逃げられない夏の71
「夏といえばやっぱり海ですかね」
蝉が最高潮に鳴き、外に洗濯物を干すとあっという間に乾いてしまうそんな頃。クーラーの前に立ち、アイスを頬張りながらみゆさんは言った。
「海はこの時期、人が多いですからちょっと……」
僕はそう答えながら、クーラーの利きが悪いので団扇を扇ぐ。
「ならお祭りとかもいいですね、出店とかおいしいものがいっぱいですよ」
「祭りも人が多いですよね。聞いてます? 人の話」
「あっ、花火もいいですね。確か来週ぐらいに花火大会がありましたよね?」
「ここから見ることができるのでわざわざ外に出向くことはないですね」
「えっ、いいなぁ。あ、なら花火大会の時も泊まらせてくださいよ」
「いや、帰ってください。大体いつまでいるんですか」
みゆさんはもう五日も自宅に帰らずに、ここに泊まっていた。
「まあまあ。それにあの子だって行きたいはずですよ。ねえ」
そう言うと女の子に抱きつき、顎を頭に置く。相変わらず表情を表には出さないけれど、女の子は特に嫌がる素振りを見せなかった。
本当に仲良くなったなぁ。これは同性同士だからだろうか。だとしても何だか寂しい。一人だけ除け者にされているような気さえする。
「いや、色々お世話になっているのであんまりこういうことを言うのはあれなんですが、若い独身女性がしょっちゅうこういうところに来るのは如何なものかと。大体、最近は帰るのが面倒くさいからって、泊まる準備までしてますし。お仕事の方はいいんですか?」
意趣返しというほどではないが、ちょっとだけ僕は苦言を呈した。
「今は夏季休暇中なので大丈夫ですよー。まあでも、確かにそろそろ一回家に帰らないといけないのは本当ですね。だから今日はもう帰るつもりです」
「そうなんですか」
「ええ。晩御飯はもう作ってあるんで温めて食べてください。洗濯物も陽が落ちる前に取り込んでくださいね。あとは、えーっと何かあったかな」
「大丈夫ですよ。心配しないでください」
「最初ここに来た時の惨状を知っているとちょっと信じられないですよねえ」
みゆさんは苦笑いを浮かべる。
本当にそこは感謝すべきとこだった。僕の手では行き届かないところをみゆさんはフォローしてくれた。どれだけ生活が楽になったことか。しかし、それだけお世話になればなるほど罪悪感が芽生える。だから帰れというのは即ち、申し訳なさの裏返しでもあった。
「それじゃあ、ちょっと行ってきますね」
「もう行くんですか?」
「ええ。ちょっと長居し過ぎたのは本当ですし、休暇中とはいえやっぱり学校が心配ですから。次の電車で――ってもう時間ですね。そろそろ出ないと」
「あっ、そうなんですか。気をつけて行ってきてくださいね」
「……なーんか、嬉しそうなのがちょっと引っかかりますけど。とにかく私が帰って来るまでには遊びに出掛ける場所考えておいてくださいね、では」
名残惜しそうに女の子を抱き締めると、急いでみゆさんは出掛けてしまった。
「……騒がしい人」
みゆさんが出て行った後、女の子はぽつりと呟いた。思わず僕は笑ってしまった。笑い終えた頃には女の子はいつものようにそっぽを向いていた。
そろそろ洗濯物でも取り込もうかと考えていると、机の上にみゆさんの携帯が置いてあることに気付いた。どうやら忘れてしまったらしい。時計を見ると急げばまだ間に合う時間だった。携帯をポケットに入れる。
「ちょっとみゆさんに携帯届けて来るね。外には絶対出ないでね」
女の子のそう言って、僕は玄関に向かう。重い扉を勢いよく開ける。すると何かが扉にぶつかった鈍い音がした。
何だ!?
驚いた僕は扉を開けた先を覗いてみる。そこには何にもなかった。何もいないし、何も聞こえない。いつもと同じ共用通路だった。まるで人でもぶつかったような音だったのだが気のせいだと思った。その時、三軒隣の家から知らない若い茶髪の男が欠伸をしながら出てきた。僕は茶髪の男と目があった。僕はその場を立ち去ろうとした。すると、
「おい! そこのお前、待てよ!!」
と茶髪の男が僕を呼び止め、こちらに走ってきた。
「はい?」
「はい、じゃねえよ馬鹿野郎! ふざけんじゃねえぞ!!」
茶髪の男は僕の胸ぐらを掴むと、ものすごい形相で怒鳴りつけた。僕はなんで怒られているのか理解できず、呆けていた。
「お前、何やったか分かってのか! 泣いてんじゃねえか。可哀相と思わねえのか。見て見ぬ振りか、それでも大人か。お前みたいな奴は人として最低だぞ、分かってんのか!!」
矢継ぎ早に怒声を浴びせられ、僕は頭が真っ白になった。
「あ、あの。な、何を言ってるのか分からないんですが」
「はあ!? すっとぼけんじゃねえよ。とにかく謝りやがれ」
益々胸ぐらを掴む力が強くなってくる。何に対して謝るのか分からないが謝罪の言葉を口に出したくても、息をするだけでやっとの状態だった。
「いい加減にしろよ、お前!」
茶髪の男は僕に殴りかかろうとした。僕はとっさに目を瞑る。だけど拳はいつまで経ってもこなかった。目を開けてみると、茶髪の男の袖を引っ張る女の子がそこにはいた。
「……ど、どう……して」
僕の言葉を無視して女の子は、
「ごめんなさい」
と茶髪の男に言って頭を下げるのだった。
一体、何をやっているんだ。どうしてこうなっているんだ。
僕の頭の中は訳の分からない出来事でごちゃごちゃになっていた。
茶髪の男はしばらく女の子を睨んでいたが、
「――っち」
舌打ちをして僕の胸ぐらから手を離した。
「その子に感謝しな、この下衆が」
茶髪の男はそう言ってしゃがむと、何かを抱える動作をしてどこかへ行ってしまった。そこで僕は気付いた。自分のどうしようもない行いに。確かに通路には何もいなかった。だけどそれは確かにいたのだ。僕には分からない、大切なものが。
「……なかにはいろ」
女の子はそう言って僕に手を差し伸べる。僕はただ、その手をぼけっと眺めるだけだった。
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