第二十三話 父と娘


「真弓ー、帰るぞー」


「ちょっと待ってて、佐紀」


 それでも中学校に上がった真弓は友人とつるんだりと、普通に過ごした。

 本人が思っていた『普通』を過ごした。

 柔道部はあっても空手部は無く、人外じんがいに片足を突っ込んだ戦闘力が露見しなかった。

 これ幸い、人並みに『普通』をできるようになった。



 真弓は父に対して、多数の疑問を持ちながらも、家では稽古を繰り返した。

 強くなることを、やめなかった。

 自分の家族が間違っているはずがない、という気持ちがまだ残っていた。



 私には突きも、蹴りも。

 投げも―――すべてが慣れ親しんだ技だった。

 この日も、そうやって―――、


「真弓―――力がこもっていないぞ」



 お互いに距離を取って、庭に並ぶ。

 父にそう言われた時、かっと身体が熱くなるのがわかった。

 熱くなり―――そして、冷めた。


「私は……私は……」


 自分の拳を見る。

 力を籠めたいと、もう思わない。

 弱く、なりたい。


「ウチは、実戦形式で、それを信条にしているし、想定している。手を抜いたら実戦では使えない」


「力を―――籠めていないよ拳には」



 ある時から私は稽古を父としなくなった。

 父は何か言いたげだったが、母と話はしたらしい。

 母は黙っていた。

 責めるような視線でもなく、いつもの穏やかな瞳で私を見ていた。


「勝てるわけないじゃん―――男には、腕力で」


 勝てるわけがない、と俯いて呟いた。

 父は目を見開いた。

 戸惑いの感情のみ、湧いた。



 ―――――――



 ある日、週に二度だけ庭にやってくる弟子たちが、拳一に問うた。

 道場とは別種の稽古を目当てにする者たち。

 科木家の庭は、一部の若者のたまり場でもあった。


「科木先生っ、真弓さんは今日も。いらっしゃらないのでありますか?」


「―――んん? ああ……」


 最近、庭で稽古をしている姿を見かけない。

 父親はその弟子を無表情で見つめ返す。


「あれは―――あいつは空手のことを、もう……」


 言いながら夕焼け空に視線をやり、言葉を最後まで続けることはなかった。

 立ち尽くす拳一がしばらく動かないのを尻目に、背後で弟子数人が腹を小突き合う。


 ―――なんだお前、そんなに真弓に会いたいのか。

 バッ……お前馬鹿、そんなアレじゃねえよ!

 ―――何赤くなってんだ!




 ――――




 真弓は本人が願う、通常に近いものを、手に入れつつあった。

 普通の、生活を送っていく。

 少なくとも学校では、それに溶け込んでいく。



 私の生活のほとんどは、そうして教室になっていく。

 私が特殊環境で育った人間であるということは、知る人ぞ知る……一部の生徒は私の身体能力を知っていた。

 といっても今の時代、バイオレンスな物事はない。



 女不良グループに恐れられるだとか、私の舎弟が出来て毎朝登校すると挨拶しに来るとか、そんな劇的な展開は別にない。

 起こらなかった。



 私はささやかな友達と慎ましやかに過ごしつつあった。

 全員とは―――上手くやれなかったけれど。

 一部の人間は、自分を遠巻きに見つめるだけ。

 怯えた目で、あるいはどうすればいいかわからないという目で。



 別になんの特色もない田舎町の中学には―――そんなものしかない。

 現実とはそんな、虚しいものだ。

 痛いこと、つらいことはなかった。

 ただ真弓の中にあったのは、いつ痛いことつらいことが起こるか、という……。



 制服を着ている自分のことを。

 この父親に対する想い。

 思春期の心、難しい年頃、と片付ける、そんな大人もいるだろう。

 でも恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。



 確かに人並みに、普通をできるようになった。

 だけれど、やはりどこか、隠し事をしているという感覚は消えなかった。

 隠れている、擬態して上手くやっている。

 友達と笑い合っても、本当は、心休まらなかった。



 ――――




 そうして進学、高校一年生の初夏だった。

 その日も一人で帰ることになる真弓。

 友人に誘われることもあった。

 だが一緒に下校して家の庭のことが目撃されることは避けたい思春期であった。



 鞄を持って廊下を歩いて行く。

 偶然聞いてしまったのだ、放課後に残っていた、クラスメイトの男子の話を。



 彼らは椅子に机に腰かけ、雑談など交わしていた。

 制服こそ大人びてはいるが、いまだ幼さが残る男子たちだった。



 ―――おれぇ、中学、暮西中だったんだけどよぉ、校下に熊が出たらしいぜ~

 マジかよ、やべえな

 ―――いや、あるよ、よくある、猟師呼べよ、猟師。

 狩ってもらわなきゃなーうん。

 それかアレだ、科木しなのきオヤジ。

 あ~それなら大丈夫だな。

 科木のオヤジならワンチャン熊に勝てるってよー、もう親父じゃあなくてもいいよ、科木でも

 あはははは―――。



 がら、とドアが開いた。

 墨で描いたかのような生命力ある黒髪、姿勢が異様にまでに正確な長身の女子生徒がひとり、いた。



 三人の男子は、呼吸を止めた。

 やられる!という目で真弓を見て。

 何時攻撃が飛んでくるか怯える目だった。



 ヤバい、と純粋に恐怖した男子はクラスの矢場やばくん。

 僕はけっして彼女の名前を出してないですよ、と無関係を主張したい男子は無官むかん

 そして真弓の吊りがちな瞳に興奮を覚えたのはドMの土江どえくんであった。

 彼の現在の目標は、ピンヒールを履いた真弓に身体を踏みつけてもらいながら、まったく笑みのない黒瞳で見下ろされることにあったのだ。


 硬直。

 真弓に向けられたのは、クラスメイトの女子を見る目ではなかった。

 三人と一人はしばらく視線を交わした。

 やがて、女は誰にもピントを合わせず―――見ずに、教室を後にした。

 その後男子は、およそ一分間止めていた息を安堵と共に吐きだした。

 この話はもうやめよう。



 ――――



 とぼとぼ、夕焼け空に影を伸ばしつつ、真弓は帰宅した。

 のちに暴動者事件に巻き込まれる真弓だが、死んだ人間の如き動作での帰宅。

 心境としては猫背でも、姿勢が常日頃から安定している、健康的な彼女であった。



「あら。真弓ちゃ―――」


 洗濯ものを取り込んでいる近所の住人がいた。

 また科木さん家のところの娘さん。

 挨拶しましょ、と近所のおばちゃんの心境である。

 目が合ったが、不愛想だった。

 一瞬、失礼な……と思ったが、それほど気には留めず洗濯物を見た。



 家にたどり着く。

 学校では絶対に使ってはいけないとわかっている暴力を振るいたい―――そう。

 そう、思ってしまった。

 ちからなく玄関を開け、靴を履く。



 その時丁度、庭で白い道着姿だった拳一。

 汗を光らせているということはまた何かよくわからない修行にのめり込んでいたのかもしれない。

 通常の稽古では汗の一滴すら出てこないだろう。

 その日も暑苦しく迎えてきた。

 真弓の顔を見た父親は、目を見開いて詰め寄った。


「まッ……真弓!どうしたんだ! 死んだような目をしているぞッ! 何があった」


「……いい……から。いいから。別に何でもない」


 娘はやっとのことでそれだけ口にして自室のある二階に、上がろうとした。

 嫌な人間はどこにでもいる、嫌だった。

 それに高校生になってもまだ、傷ついてしまう自分のことも嫌だった。

 そのまま通り過ぎようとする。


 そのまま忘れようとした。

 なんでもない、なんでもないから。


「そんなに暗い顔をして! 悩みがあるのなら父さんに言ってみろ!この父さんに!―――そうだ!お父さんに任せろ! この父に任せろ! 真弓だけで解決できないなら、この父が出て行っていくらでも加勢してやる! 対戦相手はどこだ!」


 その言葉を戦端せんたんとして、その日の親娘喧嘩は始まった。

 ギロチンが父親の耳を掠めた。

 物の比喩だが、常人ならば救急車を呼ぶ考慮をしたほうがいい。


 初手は真弓。

 先に地雷を踏んだ、あるいは地雷に前蹴りしたのは父親であったのだが。


「出てく!」


「待て真弓!何をする!」


「出ていくんだ、私と闘うか、黙って家出させろ!もう」


 咆哮の如き声が反響する室内。


「な、なんだ?お父さんが手伝うぞ!」


「まだ言うか!」


「真弓! なっあ? あ――っ? え、なん——?」


 空を裂いた鋭い拳を二の腕で受ける父。

 本当に何が何だかわからない様子で、しかし攻撃は受け続ける。

 かろうじて直撃避けて。

 コンマ一秒処理誤れば激痛があるのみ。

 父親は疑問符を抱えながら躱し続ける。


 腕をつかみとめようとする父親。

 それを振りほどく娘。

 その動きはやがて加速する打撃の連続へと移行した。



 戦いの場は、まず廊下だった。

 家は壊さないでいたい―――今の自分ならやりかねない。


 

 いや、どうなのか?

 一度、すべて壊してしまったほうがいいのではないか?

 だって……だって、もう、壊れていない瞬間なんて、いつあったのか。

 真弓にはすべてがわからない。

 常識を親から教わらなかったのだ。


 父親は見違えるようなその闘志に気圧される。 

 真弓の攻撃は蹴りが中心だった。

 命中が積み重なる。

 

 衰えたのではないか、と予想いていた父の目論見は外れた。

 狭い廊下だが、鋭い蹴りが何不自由なく飛んできた。 


 父親はそれでも防御。

 急所だけはずらし、ずらし―――クリーンヒットだけは避けていく。

 拳一は粘る。

 同じ屋根の下で過ごした家族としての経験で、風切り音、次の攻撃を読んでいた。



 読んでいたのは真弓も同様だ。

 父親の鍛え抜かれた技を紙一重で躱していく。

 十六年、身体の動き、技の動きを見てきた彼女のほかにはできない芸当であった。

 プロボクサーですら順応できないやり取りが続いていく。



 ―――真弓よ。

 なにがあった、辛いことがあったんだな学校で。

 そうだ、そうに決まっている。

 この父がすべて受け入れて見せよう、青春の拳で。



 娘が長年抱えていた気持ちなど汗の一滴ほども理解できていない熱血親父は受けて立った。

 受けて立ったし受けていた、鋭い右足を、左足を。

 物理的に受け、衝撃音が夕焼け空に向かい飛んでいく。

 戦いの場は庭先に移っていく。



 その接触、応酬のキレは互いに増していく。

 紙一重で首を逸らし、躱し、掌で弾き、身を落とし、体を横に、十文字受け、連続攻撃に合わせていく拳一。

 ほぼすべての攻撃が命中しながらも決定打にはならず攻防が続いていく。



 拳一は思う。

 胸が熱くなった。

 父親を相手にしてこの技のキレは一体。

 空手から、遠ざかったと思った。

 だが―――。




 鍛え抜かれた彼女の蹴りは、縦横無尽な鞭のようであった。

 父は途中までは捌いていたがやがて両腕が悲鳴を上げ始める。

 ガードが弾け、自分の腕が言うことを聞かなくなった。




 勝てるわけないじゃん―――男には、腕力で。

 真弓はそう思う、本当に。

 腕だけじゃなく、脚も全部、全部使って親父を倒さなきゃ。

 そうしなきゃならないんだ。



 何かになれない。

 そう思いつつ父の構えから隙を探す。

 食い入るように睨みつけた。



 ―――強くなっている。

 稽古していた?続けていた?自分が見ていない場所で。

 父親が細かくステップを刻みつつ、下がる。


「蹴りを磨いたな ――――真弓よ!」


「…………」


 真弓は現実主義者である。

 一介の女子高生を遥か凌駕する真弓の身体能力ではあるが、腕の力では父には及ばなかった。


 仕方がないので腕ではなく蹴り技を主体として攻めてみた今日この頃である。

 拳一に蹴りが掠る。

 

 靴底が道着を滑り、皮膚が削ぎ削られるような痛み。

 威力が……もはやこの威力、武器といってもいい。



 空手着の父親であった。

 靴は履いていない、裸足である。

 ―――出かけるんだよ。靴くらい履く。



 このためか。

 身体に激痛が残留していく。

 自分だけ、卑怯な―――とは、いや、言うまい。

 これくらいの差があってもいい。

 自分の子供の攻撃!

 くらい、受けきること!



「これが……ッ 出来ずして何が父親か!」


 逃げもしない拳一。

 くわッと双眸をねじ開く。

 迎撃を試みる。



 脛と脛が衝突。

 蹴りには蹴り。



 一歩前に進むが、目の高さからそれが来る。

 生き物のように多彩に使ってくる蹴り。

 上腕と、膝上げて防御した脛に、命中。

 このバリエーション―――まるで腕!




 蹴りが、自分の知っている蹴りではない。

 真弓の蹴りは進化している、そんな蹴りが混ざっている。



 こと脚の長さに限れば、父よりも勝る真弓の蹴撃。

 それは時に風車であり、時に大砲であった。

 左右上下、どこからでも、飛んでくる。



 ふと、それはやってきた。

 真弓が放ったのは、やや緩慢な蹴りだ。

 それを見切り、安全に受け、反撃する―――だが。

 受けると思惑とは異なり、後方に二歩分、吹っ飛ばされる父親。



 重い―――今の蹴り、かかとから飛んできた。

 ガードしても骨まで染みる衝撃。

 鈍い痛み。

 序盤での攻防を悔やんだ拳一。

 蹴りを受けすぎた。

 ……いや、廊下という空間であんな蹴りを出されれば、人類に躱すすべはない。



 空気が弾ける音が響く。

 連続攻撃の再開。

 次第に息が切れていく拳一。

 思ったよりもやる―――ではない、強い。

 強い、この女は。


「ぐ……う……!」


 攻防は長時間続くかと思われた。

 だが拳一は考えを改める、

 慎重にいかなければ。



 自分より強い。

 今の自分ではない、全盛期の自分よりも―――あるいは過去の自分より。

 拳一は自分の衰えを、いつの間にか訪れていた衰えを悟った。

 悟り、そして。しかしまず逃げられない。

 細かくステップで回避、背後、丸太に追い詰められていく。



 蹴りに対して反撃の機会をうかがった。

 やり取りの中、拳がそこまで届かない。

 



 拳一の手刀は稽古の末、ビール瓶を倒さずに細い部分だけ切り落とす練度レベルにまで達していた。

 もはや凶器と言って差し支えない。

 これを組手で使うとは、使わされようとは―――。

 それでも意を決して、腕を狙った。

 真弓に迫る手刀に、黒い影がぶつかる。

 靴のかかとが迎撃した。


「ぐっ」



 手刀、すら!

 組み手では自ら、禁じ手としていた。

 それを叩き弾くか!

 狙ってやったのか―――本当に!?

 小指と薬指に激痛。



 右から薙ぎ払う回し蹴りは鉄パイプが振り回されているかのように触れがたく

 左から突き刺すような前蹴り。

 足指の根本で、それが刺さってくる。

 



 そして疑問、今までとは違う。

 常人なら足を高く上げると上体が背中側に倒れがちなものだが、前傾であった。

 ゆえに父親は背後を気にしつつ下がるしかない。



 ひたすらに攻めの姿勢の真弓。

 下がり、壁際に近付いていく父。



 なんとしてでも父を倒すという気概が全身からみなぎっていた。

 真弓は、父親を前にすると激情が止まらなかった。

 美しく整った顔が、鬼気迫る顔が近い。

 腕が当たる距離、のはず。


「はぁ…ッ は……」


 だが手を出せない拳一。

 有効打を与える手立てがないということを身体がわかっている。

 ことごとく弾かれるイメージが沸く。

 反撃しなければ。

 だがこの状況で反撃出来る手はかなり少ない。

 そしてそれを仕掛けても、届くか?


 右も、左も。

 おそらく弾かれるだろう

 父親も強者だからこそ、それを察する、予知できる。



 腕が届かない。

 娘だけが遠距離から一方的に攻撃して蹴ってくる。

 そんなふうに戦っている。



 だがそれでも足が浮いているタイミングを見つけ、正拳を打ち込む。

 あっ、と思った時にはヒジで追突が来た。


「ぐあッ!?」


 蹴り合いになるがダメージの差は既に歴然であった。

 父親の型、攻撃のパターンは次第に単純化し、真弓はカウンターを適切に入れるのが容易くなった。



 次第にサンドバックと化す拳一の身体。

 娘に靴底で蹴られ削られ、沸いた感情。

 武将の槍撃のような激しい猛攻を前に。



 娘の容赦ない攻撃の数々。

 拳一の眼は蓄積された痛みで細まり、口端はいつの間にか吊り上がる。

 胸中の感情―――歓喜だった。



 強い。

 強くなったのか、こんなに。

 父が見ていない間にすら、特訓を。

 なんていう蹴りだ、今までに見た誰とも違う。

 こんな異常なまでに強い、気迫、技術共に芸術の域の人間。

 それが―――よりのもよって、自分の娘であるだなんて。



 重体は必至、大怪我の気配をひしひしと感じながらも、科木拳一は心が震えていた。

 恐怖からではない。

 なんて、素晴らしいんだ……!



 湧いた父性のため緩んだ頬。

 涙を流した。

 涙を流しているから前が見えなくなった。

 目元をぎゅっと瞼の表情筋で絞る。


「うぅ……うぐっふぅ……」



 真弓よ。

 お父さん、感動で―――前がぼやけるぞ。

 サッカーボールのように吹っ飛んだ拳一の頭部。

 蹴りがクリーンヒットしたのだ。



「が……ッ、あ」



 終わらない、続いて顎に拳骨が炸裂した。

 一度出た隙が命取り、そこに付け入る連続技に、容赦はない。

 彼女もまた、実戦想定。


「目、が……水でぼやけて、見えない」


「そうだな」


 炸裂。

 おそらくは蹴りだ、目に涙の父は見えずにも、身体中に広がる衝撃だけが真実だった。


「ぶ、 マッ……!ねえ! まゆっ……ちょ、お父さん今っ感動の、シーンで」


お父さんの鼻骨と前歯の間に、拳頭が突き刺さって停止した。

骨の音がした。


「うあああああああああああああああああ――――ッ!!!!!」


 脇腹と、首に回し蹴り。

 同時に激痛が生まれた。



「お っごごおォ!」


 鼻と歯にも続いている鈍痛を抱え、ふらつく拳一。



 気のせいだろうか。

 痛い目に合っているはずの男が、これ以上ないほどの笑みを浮かべている。

 苛立ちが降って沸いた。

 真弓は父親の股間を蹴りあげた。



 それは出どころが謎の笑顔に怯えてのことだった。

 思いっきり蹴ったわけではなかった。

 だが必然、悶絶し、身体をのけぞらせ、回り落ちる父親。

 内臓への直撃とでもいうべき異次元。

 周り落ちる―――ことは止められた。

 顔面に真弓の正拳。


 反抗期の不良娘だと言いたければ言うがいい。

 私が難しい時期だと?

 難しいのはこの男の脳内だろ!?


「倒―――れろォ!」



 悶絶する父を滅多打ちにした。

 クソ筋肉ダルマが。

 死なねえよどうせ死なねえよ。

 常人が死ぬところで死なない。

 私は知っていたから人体の急所が並んでいる正中線、十五連撃ほどコンボを入れておいた。



 ―――――

 ―――――


「負けだ……」


 男は大の字になって庭で空を仰いでいる。

 呆然と、表情筋にも力が入らないのか……鼻血を流してたまま。

 静かな語りのため、遠く、カラスの鳴き声が際立つ。



「強くなったのだな……稽古もしたのだろう、俺の……ごほっお父さんの、知らないところで……」


「……」


「見誤って、いた。真弓のことを、実は弱くなったのではないかと、勘違いしていた。お父さんが悪かった」


 …………私は。


「だが、まだ、まだだ……修行に終わりはない。 もっと、この父よりも強い男が……お前をいじめるために、わざわざ大勢の舎弟とかを引き連れてやってくる可能性が、あるにはあるかも」


「ねえよ」 


 真弓は家出した。


 その日私は勝って、簡素な木の門を走りながら駆け抜けた。

 時刻は五時二十分、赤い世界に、夕陽に向かい駆けている。

 じわりと涙が目の端に浮かんだ。



 かくして真弓は激闘を制した。

 父親に一矢報いた。

 音楽性の違い以外の理由で、家族と道を違えた。



 なんだよ……これなんだよこれ。

 音楽の話じゃねえのかよ!

 どうなってんだよ、今回!



 靴は最初から履いていたから、いずれ来ると思われたこの日のために用意していた鞄を背に抱え、町内を駆けていく。

 真弓はひたすらに、町に向かって走った。



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