も手伝ってくれたんだよ」
佐伯はそういうと店内にいる眠たそうな店員に指さした。ちょうど店員も高坂が目を覚ましたことに気がついたようで安堵の吐息を漏らしていた。高坂が歩く頭を下げると店員が気にするな、とでも言いたげに手を振った。
「どこか痛いところはある? 頭とか」
「特には」と高坂は答えた。「僕はもう帰りますね。ありがとうございました」
迷惑をかけてはいけない、と思い高坂は立ち上がろうとした。それに車内の煙草の匂いからも早く逃げ出したかった。ドアを開けるため腕をあげようとしたのだが、高坂の腕はまるで金縛りにあったかのように動いてくれない。全身が酷く億劫だった。
それを見ていた佐伯は笑を零した。「ま、もう少し休んでいきなよ。それに君は私が家の前まで車で送っていくから。そう言ったでしょ?」
「……わかりました。そうさせてもらいます」
それから数分の間、2人はラジオや音楽を聴くでもなくただぼーっとしていた。あまり心地の良い空間ではない。高坂はむず痒さのようなものを感じていたが、身体が動く気配はまだしなかった。
チラリと隣を盗み見るが、佐伯はドアに頬杖を付き外を眺めていた。高坂の座っている角度からではその目線がどこに向かっているのかはわからなかったが、何となくあのオレンジ色の街灯を見つめているのではないか、そう感じた。
彼女は何を考えているのだろう、そもそも何かを考えているのだろうか。高坂は疑問に思った。
教育実習を初めて3日目に補導時間を過ぎても外を出歩いている生徒を見つけた。しかも中学三年生だ。普通ならば戸惑い、叱るのだろうが彼女にはそんな気配をあまり感じなかった。
「ねえ、高坂くん」佐伯が不意にそう言った。
「なんですか、佐伯先生」
「……んー、その先生ってやめようよ。ここは学校ではないし、君のクラスメイトだって私を先生とは呼んでいないよ」
「じゃあ智華ちゃん」
そう言うと肌の下を何かが音を当てずに這いずり回るのを感じた。誰かにちゃんという敬称をつけて呼んだのは初めてかもしれない。どことなく恥ずかしく、年上の女性をそういう風に呼ぶのには倒錯のようなものを覚えた。
佐伯もそれと似たようなものを感じとったようで大袈裟に二の腕を摩って見せた。
「やめようよ、それは。君のキャラじゃない」それからんー、と佐伯は唸った。「普通に佐伯でいいよ。それに敬語もいらない。君と私にはそこまで年の差があるわけじゃないんだから、もっと砕けていいんだよ」
「……わかったよ、佐伯さん。これでいい?」
「よろしい」
高坂がそう言うと佐伯はよろしい、と満足そうに肯いた。コンビニの電灯に佐伯の顔が白く照らされてその華もほころぶような笑顔が浮かび上がる。高坂はまた胃の底に沈む黒く重たい何かを感じた。
頭がねじ曲がるような吐き気を感じた。高坂はそれらをなんとか耐え、佐伯に迷惑をかけないために窓の外の闇に目を向ける。こちら側には街灯が近くにたっておらず、あたりを照らす光はコンビニの電灯の余韻だけだ。
高坂は暗がりは好きだったが闇は嫌いだった。何だかとても寂しい気持ちにさせられるし、何より“死神”のことを喚起させるから。
高坂は背後で佐伯が動く気配を感じた。布切れ音が高坂の心を落ち着かないものにする。狭い車内で立てられる音は常よりも大きく存在を主張し、意識の大部分を侵した。
髪に何かが触れるのを感じて高坂はビクッと跳ね上がった。
「……ごめんね。ちょっと失礼」と佐伯が言った。
今度は遠慮がちに頭に佐伯の手が乗せられた。それは確かな温度を持って高坂の髪越しに微熱を伝える。佐伯は少し手を落ち着かせるとたどたどしく高坂の頭を撫で始める。
「……なに」と高坂が小声で訊いた。
佐伯はそれに答えず、高坂の頭を撫で続ける。まるで怯えた飼い犬を宥めるように。その手つきは優しく慈しみがあった。高坂の身体が少しずつ感覚を取り戻していき、指先まで血流が巡るのがわかった。しかし、胃の底に沈む黒く重たい何かはその重量と大きさを増していく一方だった。
「……どうしてこんな時間に外にいたの?」
問い詰めるでも諭すでもない。ただただ単純にそう疑問に思ったことを佐伯は高坂に聞いた。
「眠れなかったんだ」
「どうして」
「……すごく安心できたから」
佐伯は黙って続きを促した。
「僕を執拗に追い続けてきた黒い獣がどこかに霧散していったんだ。だから僕はこれから少しの間なら立ち止まって休むこともできるし、恐怖や不安で後ろを振り返る必要も無くなった。とっても安心している」
そう言ってから高坂は何故こんなことを話しているのかわからなくなっていた。出会ってから少ししか経っていない、何も知らないに等しいような人に明け透けも無く自分の事態を晒しているのだろうか。
「君は面白いね。なんというか……他の中学生とは違った感性をしている気がする。あ、私が今言ったことは秘密ね。この車の中だけの秘密」
「わかってる」
「……具合はどう」と佐伯は訊いた。
「まだ少し身体が重いかな」
ならまだここに居ようか、佐伯はまた高坂の頭を撫でながらそう言った。実際のところは高坂の身体は快活にとまでは言えないが、自分一人で歩きドアの鍵を開けてベッドに倒れるくらいのことは出来るくらいまでに回復していた。もしかすると佐伯の手の平が高坂についた悪いものを取り払ってくれたのかもしれない。誰かに撫でなれるのは酷く久しぶりで、懐かしく感じた。
「ねえ、話すことはできるよね。私はもっと君と話してみたいな」
「もちろんいいよ」
「君のことをもっと知りたい。個人的にって言うのもあるけれど、これからあの中学校に教育実習生として身を置くからね、一人でも多くの生徒のことをよく知っておきたいんだよ」
そう言われて高坂は少し悩んだ。自分のことを教えて欲しいと言われても、自分の説明をするのはなんとも難しいしやったことも無い。面接という場での自己PRのようなものなら出来るかもしれないが、佐伯が求めているのはそういったものでないことを高坂はわかっていた。
「じゃあこうしよう」と高坂は言った。「お互いになにか話題を提供して話し合う。そうすれば僕は佐伯さんのことを、佐伯さんは僕のことを知れるでしょ?」
高坂の提案に彼女はそれがいいね、と賛同した。
「じゃあまずは、学校について。君は成績がいい方?」
「あの学校なら上位の上の方かな。全国的に言うとどの辺にいるのかはわからない」
「だと思った。君は何となくそんな気がする」
「佐伯さんの成績は」と高坂がそこまで言うと佐伯の顔が明らかに曇った。話を仕切り直すために咳払いをする。「……どうして教師になろうと?」
「理由ってこと? それとも動機?」
「どちらでも」
「そうだなぁ……ま、簡単に言うとね、中学生の時に担任の先生に勧められたんだ」誰かの真似をするかのように佐伯が少し声のトーンを下げる。「おい佐伯。お前誰かに教えるのとか得意だろ? どうだ、教師とか目指してみないか? ってね」
「高校じゃなくて中学の教師にそう言われたの?」
「そう。私は結構その先生のことが好きだったんだ。声はくぐもってて聞き取りにくいし授業はつまらなかったけどね」佐伯は外のオレンジ色の街灯を眺めてふふっと過去を懐かしんで笑った。「でも生徒の一人一人をしっかりと見てくれるいい先生だった。誰とでも親しくしていたし、皆の情報の全てを頭の中に詰め込んでいるような人だった。少し悩んでいるとわかりやすくアドバイスをしてくれたし、きっとさり気ないフォローも裏でしてくれていたと思う」
「いい先生だね」
「そう。だから当時進路に悩んでいた私はその先生のアドバイスを聞き入れて今に至るってわけ。実際勉強を人に教えるのは好きだし、皆と向き合って話すのも好きなんだ」
「でも一昨日はすごく慌ててたよね」
「うん……ちょっとね。中学生ってこんなに若かったっけなって圧倒されてた」
力なく笑う佐伯を見て、高坂も少しだけ笑った。長い時間笑うことをしていなかった口は少し不器用に口角を上げていたけど、笑うということを忘れていなかったようで高坂は安心した。脳みそも素直に楽しいという感情を受け入れてくれたようだった。
コンビニの白い電灯が弱々しく、住宅街に根を下ろす暗闇を照らしていた。
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