ライラック

なたね由

その一

 木曜日。四角く切り取られていた視界が広がったせいで、私は朝から七度、いろいろな場所に身体をぶつけた。



相見さがみさん、眼鏡やめたの」



 真っ先に気付いたのはバイト先のパートさんだった。白根しらねさんはにこやかで穏やかな人柄ながら、体力がありいろんな人から重宝されている。人望があって明るくて、しかも差し出がましくない、人間関係においてカーストの頂点にいるような人。だから私みたいな本を読む以外能がない根暗な大学生にも優しく接することができるんだろう。先日、お孫さんが生まれたとも聞いた。本人からではなく、休憩室の噂話で。



「はあ」

「似合ってるわ。顔がぱあっとして」

「どうも」

「眼鏡も、本屋さんっぽくて良いけどねえ」



 うふふと笑って白根さんは倉庫へ消えていった。頭を下げて見送り、レジに立つ。もう一人のレジ係は講義が長引いたという連絡が、さっき入ったらしい。午後三時。他はともかく、私が勤める書店は最も暇を持て余す時間だ。


 眼鏡をやめたのにはいくつか理由がある。

 たとえば、今日一緒にレジに入る予定のコミちゃんにはしつこく勧められていた。サバは眼鏡よりコンタクトの方が似合う、というのがコミちゃんの言い分だ。サバ、というのは私のあだ名で、お昼休憩のお弁当に鯖缶ばかり食べていたからついたあだ名だ。その時はたまたま、仕送りとお給料のタイミングの兼ね合いで、一番コスパのいいものを食べていただけなのだけれど。

 ちなみにコミちゃんの本名は戸川とがわ乃梨子のりこであり、コミちゃんは『コミュニケーション強者』の意味を込めて私がつけたあだ名だ。

 細かく気が付く白根さんにも、容姿ばかりに興味があるコミちゃんにも気付かれなかったのは、あの眼鏡のレンズに度など入っていなかったこと。目が悪くなってしまったのは事実だ。子供の頃から夜更かししては本ばかり読んでいて、今まで視力を維持できていたのが不思議なくらいなのだけれど。

 視力が落ちたのは理由のひとつ。実は、眼鏡は作ってある。今日着けているのは一日使い捨て用のコンタクトレンズで、眼鏡を作った日に購入したものだ。目が普段より乾燥している気がするし、正直快適とは言い難い。何せ本屋は埃っぽいから、仕事をするなら眼鏡の方がいいに決まっている。



「ごめえん、遅れたあ」

「あたしはいいけど」

「白根さんにも謝ったよお、さっき、倉庫で」

「あと、声デカい」



 エプロンの紐も結ばないままレジに駆け込んできたコミちゃんが、店長に見つかって叱られないといいけれど。ため息をついて、作りかけのブックカバーをコミちゃんに引き渡す。



「落ち着いたら巡回、交代ね」

「サンキュー。ってかサバ、眼鏡じゃないじゃん」

「そうだよ」

「いーじゃんそれ。見えてる?」

「見えてるよ」



 レジを出て本棚に向かうと、コミちゃんがいってらっしゃいと小さく手を振った。

 もうすぐ四時になる。近所の女子校の生徒さんたちでにぎわう時間は、万引き防止も兼ねて店員の誰かが店内を巡回する決まりになっている。

 自動ドアの開く気配。店内に流れるひそやかなクラシックのメロディが、ざわざわとさざめく声にかき消されていく。ふと、手のひらに汗がじわりとにじんだ。


 木曜日。コンタクトを選んだのには理由がある。

 本屋に不釣り合いな騒々しい足音。文庫本を立ち読みしていたおじさんの小さな舌打ちが聞こえた。

 紺色のスクールバッグに大きなくまのぬいぐるみをぶら下げた、ステレオタイプの女子高生。彼女にとって私はきっとひとつの記号でしかない。道端の標識と同じ。それでも、と少し期待をしてしまっている。

 本棚の端からくまのぬいぐるみが覗き見えた。さて、あの人は私を見てどんな顔をするだろう。

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