始まりの365

 僕は机の上に置いてある写真立てを伏せた。壁に掲げてある黒猫のデザインをした時計を見ると十六時を指そうとしている。

「そろそろか……」

 時計から視線を外し、今度は室内を見渡した。この部屋は実に可愛らしいものに溢れている。入り口正面の壁に対して置かれている勉強机と丸椅子は至る所にプリントシールが貼られていて、一見するとままごとにでも使う玩具のように小さくて易い造作(つくり)のものだった。そのすぐ隣にあるベッドは子供一人が横になれるだけのスペースを残し、可愛さを寄り集めたようなぬいぐるみの集団によって占拠されていた。さながらその光景はぬいぐるみの棺桶のようだった。このベッドで一夜を過ごせばさぞかしファンシーな夢を見ることうけあいだろう。たまご型のおもちゃ箱には中身が詰まっていて、蓋が閉められずに人形の足だけがはみ出ている。所々に散りばめられている、とても機能的には見えないデザインの小物たち。白い壁にはクレヨンで絵が描かれている。色とりどりの花やかろうじて特徴が残っている動物、大人の僕ではもう判別するのが不可能な作者の想像力の高さを思わせる未知の何か。どれもつたなくて何の脈絡もない絵だったけれど、どこか微笑ましい。

僕がその中で一番気に入っているのは女の子と夕日の絵。鮮やかな夕日を背景に小さな女の子が笑っているだけのささやかなもの。シンプルな構図ではあるが、だからこそ素直に伝わるものがある。だから僕はこの絵が好きなのだ。クレヨンで描かれている髪の毛をなぞるように指を這わせる。ざらざらとした壁の感触が指先に伝わる。触れた指を見ると、うっすらと黒いクレヨンの色が移っていた。

それにしても、だ。

改めて僕はこの部屋を眺める。どうもこの部屋は二十代の半ばを過ぎようとしているおじさんにはとてもくらくらする場所だった。場違いのような、入ってはいけないところに足を踏み入れているような奇妙な恥ずかしさを抱かせる。

 そう――これではまるで間違って女性専用車両に乗り込んでしまったときのような、そんな気まずさだ。

 陽が落ちて暗くなってきたので明かりをつけた。鮮明になった室内はやはりと言うべきか、どうにも落ち着かない。丸椅子が机に対してきちんと並んでいない気がして、位置を直してみる。そしてまた部屋を見渡してはどこか気になって掃除をしてみたり、物の位置を入れ替えたり、直したりと僕は忙しく動いた。同じようなことを今朝の六時からやっているから丸十二時間働きっ放しということになる。とはいえ、そこまでこの部屋が散らかっていたかというとそうではない。この部屋の掃除自体は最初の二時間くらいを使って早々に終わっている。それでは今現在何をしているのかといえば暇を持て余しているのだ。約束の時間が十六時。それまで大人しくすることなんてできなかった。約束のことばかりが頭をよぎってそれどころじゃなくなる。気を紛らわそうと他の部屋を掃除したり、テレビを点けてみたり、とにかく考える前に身体を動かしてみた。けれど何かしら始めても次第にそわそわと、そしていらいらしてくる。うろうろと家の中をうろつき、結局はこの可愛らしい部屋を訪ねてしまう。そうなるとあそこが気になる、ここも気になると、ほぼ大差のない作業を延々と繰り返すのだった。今だって六時間前に並べ替えたぬいぐるみの配置をまた入れ替え直している始末。

――ほんと、何をやっているんだろう。

 自分の現状を省みて、思わずため息をつく。部屋の雰囲気に呑まれているのかもしれない。ピンクに染まっている室内同様、僕は舞い上がっている。

 落ち着けと自分に言い聞かせるように、持っていたクマの着ぐるみを被っている犬のぬいぐるみをゆっくりと置く。

すると玄関のインターホンが鳴った――と同時に僕の鼓動が大きく高鳴る。胸の高鳴りがスタートの合図のように、玄関に向かって勢いよく走り出す。数メートルもない距離だというのに玄関に辿り着いた時には既に息が上がっていた。それが緊張によるものなのか、興奮によるものなのかは定かではない。

「ふぅ――っ」

深呼吸をして、玄関のドアノブに手を伸ばす。とくん、とくんと、先ほど静まりかけた鼓動がより強く、速くなったのを感じる。焦りと、手の平にかいた汗で滑ってしまって上手く回せない。音が鳴るだけで空回りしてしまう。立て付けが悪いのも相まってドアノブを完全に回しきらないと開かないのだ。舌打ちをして、それならばと両手で握りしめる。今度は上手くいったようで、しっかりと回すことができた。ごくりと喉を鳴らす。ドア一枚を挟んだ向こうに、いるのだ。僕はもったいぶるように、徐々にドアを開いていった。重い扉は外との隙間が大きくなるほど軋むような物々しい音を立てる。ふと隙間から覗き見えたものがあった。そこで僕は思わず顔を伏せた。

目に入ったのは小さな靴。

何かしらの模様をかたどった、複雑な網の細工が施してある黒い靴だった。それを見た瞬間、僕は後悔にも似た感情を抱いた。なんだか途中でネタばらしにでもあったみたいな気がしたからだ。どうせならちゃんとした条件で対面したいとおもむろに、そう思ってしまったのだ。何を持ってちゃんとなのかは自分でもよく分かっていないのだけれど、せめて形だけでもそうしたいと考えてしまったのだからしょうがない。ならば旋毛を相手に向けたままでは失礼だと考え、一度伏せた頭を上げる。その代わりに素早く目を閉じた。

扉は完全に開けきった。冷ややかな秋風が僕の短い前髪を揺らす。しかし、まだ僕の眼は閉じられていた。この目を開ければいよいよ遮るものが何もない。僕の目の前にいる何かと面と向かうことになる。

深呼吸をする。下唇を軽く噛み、舌を少しだけ出して舐める。握り拳を解き、一見掌を太腿の横に添えているようにして汗を拭きとる。そして僕は覚悟を決め、目を開けた。

 そこにいたのは小さな女の子。

 黒いブラウスと白いロングスカートという上下対照的な服装。瞳は碧く、ビー玉のように透き通っている。腰まで伸びた髪はつややかな銀髪で、風が吹き、彼女の髪が揺れ動くたびに蓄えた光を粒子として飛び散らせているみたいにきらきらと輝いて見せた。

 ――これはもう、人の美しさではない。

 そう思った。

 女の子の口が開く。

「はじめまして。わたしは――」

 しかし、女の子の言葉はそこで途切れた。なんてことはない。僕が彼女に勢いよく抱きついたからだ。それは崩れ落ちるように、力尽きて倒れ込むように彼女を包み込んだ。抱きつく腕は震えていて、目には涙を浮かべながら僕は初対面の彼女にこう囁いた。

「おかえりなさい」

 陽は落ちた。夕闇にも映るその影は、僕のものか彼女のものか。

それとも。



いつまで抱き締めていただろうか。少なくとも僕にとっては瞬く間の出来事だったように感じた。しかし終わりというものは実にあっけないもので、

「痛い」

 ぽそりと呟かれたその一言で僕は我に返った。

「あっ、ごめん」

 小柄な体躯を包み込んでいた僕の腕から彼女を解放し、素早く立ち上がって離れた。濡れた頬が赤く染まったのを感じる。よくよく考えれば泣きじゃくった大人が少女に抱きつくというのはあまりに格好がつかない。体裁を整えようと、急いで洋服の袖で涙を拭く。その手つきが少々乱暴だったので、目許が布で擦れて空気に触れるとひりひりした。

「もう入っていい?」

 少女は僕の服の端を掴み、一方は家の中を指さしながら言った。

「あぁ……そうだね。まず、中に入ろうか」

 扉を押さえて、彼女が入りやすいように身体を横に避ける。今更だが自分が靴下のまま三和土に立っていることに気付き、恥ずかしさを誤魔化すように鼻を啜った。

「お邪魔します」

 そう言って、彼女は玄関前でお辞儀をした。さらりと流れた髪からは光の粒子が少しだけふわりと舞った。思わずその姿に見蕩れてしまい、中に入ろうとした彼女をそのまま見逃しそうになった。

「あっ、ちょっと待って」

 と、慌てて彼女の行き先を遮った。彼女は不思議そうな顔で僕の手を眺める。ひと通り眺めると、次に僕の顔を見上げた。身長差のせいで見上げる姿が痛々しく映る。彼女と目線を合わせるために僕はしゃがみ込んだ。そして華奢な彼女の両肩に手を添えるように触れる。それはとても小さく、なんだかうっかりと壊してしまいそうな、実体がないのではないかと疑いたくなるほど繊細なものだった。

「いいかい。今日から君もこの家の住人になるんだ」

 諭すような口調で僕は語りかける。

「だからお邪魔しますだなんて、そんな他人行儀にならないで欲しいかな」

「……うん」

「分かってくれたのなら嬉しいな」

 そう言って僕は彼女の頭に手を置こうとして、しかしその途中で手を止めた。そしてそのまま緩やかに下ろす。やり場を失くした僕の手は何をするわけでもなく、虚しくぶらつくだけだった。

それにしても賢くて礼儀正しい子だ、と僕は思った。はたして、自分がこの子と同じ年齢だった頃、ここまでできただろうか。いや、自分は生意気な小僧だったと記憶している。それに――と、色々な考えが頭をよぎり項垂れてしまう。その代わりというわけではないが、ぽつぽつと口が動き始めた。

「それでさ。あの、せっかく家族になったんだし、僕のことは、その……できたら、さぁ。えっと、お父さん……って、呼んでくれないか」

 言い終わった後、急にコップ一杯分ほどあるのではないかと思うぐらいの唾が口に溜まってきて、それをごくりと飲みこんだ。勿論、それで渇きが癒えることはなく、突然の不安に苛まれ、暗い感傷に浸りそうになる。すると頭に痛みが走った。後悔が生む幻のようで、けれど決して消えない現実でもあった。逃げ切れない痛みは次第に範囲を広げ、僕の視界を奪っていく。世界に色が失われていく。大事なものから先に零れ落ちる。僕にはもう見えない。どんどん世界が無機質なものへと変化を遂げる。そしてこのまま何もかも奪われたまま、僕の世界が消えてなくなりそうだった。少しずつ、けれど確実に。

しかし、そうなる前に僕の意識を助けたのは彼女の一言だった。

「わかった。おじさん」

 それは僕の提案に対する完全なる否定だった。あまりに迷いのないその言葉に、先ほど感じていた暗い気持ちはどこかに霧散して、世界に色が戻り、そして痛みも嘘のように消えていた。なんだか夢みたいで僕は思わず苦笑してしまった。頬を軽く掻いてみる。どうやらまだ僕は大丈夫のようだった。

「おじさん、かぁ。……どうして、とか聞いてもいいかな」

「決まりなので」

 淡々と彼女は答える。それを聞いて僕はハッと息を呑んで、それからじわりと目頭が熱くなった。

 ――そんなこと言わないでくれよ。

 喉のすぐそこまで言葉が出かけたが、それこそ言ってはならない台詞なような気がしてぐっと呑みこんだ。

 ふと彼女の足元に目がいった。先ほどは気付かなかったがその細い足首に黒いアンクレットをつけていた。それは一般的なものと違い、少女がするにはあまりにも無骨で物々しく、またつなぎ目や留め具なども一切なかった。

 どうやって嵌めたんだろう?

簡単に取り外せるような代物ではない。奇妙に思い、もっとよく観察してみようとアンクレットに手を伸ばし、

「いたっ!!」

 蹴られた。

 伸ばした僕の手を、目の前の少女は何の躊躇いもなく、思い切り蹴ったのだった。

「これに触るな……いでください」

 小さな手でアンクレットを庇いながら、彼女は睨みつけてくる。

「あっ、ごめ――」

いい大人が情けないのだが、彼女が発するあまりの剣幕に、反射的に謝罪の言葉がこぼれそうになる。しかし、

 ぐぅー。

なんとも間の抜けた音が辺りに響く。それは僕のお腹の中からだった。そういえば朝から何も食べていないのを思い出す。

 二人の間に沈黙が訪れる。

 どうしようもない気まずさが漂う。何もかもがぐだぐだのぐちゃぐちゃだった。だから僕は、

「……ご飯、食べよっか」

 彼女から顔を背けて、そっけなくそう言うしかなかったのだった。

 ほんと、格好つかないなぁ。



 かちゃかちゃと食器がぶつかる音だけが場を占める。お互い何も喋らないまま、皿の上には予め買ってきたおいた惣菜が並んでいて、それらだけが順調になくなっていく。なんとも寂しい夕食の光景だった。

「えっと、テレビでもつけようか?」

「…………」

彼女は無言で首を振り、そして冷奴をつつく。

「そ、そっか。まあ、行儀悪いしね」

「…………」

 何の反応もない。崩れた冷奴を箸で掴もうとしていることだけは分かった。僕はとりあえず一口サイズのチーズ入りハンバーグを口に入れる。

「……えっと、とりあえず遠慮しないでいっぱい食べなよ――って言っても僕が作ったわけじゃないんだけどね、あっははは」

「…………」

 彼女は何も言わない。せっかく掴んだ冷奴の欠片が箸から崩れ落ちたからではないだろう。

「ほら、メンチカツもあるよ! どう?」

 と、メンチカツを箸で取って見せる。しかし彼女はちらりと見ただけで、またしても首を振った。そして今度は塩鯖に手をつける。

「あははは…………」

 なんとかコミュニケーションを図ろうとするが、彼女は寡黙にイカの塩辛に箸をつけるだけだ。

 その後、どうにか雰囲気を変えようと色々試みたが、結局僕の乾いた笑いしか出てこなかった。奇妙な緊張感が食卓を囲むばかりだ。

彼女を迎えるにあたって僕は張り切っていた。部屋の掃除は勿論、今晩のご飯にしてもそうだ。好みを知らなかったのでとりあえず子供が好きそうなおかずを適当に見繕ってきたけれど、これが少しばかり買い過ぎた。机の上はちょっとした祝い事の席みたいに豪勢なことになっている。いや、実際彼女に会えたことは喜ばしい出来事ではあるから間違いではないのだけれど、それでもやはり二人分にしては惣菜の量が多いことに変わりはない。だから全部とまではいわないまでも、成長期女子の食欲に多大な期待をしていた。けれど当ては見事に外れた。彼女はそれらにはほとんど手をつけず、代わりに僕が食べようと買ってきたものばかりに手を付けるのだった。今だって砂肝を取ろうとしていた。

それも僕のなんだけどなぁ。

そう思いながらも、しかし今更自分のものなんて主張をするのはなんだか大人げない気がして、代わりに彼女のために買ってきた惣菜たちを食べる。

 気付かれない程度に軽くため息をつき、メンチカツを頬張る。パリッとした感触が今は少しだけ憎らしい。

僕は正直困っていた。何を喋ったらいいのか、そもそもどう接したらいいのか分からない。初対面の子供、それも第一印象を明らかに失敗してしまったこの場合、どう対応するのが正解なのだろうか。先ほどの失態を素知らぬ顔でなかったことにして、大人然と振る舞うべきなのか。それとも子供目線になって一緒にふざけ合うぐらいで付き合っていけばいいのだろうか。しかし、彼女に対してどちらの対応も正しくない気がする。でもこうやって正しくないと考えていることすら実は正しくなくて本当は気楽にやっていけばいいのかもしれない。もう訳が分からない。本当にこういう時はどうしたらいいのだろうか。知っている人がいたら誰か教えてほしい。切実に、そう思う。

しょうがない。

僕は一度軽く咳き込み、

「あー、そうだ」

 と、我ながらわざとらしい前振りから話を切り出すことにした。

「来たばかりでこんなことを頼むのは悪いんだけど、明日はちょっと出かける用事があるから留守番をお願いしてもいい、かな?」

 本当ならばもう少し仲を深める、もとい溝を埋めてからにするつもりだったのだけれど、このままだと益々言いづらくなりそうだったので思い切ることにした。

 僕の頼みを聞いた彼女は食事の手を止め、しばらくぼうっとした様子を見せた。一体どうしたんだろうと首を傾げていると、

「わかりました」

 と呟いて、しかしそれだけ言うと彼女は食事をすぐに再開した。一瞬、何のことか分からなかったが、すぐにさっきの頼みごとに対する返事であることに思い至った。

 さっきの間は返事を考えていたのか。ちょっと変わったペースの子だな。

 そんな風に思い、くすりと微笑む。

ほんの少しだけどこの子に近付いたような気がして嬉しくなった。

「ありがとう」

 お礼の言葉を述べる。彼女は言葉を返すこともなく、黙々とこれまた僕のキュウリの浅漬けをかじる。だけどそんなことはもうどうでもよくなっていた。これが僕と彼女の最初の晩餐なんだと考えたら可笑しくて面白い。

彼女に分からないように小さく笑う。皿に盛ってあるから揚げを一個取って、口に放り込む。ゆっくりと咀嚼しながら僕は、

 明日は胃もたれだな。

 彼女を眺めながら、そう思うのだった。

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