おでかけの364

「それじゃあ、行ってくるね」

 臙脂(えんじ)のコートを羽織りながら、朝食のトーストにかじりついている彼女に話しかける。

「夕方くらいには帰ってくるから。昼ご飯は冷蔵庫に昨日の残りがあるからそれを食べて。あと、家にあるものは自由に使っていいからね」

 朝が苦手なのか髪はボサつかせたまま、彼女はぼんやりと宙を眺めていた。

「えっと、誰か訪ねてきても出なくていいから。それと絶対外には出ないでね、絶対だよ。あとは、えーっと」

他に言い残しがないか考えながら、ちらりと彼女の方を窺う。やはり反応はない。というか聞いているのかどうか分かりづらい。

大丈夫かなぁ?

不安は残るが、時計を見るとそろそろ出かける時間だった。けれどこの状態の女の子を一人残していくのには、どうにも後ろ髪を引かれる思いがある。どうしたものかと悩んでいると、

「ふわぁー」

 彼女が大きな欠伸をした。これまでで一番の、いやこの家に来てから初めての自然な表情を見せた。それはとても子供らしい、無邪気で無防備な表情だった。勿論、それは僕に向けてのものではなく、寝ぼけている故の素の表情だったのだろうが、なんだかそこに初めて『娘』としての彼女を見た気がした。

「……行ってきます」

小さくそれだけ言うと、買ったばかりの杖を手に持って玄関に向かう。こうして彼女を一人家に残し、僕は出かけるのだった。

自宅から僕は駅に向かった。道中はリズムを刻むようにアスファルトに向かって杖を突く。駅に着き、さらに電車で一時間ほど揺られ、閑散とした無人駅で降りた。そこから舗装されていない道を、落ち葉を踏み抜く音に耳を傾けながら僕は歩いていた。先に進むほど人工物が見当たらなくなってきて、勾配もきつくなっていく。道が不安定なのでうまく杖先が接地できない。だから杖を突くのを止めた。途中、何度か立ち止まって腰を軽く叩く。そのときだけ支え棒として杖を使った。あとはずっと脇に抱えて歩く。

そうこうしているうちに広い平地に出た。常緑林が綺麗に並べられ、まるで塀のように辺りをぐるりと囲んでいる。驚くほど静かで、飛び去るカラスの鳴き声がとても響いた。奥の方にまるで放置されているかのようにぽつりと一つだけ建物があった。

それは学校だった。

 一般的な学校と比べるとそこの校舎はかなり小規模で、プレハブ小屋を三つ並べて繋げているような佇まいだった。壁や窓には植物のツタやツルが自由に闊歩している。敷地内も雑草は伸びに伸び、石があちこちに転がっていて足を取られそうだった。自然の中の学校といえば聞こえもよいが、手入れが行き届いていないだけなのが目に見えて明らかだった。どうやら廃校になって久しいようで、荒れに荒れている。唯一、校舎玄関の横に植えられているオリーブの木の周辺だけが綺麗に整備されていた。逆にそれが周囲と浮いて見え、奇妙だと思った。

手前には一文字区切りの真新しい看板が木々に打ち付けられていた。

「や、す、ら、ぎ、の、家」

看板にはそう書かれていた。これがなければ目的の場所がここだとは到底思わなかっただろう。

どうしてこんな辺鄙な場所を訪れたのか。それはある人に会うためだった。

膝のところまで伸びている雑草を踏み倒し、しっかりと足元を確認しながら僕は学校の敷地内に入っていった。

校舎付近まで近くと声が聞こえた。さっき周辺を眺めたときは誰もいなかったみたいだったので少し驚いた。

「頑張ろう、ね?」

 その声はオリーブの木の方からだった。気になって覗いてみると、木の根元でしゃがみ込みこんでいる女性がいた。どうやら校門のところからは木の陰に隠れて見えなかったようだ。女性は端正な顔立ちで、けれどどこか幼さも残している。薄手のジーンズにシャツ、その上にデフォルメされた動物のワッペン付きエプロンをつけて、髪をひとつにまとめている。なんだかまるで保育園の先生みたいだった。

「……あっ」

 僕の気配に気づいたのか、女性は背後を振り返った。そして小さく声を漏らす。なぜかひどく驚いた表情をしていた。都合がよかったので僕はこの人に尋ねることにした。

「すみません、こちらに『橘みゆ』さんがいらっしゃると聞いたのですが」

 すると女性の顔に少しだけ翳が宿った。おや、と思ったがすぐに女性が、

「あっ、えっと、かた……お義兄さんですよね」

 と、返答してくれたので改めて表情を窺うことまではしなかった。女性は多少しどろもどろになりながら僕のことを兄と呼んだ。急にそう呼ばれて少し驚いたが、しかしすぐに見当がついた。

「あっ、もしかして」

「はい、私です。私がみゆです」

 そう言いながら保育園の先生みたいな女性――みゆさんは軽くお辞儀をする。

「久しぶりですね。すみません、気付かなくて」

「いや、しょうがないですよ。確か、去年の法事以来ですよね。あの頃の私はなんというか、子供でしたから」

ちくりと頭が痛む。態度に出るほど大きなものではないが、鋭い針を柔肌に刺しては引き、刺しては引いているときのような歯痒い痛みに似ていた。言葉が刺さるとはこういう事なのだろうか。

 罪悪感にも似た感情がよぎる。確かに久し振りに会ったとはいえ、まったく気付かないというのは失礼だった。だけどそれもしょうがない。僕は彼女に会ったという自覚がない。というより目の前にいる彼女から記憶の中にいる誰にも面影が重ならない。本当に初めて会ったかのような気さえするほど覚えがない。

僕が狼狽していると、みゆさんはちらりとオリーブの木の方に視線を移す。そしてまた僕の方を見る。だけどどうにもオリーブの木が気になっているようだった。

「お忙しいのでしたら改めて出直してきますが」

「あ、いえ。大丈夫ではあるんですが……。えっと、一体今日はどうしたんですか?」

 少し言葉に詰まりながら、不審そうな面持ちで彼女は言った。

「今日はちょっとお願いが、というか話がありまして」

「そう……なんですか。なら、ここではなんなので中へどうぞ。その前にちょっと待ってくださいね」

 そう言って、みゆさんは職員を呼んで「お願いします」とオリーブの木の根元の方に目配せした。呼ばれて校舎から出てきた職員さんは僕を見て軽くお辞儀をすると、根元の方へ駆けつけて同じようにしゃがみ込むのだった。

 他にも人がいたのかと驚きつつ、ちょっとだけその行動が不思議に思えた。しかしすぐに木の世話でもしているのだろうと考えた。これだけ荒れているのだ。他のところには手が届かなくても、せめてこの立派なオリーブ周辺だけでも整えておきたいのだろう。それほどこのオリーブの木は象徴的だった。

 校舎玄関の方へ行くと靴脱ぎ場にはブルーシートが広げてあり、そのまま通路にも敷いてあった。

「靴のままであがってください」

言われた通り、僕はシートの上を靴のまま歩く。すると、ぺきっ、ぱきっ、とまるで霜がかった畑に足を踏み入れた時のようなひび割れる音がした。

「一応、足元とか気をつけてください。ガラスの破片もまだ散らばっていたりするので」

 確かに改めて周囲を見回すと、窓は枠ごと外されて木の板が代わりに置いてあった。ただちょうどいい大きさのものがなかったのか、隙間があちらこちらに見受けられた。そこにはブルーシートを張り、ガムテープで留めて、なんとか雨風を防いでいるみたいだった。壁もひびが入り、今にも崩れそうなとこもある。

これはまた……。

その惨状を見て、僕が驚いていると、

「まだ改装が終わってないんですよ。なにしろ何十年も前に廃校になって、そのまま放置。それはもうひどい荒れようでしたよ。どこの世紀末だよって買い取ってきたはずの園長さんも言ってました」

 苦笑しつつ、みゆさんは説明してくれた。

「だからですか。んっ?」

 何かを叩くような音が聞こえた。それは通路左にある部屋からだった。学校だった頃の教室らしく、黒板と机、椅子があった。そこにはみゆさんと同じエプロン姿の職員が穴の開いた壁をとんかち片手に塞いでいるところだった。こちらに気付くと軽く会釈をして、また作業に戻った。

「もしかして自分たちで改装をやっているんですか?」

「ええ。でも、今までないない尽くしだったのでこれくらいのことは慣れっこになっちゃいました。それにやっと自分たちの居場所が出来たって、みんな張り切っちゃってます」

 確かに数人の職員が忙しなく動き回っている。生き生きと活力にあふれていて、その誰もが僕にとって眩しく映った。見蕩れているとみゆさんが振り返り、

「ところでいつから杖を? 足も悪いっていうのは聞いてなかったんですけど」

 と、杖を指さしながら質問してきた。

「あー、これは違うんですよ。なんというか自分なりの配慮、ですかね」

 持っていた杖を数回突く。やはりビニール越しにガラスが割れる音しかしなかった。

「……そうですか」

 みゆさんはそれ以上この話題に触れることはなかった。

 案内された部屋は段ボールがいくつも積まれていて、机とパイプ椅子しかなかった。殺風景で、引っ越しの前後の様相だった。

「ごめんなさい。ここもまだ片付いていなくて……とりあえず適当に座ってください」

「いえ、こちらこそ忙しいときにすいません」

 そう言いながら僕はコートを脱ぎ、杖を立てかけてからパイプ椅子に座った。右手には窓があり、そこからは先ほどのオリーブの木が見えた。風に揺られ、枝葉の隙間から心地よい木漏れ日が入ってくる。

「立派なオリーブですね」

「えっ? ああ。ええ、そうなんですよ。あれはここのシンボルですからね」

「シンボル?」

「はい。かっ……お義兄さんはオリーブの花言葉ってご存知ですか?」

「いや、知らないですね」

「オリーブの花言葉は安らぎ。この施設と同じ名前ですね」

「なるほど、だからシンボルなんですね」

「はい。えっと、片桐さんはここがどういう意味を持っているか知っていると思うんですが」

「ええ」

 それは知っている。だから僕はそのまま、

「隔離、ですよね」

 とだけ答えた。

「まあ、そうですね。ちょっと言い過ぎな気もしますけど」

 そう言って、みゆさんは苦笑した。

『やすらぎの家』。ここは色んな理由から世間と距離を置かなければならなくなった、せざるえなかった人達を保護する施設である。しかし先ほどからの様子から分かる通り、規模はまだ小さく、ボランティアの人を雇ったり、寄付金を募ったりすることでどうにかやりくりしている現状である。

「悲しいことですがここに辿り着く人たち、その多くが心身をひどく痛めています。特に未成熟な子供が多くて、一生癒えることのない傷を負っているものさえいるのですから。本当に、もう……」

 そこで言葉を止めてから目を伏せ、息をつく。

「私たちは一時的にですけど、彼ら彼女らが以前のように笑ったりできるように、やすらぎを与え続けなければなりません。無理にでも普通の幸福を与え続けないといけないんです。自然に笑える日が訪れるように。それが私たちの仕事です」

 みゆさんの顔から先ほど感じた幼さはなくなった。僕の前にいるのは一人の、大人の女性だった。

「今までは賃貸でもよかったんですが、受け入られる人数に限界があって。だから去年この廃校と土地を買うことができてやっと一歩前進ってとこです。まあ、お値段相応でこの惨状なんですが」

 最後のところは軽いトーンで、肩をすくめながら言った。

「すばらしいです」

 僕はそれ以上言葉を重ねることはしなかった。するりと出た賛辞の言葉を無駄に飾りたくなかったのだ。みゆさんは褒められ慣れていない子供のように破顔する。そして小さく、「ありがとうございます」と呟いた。

「あなた達が行なっていることは人道的で、とても立派です。僕としてもあなた達のような方たちと関わっているという事実は誇らしくさえ思います」

「恐縮です」

「だからこそ僕はここに来ました」

「……はあ」

 唐突な僕の言葉にみゆさんはとりあえず頷いている様子だった。

「それでですね。先ほどの頼みたいことへの話に繋がるわけですが、実はもう一人、ここに加えてもらいたい子がいるんですよ」

「えっ……?」

 みゆさんは呆気にとられる。しかしすぐに、

「まさか!」

 と、険しい顔つきになった。

あの子と違って随分と表情がコロコロ変わるなぁと思った。

「はい。以前話したと思うんだけど、女の子を――いや、娘を一人、ここに預けたいと思っているんです。どうでしょう?」

「馬鹿じゃないですか!?」

 僕の頼みを聞くなりみゆさんは勢いよく立ち上がった。パイプ椅子が段ボールの重なったところへもたれるように倒れる。

「やっぱり反対なんだね」

「当たり前です! 何を考えているんですか、あなたは!!」

「そこをなんとかお願いできないかな。もしかして空きがないとか?」

「いえ、その辺はどうにかなります。ある程度使えるぐらいここを改装してからじゃないといけないから早くて再来月辺りにはなると思いますけど――じゃなくて、そういう問題ではないです!」

勢いよく机を叩く。

「お姉ちゃんに悪いと思わないんですか!?」

 それを聞いて僕は下唇を噛んで、口を閉ざすことしかできなかった。

「黙ってないで何か言ってくださいよ!」

「これしか、なかったんだ」

 口に出せたのはそんな諦観した言葉だった。

「そんなの! ……そんなのってないじゃないですか。他にもっとやりようがあったはずです。少しずつでも、ゆっくりだったとしても! それにこんなやり方、あの子だって――娘さんだって悲しむはずです」

「かもしれませんね」

「かも、じゃなくてそうなんです! そうに決まってます」

「卑怯なお願いだとは分かってる。だけどしょうがないんだよ。僕にはこれしか手段がなかったんだ。だから頼まれてくれないかな」

 僕は懇願する。みゆさんは一度何かを言いかけて、ぐっと堪えて呑み込んだ。そしてゆっくりと静かに、

「……どうして私なんですか?」

 じっと僕を見つめながらみゆさんは言った。

「頼める人がいないんだよ。僕には君しかいない」

「ずるいですよぉ……こんなの」

顔を伏せる。頬まである髪の毛がさらりと流れる。言葉の最後の方は涙声だった。

「……ごめんね」

「謝らないでくださいよ。ほんと、こんなのってないじゃないですか……」

「しょうがないんだよ」

そう言った瞬間、室内に乾いた音が響いた。遅れて僕の頬には鈍い痛みが走った。

「……っ」

 きつく睨みながら、みゆさんは涙を流していた。

「……ごめん」

 僕はただ謝ることしかできなかった。



「……分かりました」

 しばらくして、泣き止んだみゆさんは渋々ながらではあるけれど僕の頼みに頷いてくれた。

「よかったぁ。ありが――」

「けど、一つだけ!」

 お礼を述べようとすると、みゆさんは僕の鼻先に人差し指をピッと突き出し、

「条件として私にもその子の面倒を見させてください!!」

 と声高らかに宣言した。

「えっ! いや、でもそれは……」

 迷惑になりますし、と言葉を続けようとすると、

「それ以上言ったらもう片方も叩きますよ」

 そう言って、手を振りかぶる仕草を見せる。

「もう十分迷惑はかけられてます。だからもう私にそんな気を遣わないでください」

「でも――っ!」

 それでも言い返そうとする僕に、みゆさんはきっと睨み、平手から拳をつくった。僕は慌てて、

「あー分かりました、分かりました!! ぜひよろしくお願いします!」

 と両手を挙げて降参のポーズを取る。つくづく自分の弱さが情けなくなる瞬間だった。

「それでいいんです」

 鼻を啜って、みゆさんは照れ臭そうに笑顔を浮かべた。

 まいったなぁ、敵わないや。

 そう思い、頭を軽く掻く。そんな表情を見せつけられたら思い出してしまうじゃないか。

 はやくここから離れたくなって、僕は椅子から立ち上がった。

「そろそろお暇しますね。お忙しいみたいですし。詳しい話は後ほど連絡させてもらいます。これ今の連絡先です」

 矢継ぎ早にそう言って、僕は連絡先が書かれた用紙を机の上に置く。

「では」

 手早く荷物をまとめ、出口に向かう。

「あっ、ちょっと!」

 ドアの取っ手に手を掛けようとしたところで、みゆさんが僕を呼び止めた。

「えっと、本当にこれでいいんですか、おにい……いえ、片桐さん」

 切ない響きがそこには混じっているような気がした。だから僕はゆっくりと振り向いて、

「お姉さんに……朝日(あさひ)に似てきたね」

 とだけ言って、部屋を出た。

「……ばか」

 背後から投げかけられた小さな呟きに、僕は気付かない振りをしてこの場を立ち去ったのだった。

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