第10話 気まぐれに

 その情景は、灯油を多量に被った人間に、マッチを一本投げつけた時のようだった。黒い靄がベッドから高く高く昇り揺らいでいる。黒い靄の先端がくすぐるかのように天井を撫でている。しかし、火のように燃え移ることはない。


「──っあ! ──はぁっ、はぁ……あ、あぁああ……!」


 立ち上がる黒い靄の元となる高坂は焼けるような痛みと、内側から襲ってくる破裂しそうな程の圧に呻き声を上げて目を覚ました。

 突然のことに高坂は上手く空気を吸い込めない。喉が甘くねっとりとした液体に塞がれているように感じられる。うつ伏せになり腹を抱えると少しだけ呼吸ができるようになったが、深夜の冷たい空気はかんかんに熱くなった肺には冷水のように感じられ、高坂は何度かせる。

 そして喘ぐように叫んだ。


「お、い……“死神”!」


 自分しかいない部屋で高坂は誰かに訴えかけるように絶叫した。すると、自らを“死神”と名乗る黒い靄が高坂の頭に直接語りかける。


「おお、やっと起きたか」と“死神”が言った。


 その調子は、修学旅行で同じ部屋に寝た友達を起こした時に似ていた。揺さぶっていた手を退けるかのように黒い靄の脈動が治まっていく。それと同じくして高坂を襲っていた痛みや圧迫感も薄れていった。しかし、完全には治まらない。


「……は、ぁ」と高坂は震えた呼気を細く吐き出し自分を落ち着かせる。「……何の用だ、“死神”」


“死神”にこんな風に起こされたのは初めてだった。

 つまり、朝が弱い息子を起こすお母さんのような起し方だ。カーテンを開けて布団を剥ぎ、大声で名前を呼びながら揺さぶって起こす。

 もちろん“死神”のせいで高坂が目を覚ました経験が無いわけではない。けれどもそれは、冬の窓から忍んでくる冷気のような起こし方だった。


「オマエは用もないのに誰かを起こすのか? 違うよな」


 そう言ってケタケタと笑い始めた“死神”に高坂は一抹の不快感を覚えた。自然と眉間に力が入りしわが彫られる。それを見たのか、腕から小さく出ている黒い靄が、冗談だ、と言いたげに大袈裟に揺れた。


「で……? 僕に用って」と高坂が言った。

「あぁ、用ってのはな」“死神”はそこで少し間を置いた。「サエキ トモカのことだ。オマエ、サエキをどうするるつもりだ」

「どうっていうのは?」

「はぁ? もちろん殺すかどうかに決まってんだろ」


 それを聞いて高坂は、何を言っているんだ、これは、と思った。“死神”は高坂の頭から直接それを聞いたのか不愉快そうに唸る。


「殺すに決まってる」と高坂が言った。「現に、昨日も一昨日も君を使って佐伯先生から“残り時間”を奪おうとしている」

「だが、殺せていない。オレが聞いているのはもっと“直接的な殺し”を行うかどうかについてだ」

「僕はあの日に言っただろ」そう言って高坂は“死神”と初めて話した日を省視せいしする。「惨殺は二度としない」


 高坂は病室のベッドの上で“死神”に宣言していた。

「僕は、あんな残酷な殺し方……もうしたくない。血だって……見たくない」

 それは決して堂々したものではなかったが、高坂が自身の意思で考えて決めたことだった。その宣言が真っ直ぐと高坂の中心にあり、一本の筋となっている。

 人道を踏み外し、道徳に反した“死神”を行う上で、高坂はベッドの上で呟くように言った宣言を守っている。

 その記憶を高坂と一緒に視た“死神”は意気消沈と言った様子で“黒い靄”を小さくした。


「そんな綺麗事が何になる」


“死神”にそう言われると高坂は返す言葉もなく黙ってしまう。


「オレはオマエに寄生しているからオマエの考えは大抵わかるがな、オマエの中には矛盾がありすぎる。人殺しはしたくないが両親は生き返らせたい。“残り時間”の多い人間は殺したくない、だから少ない“残り時間”の人間を殺す。結果多くの人間を殺してしまっている」

「…………」高坂は表面上も、内面も黙っている。

「それで、今回のサエキの件はどうだ」と“死神”は構わずに続ける。「アレの“残り時間”はあと5だぞ。つまり、サエキはオマエがなにもしなくても、直ぐに死ぬんだ。オマエの目的のために、あるいはサエキのために殺した方がいいだろう。今すぐに。オレの言いたい事はわかるな?」


 高坂はやはり黙っている。しかし、口に出さなくても“死神”は宿主である高坂の無意識的な考えまで明瞭に読み取る。

 高坂はその事を考えると自然と嘆息が漏れた。自分の考えは丸見えだと言うのに、こちらからは“死神”の考えがまるでわからないのだ。

 頭の中に「知りたいのなら聞いてみろよ」と響いた。


「……」逡巡してから、やあて俺も無駄だと悟り高坂は口を開いた。「僕は今までに随分と多くの時間を集めてきた。いや、君に吸い取らせてきたと言った方が正確かもしれない」

「あぁ、そうだな。人間で言うところの6年間だ。ほぼ休まずに毎日、オレは時間を吸い取ってきた」と不気味に“死神”が相槌を打つ。

「僕がこんなことをしているのはお母さんとお父さんを生き返らせるためだ。君はあの日僕に言ったよね? たくさんの“残り時間”を集めれば両親を生き返らせてやるって」

「言ったが、その事でオレを疑っているのならお門違いだ」と死神は早口に捲したてる。「まだ生き返らせるには時間が足りない。手前の不足をオレのせいにされちゃあ困るぜ」


 黒い靄が大きく胎動し、高坂の手先や足先が痺れを感じる。後頭部から焼けるような痛みが走り、視界を白い光が横切る。

〈そうじゃない。熱くなるなよ〉高坂は頭にそう思い浮かべた。“死神”はそれを頭の中に直接聞く。


「……悪いな。取り乱した」高坂の質問の意図が見えたのか、“死神”は大人しくなりそう言った。心做しか黒い靄もしゅんとなる。「なるほど、オマエの危惧するところは最もだな」


 高坂は“死神”の話の準備が整うのを待つため、ベッドから降りて、洗面所で顔を洗った。今日はもう寝れないだろう。きっとこの話は長くなる。水道から電気ケトルに水を注ぐ。

 お湯ができるまでの間、手持ち無沙汰になった高坂はなんとなしに窓から夜空を見上げた。月が綺麗な真円を描いて青白く夜空を照らしている。月の光は淡いものだったが、星々の弱い光はそれに抗うことなく掻き消されて捉えることはできない。薄い灰色の靄が中空を漂っているのが、月明かりに照らされてわかる。それは“死神”を喚起させ、高坂の月に魅入られていた心が少しばかり褪せされる。


 夜闇から目を離し電気ケトルに目をやると、水分量を測るメモリの書かれたアクリルに水蒸気が付着していた。次第にそれは大きくなっていき、湯気となって注ぎ口の部分から出てくる。コポコポと籠る音が激しくなる。


 ──カチンッ。


 子気味良い音が鳴り、電気ケトルの電源が落ちる。

 お湯を使いインスタントのココアを入れた。熱くて持つのすら困難なカップを慎重にリビングへと運んだ。

 丁度そこで“死神”の考えも纏まったようだった。高坂はなんとなくそれに気がつく。


「オマエが最も恐れていることは『本当に両親が生き返るのか』だな」黒い靄が揺らいで、高坂の頭に直接声が響く。


 高坂は確認するまでもないだろう、と短く首肯した。カップに唇を近づけたが、口先に火傷の前兆のような痛みが刺さり口を離す。

 ペロッ、と唇を舌で舐めると高坂が“死神”に声を出して訊いた。


「僕は君を信用している訳では無いが、ある程度の信頼は置いている。君が僕の両親を生き返らせることができるというなら、おそらく僕は信じるだろう」

 そこで高坂は一旦言葉を区切った。

「けれどもそれにしては両親の生き返る気配がまるではい。僕は今まで随分と多くの……“残り時間”を奪ってきた。勘違いするな、君に不満している訳じゃなく。僕が言いたいのは、あとどれくらい同じことをすればいいのか、だ」


 ココアに入念に息を吹きかけて冷ました後、高坂はちょびっとだけココアを口に含んだ。甘さが口の中を満たし、鼻からほんわりと抜けていく。しかし、気は緩むことなくむしろ絞まっていくのを高坂は感じた。


 高坂の疑問に“死神”は黒い靄を髭でもさするかのようにゆっくりと揺らしてから応えた。「そういやオマエにはオレの主食の話をしたっけか?」


 高坂はそれに対し曖昧にかぶりを振った。聞いたことがあるのかどうかは定かでなかったが、大体の予測はできていた。高坂は正解であろう事物を想起する。


「まぁそうだな。概ねそれであっていると言える」と“死神”が高坂の考えを肯定した。


“死神”の主食とはつまり生命力だ。“死神”はそれを高坂が吸い取った“残り時間”から僅かながらに享受しているのだろう。これは高坂自身にも当てはまることで、“死神”に寄生された当初高坂は激しい疲労感や倦怠感、脱力感に苛まれていた。“死神”が高坂から死なない程度に、また生活に大きな支障をきたさない程度に食事をしていたという事だ。

 そして、高坂の中で合点がついた。“残り時間”を“死神”が自身の存続に運用することにより両親を生き返らせることに遅れが生じていたのだ。


「それだけじゃないぜ」と“死神”が高坂の思考に補足をする。「食事はつまるところオレの全てなんだ。オマエの全身を纏うことも、システムの構築や維持にも、こうしてオマエとコミュニケーションを取るのにすら生命力は消費されている」

「……君の見立てでは僕の両親が生き返るのにはどれくらいかかる」と高坂が尋ねた。

「20年ってとこだな。このペースだと」と簡易に“死神”が応えた。高坂はその数字に少しクラっとくる。

「ちなみに」記憶を辿って高坂が言った。「僕の前に君が寄生していたっていう人は、恋人を生き返らせるのにどれほどかかったんだ?」

「確か、5年だな。彼女はまだ小学生だったから、たくさんの時間を要した」


 高坂の両親が“死神”に殺された時は2人共30代前半ほどの年齢だったはずだ。そこから考えると時間の釣り合いが取れていない、と高坂は思った。それに“死神”が応える。


「オマエの前任は“残り時間”を気にせずに殺しをしていた。むしろ“残り時間”の多いものを率先して殺していた」

 高坂はその事をおぞましく思い、震えた声で訊き直す。「………手当たり次第に人殺しをしていたってことか?」

「そうだ。カレは夜になると手当り次第に人を殺し、いくつもの街を渡った。そこでも人を殺した」


 そう語る“死神”の声音はどこか嬉しそうで、高坂は改めて自分がとんでもないものに憑かれ、とんでもないことをしているのだと自覚した。

 思わず唾を飲み込む。静閑としている部屋に心臓の鼓動と荒い息が満ちる。耳のすぐのそばで激しい脈音が聞こえる。

 喉が渇いたのを感じてココアを口にした。冷まさずに飲んだそれは舌を縮ませるように熱して滑り、喉をジリジリと焼きながら胃に溜まる。


「オレはそろそろ休む」死神が唐突に言った。「兎にも角にも、直ぐに答えを導き出せ。サエキ トモカのことだけじゃない。今後についてもだ」

「…………」

「選択肢ってのは一見、無数にあるように思える。だがな、選ばれる1つの選択肢ってのは初めっから決まってるし、それが変わることは無い。既に選ばれている正しい1つにオマエがいつ行き着くか、選ばれることの無い選択肢にオマエがどれだけ惑わされるのか。兎に角、人間の時間は短い。それは念頭に置くべきだろうな」


“死神”がそう言い終わると黒い靄が霧散して、あるいは身体に溶け込んで見えなくなる。

 高坂は全身の骨の上を無数の蟻が歩いているような疲労感にベッドに身を沈める。目を閉じるが意識ははっきりと覚醒していて、なかなか静謐な夢の中へと意識が誘われることはない。彼は仕方がなくシャワーを浴びるためベッドから腰を上げた。


 シャワーを浴びた後、高坂はベッドに30分ほど潜り込んでいたが眠ることが出来ずにいた。

 今日は“死神”を行ったのが一人だったとはいえ、夜に寝付けないのは珍しいことだった。“死神”には疲弊が付きまとう。それはスポーツなどの運動の後、忘れたようにじんわりと身体に染みていくような心地の良い疲れとは違う。背の高い重厚な灰色の壁を無意に、しかし全力で押し続けた後のような荒廃とした疲れをあの黒い靄はもたらす。


 今日だって高坂は荒れるような疲労を筋肉と骨の一つ一つに感じていた。この様子ならベッドに倒れれば直ぐに貪るような睡眠に入ることが出来る。そう思っていた。

 しかし、そうできない理由は彼が──あるいは“死神”も──一番よくわかっていた。

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