その日は春だというのに

美月 純

第1話

その日は春だというのに、雨がシトシトと降り続く、肌寒い日だった。


いつものように午前六時三十分に起床した僕は、いつものようにトイレに入り、シャワーを浴びて、風呂上りにスポーツドリンクを飲んで、スーツに着替え、少し考えたあげく薄手のコートを羽織はおって外へ出た。


予想以上に寒く、玄関の鍵を閉めながら


『もっと厚手のコートでもよかったかな……』


と考えていた。


駅までの道のりで、傘を差して自転車に乗った女子高校生とすれ違った。


細かな霧雨だったので傘を差さずに歩いてもよいくらいだったが、あいにく僕は眼鏡をかけているので、水滴で視界が遮られてしまうため、仕方なく傘を差していた。


駅に着くと、一人の少年を見かけた。

まだ中学生くらいだろうか。

それにしては私服だし、少し身体が大きい小学生か、とも思った。


改札を抜けようとした時、その少年が声をかけてきた。


「おじさん……」


確かに三十を過ぎていたので、おじさんと言われても仕方ないが、自分では結構若いつもりでいた僕は少々ムッとしながら、


「なんだい、ぼうや」


大人気おとなげなく「ぼうや」を強調して少年に言葉を返していた。


意に反して少年はニコッと笑って


「すみませんけど、お金貸してくれませんか、150円でいいんですが……」


どうも電車賃がないらしい。


150円なら一駅分だから、隣駅に用があるのだろう、と思い、朝の通勤途中ということで、面倒に巻き込まれたくない気持ちもあり、特に理由も聞かず、その少年に150円を貸した。


「ありがとう、おじさん……」


苦笑いするしかなかったが、不思議とさっきほどムッとした気分ではなかった。


僕は少年が切符を買っている姿を横目で見ながら定期でそのまま改札を通り、いつも乗り込むホームの定位置まで少し早足はやあしで歩いた。


定時に電車が到着し、人の波をき分けながら、電車に乗り込んだ。


ここから会社の最寄駅までは三十分、電車は通勤ラッシュの時間帯だが、僕が乗る駅はメインステーションのため、けっこう降りる人もいて、座れはしないものの、つり革に普通につかまれるくらいの余裕はあった。


電車に乗り込んだあと、ふっとさっきの少年のことを思い出した。


『ちゃんと電車に乗れたのかな……』


ちょっと周りを見回してみたが、それらしい少年の姿はなかった。


『まぁ大丈夫だろう……でも、学校はどうしたんだろう……』


そんなことを考えているとき、車両がガクンッとなって、急に電車が止まった。


突然のことで誰も状況が飲み込めず、車内は一瞬水を打ったように静まり返った。


しかし、停止から一分もしないうちに、客が騒ぎ出した。


「なんだよ。急いでるのに!」

「なーに、早くアナウンスくらいしなさいよ」


口々に言葉を吐き出す客たちの中、黙って様子をうかがっていた。

さらに一分くらいしてからアナウンスがあった。


「えー乗客の皆様にはたいへんご迷惑をおかけしておりますが、今車内に不審物が発見されたとのことで、車掌が点検をしています。

特に危険はないものと思われますので、今しばらくそのままお待ちください」


「不審物?」

「おいおい。冗談じゃねぇぜ」

「やだぁ、勘弁してよ。

とっとと次の駅まで行ってから止めればいいのに。

こんな線路の途中じゃ警察も来れないじゃない!」


また客が騒ぎ始める。

僕も今日は午前中に大事な商談があったため内心


『頼むよ、こんなときに……』


と考えながら、早く電車が動くことを願った。


ガチャ、ピーピー


「えーただいま、特に不審物らしきものは発見されませんでしたので、このまま発車いたします。

お急ぎのところ大変ご迷惑をおかけして申し訳ございません。

間もなく発車いたします」


アナウンスが告げると、


「ったく冗談じゃないぜー」

「急いでるのにすっごい迷惑!」


と客が口々に罵声を飛ばし、再び車内がざわついたが、すぐに平静を取り戻し、発車の瞬間を待った。


ガタンッ


電車が発車の一歩を踏み出した。

その時、


「ドッ!」


という音だけが耳に残り、次の瞬間、目の前が真っ白になり、耳が聞こえなくなった。

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